18話  薬師部の里で〈後編〉

 薬草を入れた温湯おんゆのしたくができた。

 

 シェマは大岩の温湯おんゆの小屋の入り口で、もじもじとためらった。

「あの、わたしは入り方の作法がわからないのです」


『はぁ、温湯おんゆにはいったことがないのか』

 シュマの中のユーフレシア皇子があきれた声をあげた。

『教えてやる。言う通りにしろよ』


『まず、戸口にさがっているむしろいきに、はねあげて入れ』


いきに」

 よくわからなかったが、シェマが本気でむしろをはねあげたら、ばさぁとむしろが落ちてきた。

 あわてて、下人がむしろをひらいあげた。ティフィンにも見られてしまった。シェマは顔から火が出るくらい恥ずかしかった。


『大岩の湯船の側で、すべて衣を脱げ。脱いだ衣は湯がかからないよう、そこにひっかけろ』

 見ると、両手を広げたくらいの長さの竹の両端を紐で結わえたものが、小屋の天井からさがっていた。

「はい」


『お湯取りの桶があるから、それに湯をくめ』

「はい」

『熱くないか』

「はい」

『足から、その湯をかけろ。身体からだを慣らす』

 両腕が、すっすっと動いていく。どうやら、ユーフレシア皇子の意志を感じる。


『湯に入るぞ。右足から、そうっとだ』

「はい」

 シェマは右足で大岩の縁をまたぎ、そうっと湯に入った。シェマの分、湯は大岩の縁から少し流れ出そうになったので、身体からだを浮かし気味に加減した。

「これが温湯おんゆですかー。気持ちのよいものですね」


 湯で身体からだをふいたり、川で行水したことはあったが、こんな湯につかったのはシェマは、はじめてだった。

 日和ひよりもよかった。春を思わせる昼下がりだった。

 しばらく、ぼうっとシェマは湯を堪能した。


『くつろいでるな』

 シェマの中でユーフレシア皇子が含み笑いした。

『ここも——』

 シェマの意思とは関係なく、右手が下半身に動いた。

 もんだ。いや、もまれた。

「う、わっ」


『くくくく』


「わぁぁぁっ」

 あまりにも大声をあげたので、小屋の外に、ひかえていたティフィンが飛んできた。

 わぁふ? 今までどこにいたのか、保知ぽちまでもだ。


「どうしましたっ!」

 ティフィンが温湯おんゆに踏み込むと大岩の湯舟の中で、シェマが立ち尽くしていた。


「はっ、……のっ」

 シェマは言葉にならなかった。ただ、これが、いたたまれない状況だとは理解できて、また湯の中へ、ざぶんとつかった。


『く、はははははは』

 ユーフレシア皇子の笑い声が響く。

温湯おんゆの効果があってなぁ、叔父上』


「……あたたまりましたか。シェマ殿」

「は」

「そのうち落ち着きますよ」

「い」

 シェマは、耳まで赤くなった。うつむくと自分の下半身が目に入るから、上と横に視線はさまよった。


「ユーフレシア皇子」

 ティフィンはシェマを見ているが、そう呼んだ。

「シェマ殿をからかってはいけません」


『く、は』

 ユーフレシア皇子は、まだ、笑っている。

 立ち上がると両の手を広げてみせた。もちろん、シェマの身体からだだ。


「あっ、あっ」

 シェマは、自分の意思とは関係なく、それに引きずられる。反発しようとして身体からだが、ぎくしゃくとした。

 

(自分の身体からだが思い通りにならないっ)

 思わず、よろめいた。


「皇子!」

 ティフィンの腕が伸びて、シェマの身体からだごと引き寄せた。

「落ち着いて……」

 ティフィンは自分の衣がぬれるのもかまわず、そのまま抱きしめた。


『ふ』

 シェマの顔がゆがんだ。すなわち、それはユーフレシア皇子なのだが、今度は泣きはじめた。

 シェマの両手が、ティフィンの背にまわっていた。

 手のひらでティフィンの背をたしかめている。

『すまなぃ。ふざけ、すぎた』

 しゃくりあげた。



 

 そして、泣き疲れたのだろうか。今、ユーフレシア皇子はシェマの中で眠っている。

 

 温湯おんゆのあと、シェマは客間に通された。

 薬戸屋敷やっこやしきの奥まったところだ。うす暗くなりかけて部屋の四隅に、竹の枠にうすい紙を貼った風よけでおおった火皿が置かれた。


 夕餉ゆうげは、さきほど、かるくすませた。

 暗くなる前に作業は終えて、暗くなったら眠る。それが山里の生活だ。

 

