25話  乳母や

 ヤチグサは黙り込んだ。むかし語りは終わったようだ。


(娘の産んだ子は——)

 シェマは思った。

 娘と語ってはいたが、それはヤチグサのことなのだ。


 どう言っていいのかわからなくて、するとヤチグサと視線が合ってしまった。

ヤチグサは、ふっと笑みをたたえた。

「お顔を拝見して、しみじみと昔を思い出しました」

 しげしげとシェマの顔を見た。

「——この乳母やが、皇子とお別れしたときは、始終、熱が出ては寝込んだりで、とうてい十三詣じゅうさんまいりを成されるほど、健康になられるとは思えなんだが。お元気になられましたな」


「あ」

 シェマは気がついた。ヤチグサが語った皇子というのは。


女将おかみ

 ティフィンが立とうとして立てず、床に左手をついた。 


 ヤチグサは、ひざ立ちして、さらにシェマに近づいた。

「ほんに、まぁ、お元気になられて。手足もすんなりと。ほおも血色がよい。よぅ、お顔をみせていただけますか」


「えぇっと」

 シェマは後ずさりしながら、ティフィンのほうへ寄っていった。

(この人は、わたしのこと、ユーフレシア皇子とカンちがいしてますよねっ)

 ティフィンに目で訴えた。


女将おかみ。あなたはユーフレシア皇子の乳母のひとりだった女か」

 ティフィンは床に左手をついたまま、たずねる。


「左様でございますよ」


『ああ、チグサか』

 すんなりと、シェマの中のユ―フレシア皇子が応えた。


 ヤチグサの手が、ぴたりと止まった。

「皇子」


 ヤチグサにはシェマがしゃべっていると見えているのだろう。


『チグサよ。ずいぶんと年を経たが、その声、その目元、よく覚えているぞ』


「幼かった皇子は、ヤチグサと名をおっしゃることができずに、チグサとお呼びでした。うれしゅうございます。覚えておいでとは」


『ああ、うれしいか』

 シェマの中のユーフレシア皇子は不遜な態度だった。


『——して、どうして、ヤマブドウの酒に催眠薬さいみんやくを入れたのだ? わたしは、よく飲まされていたから、この味に覚えがある』


「なんと?」

 ヤチグサは、わざとらしく目を丸くした。


『この酒に催眠薬さいみんやくを入れたのは、チグサかと聞いている』


「ほほ、今頃気がついても遅うございました。もう身体からだがしびれてきたでしょう」

 燭台のほのぐらい、ろうそくの灯がヤチグサの顔のしわを、より深く暗く照らし出していた。


 おもむろにヤチグサは燭台しょくだいに手を伸ばし、むしろに倒した。

 ろうそくは、むしろの上を火をこぼしながら、ころがった。


「死んだ子のかたきじゃ! 焼け死ぬがいい!」

 そう言いすてて、ヤチグサは身をひるがえして去って行った。


 ぽっ、ぽっと、部屋に火の手があがる。


『あーあ』

 ユーフレシア皇子が、ため息をついた。


「どうしよう。ティフィン! 動けますか」

 シェマはティフィンの身体からだをゆすった。ティフィンは催眠剤さいみんざい入りのヤマブドウの酒を、シェマより飲んでしまっている。


「なんとか……」

 ティフィンは必死に眠気と戦って、立とうとしているが。


『カグツチ! いいかげん起きろ!』

 ユ―フレシア皇子がシェマの足でもって、カグツチの腹に蹴りを入れた。

火止ほどめの神の眷属けんぞくのおまえなら、助けてみせろ!』


 シェマは、遠くで犬の鳴き声が聞こえたような気がした。


保知ぽち母屋おもやの土間にいる。よかった)

 ぼんやりとした頭でシェマは、それだけは安堵あんどした。

 仔犬だから、酒も飲まされていないはずだ。


『死に際みたいな心持ちになるな!』

 そこを、ユ―フレシア皇子に怒鳴りつけられた。

『おまえが死んだら、わたしも死ぬんだぞ!』


(そうだった。わたしが死ねば、皇子も、死……ぬ)

 シェマは頭を振って、意識をふるい起こした。


「守りたまえ。一之宮いちのみや二之宮にのみや三之宮さんのみや四之宮よんのみや。その加護と知恵さずかりし者が願う!」


『願うだけじゃない! 足、動かせ!』

 シェマの足でもって、ユーフレシア皇子はカグツチの脇を蹴りあげた。


「うーヌ」

 やっと、カグツチが起きた。


 と思うと、ばっと赤土となり四散した。

 その土の粒子は、一粒一粒、網目のように結界を張ると、シェマとティフィンを包みかかえあげた。


『まったく……。さんざんな十三詣じゅうさんまいりだ。チグサめ。やつが言っていないことがあるぞ』


 ユーフレシア皇子が語りはじめた。

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