 夜は、いまだ人の領域ではない。暗くなってから家という結界から出て、夜に従属するものに襲われても誰も同情はしない。


保知ぽちはどこに?」

 シェマは気になって、ティフィンに聞いた。


かまどのある土間の辺りで休んでおりましたよ」


 保知ぽちはどこへいっても居心地のよいところをみつける。心配はいらないようだ。


 ティフィンは部屋の四隅の柱のひとつに、もたれていた。

 この人が横になったところを、そういえばシェマは見たことがない。


「——ユーフレシア皇子は、なぜ泣いたのでしょう」

 シェマは、まだ眠れそうになかった。


「——おそらく、お気持ちが高ぶられたのでしょう。皇子宮みこのみやの中だけで寝たきりでお暮しですから」


 シェマは、そこで暮らすユ―フレシア皇子のことを想像した。

 何不自由ない生活と思えたが、健康な身体からだでないことには、しあわせとは言い難いのだろう。


「ふしぎに思うのですが、皇子の御身体おからだは、今も、みこのみやにあるということですか」


「そうです」


「皇子の意志が、わたしの中にあるのでしょうか」


「そうです」


十三詣じゅうさんまいりを終えられたなら、皇子はお元気になられるのでしょうか」


「十三の神の加護と智慧によって、おそらくは」


「お元気になればいいですね」


「——十三詣じゅうさんまいりを引き受けるなと、わたしが言ったことを覚えておいでですか」

 ティフィンは柱にもたれたまま、火皿の風よけに映る火影ほかげを見ていた。


「あ。あれ、やはり、ティフィンさんだった、です、ね」

 ふわぁとシェマは、ちいさく、あくびをした。ようやく眠気が来た。


 ひさしぶりの、よい寝床だ。むしろは分厚いし、わらは多めで新しい。身体からだにかける夜具やぐまである。

 そこからシェマが寝入るのは早かった。


「——シェマ殿。眠られましたか」

 ティフィンは、夜具やぐをシェマの肩までかけ直した。

 つい、ユーフレシア皇子にしていたようにシェマの髪をととのえそうになり、ティフィンは苦笑して手を引っ込めた。


 それから、となりの次の間に人の気配がした。足さばきでわかる。

「父上」


「……よいか」

 板戸を指一本開けて、マルトマのかんばせがのぞいた。

 

 ティフィンはうなずくと、自分が次の間へ行く。

 シェマの様子がうかがえるように、少し板戸は開いたままにした。

 マルトマと向かい合って座った。


「——その少年の中に皇子がおらせられるか。身代わりの術を成してしまうとはな」

 マルトマは、まどろっこしい前置きをして話すつもりはなかった。

「第一皇子の十三詣じゅうさんまいりに警護が、おまえさまひとりとは」


「故事にちなみ。十三詣じゅうさんまいりの街道は整備もされ、安全ですから」


「そのわりに不穏続きと察するが。たまたまか」


「いえ」


「第一皇子の立志をのぞんでいるものは、皇子の亡き母の実家である大臣おとど家だけと、このような辺鄙へんぴな里にも流れてきているぞ。健康な異腹のきょうだいを立志させればよいという意見もあがっていると。イズコル帝のお気持ちも、臣下らの動向を様子見なのではないか?」


「皇子は、かしこい御子です。ただただ、虚弱な身体からだにお生まれになっただけで」


「それで身代わりの術を」


「この十三詣じゅうさんまいりで、五百筒いおつつのシェマを通して神の加護と知恵を授かれば、ユーフレシア皇子の御身体おからだにも、僥倖ぎょうこうがあるはずです」


「お前は、身代わりには反対しているとばかり」


「あまりにも……、うまくいかなかった場合の、器たる少年たちの末路が哀れで。皇子にも負担がないわけでなく」


「身代わりの術は、天の民が築いたという石遺跡に刻まれた秘術を、予言部が読み解いたもの」

 薬戸やっこのマルトムは、思い出すように語りはじめた。


「最初は、ちいさな獣で試した。ネズミの器にウサギの魂というように。そして、ついに人に試しはじめた。そのうち、一瞬でも成功するのは、なんらかの適合があると気がついた。執念じゃなぁ」


「わたしは、身代わりには反対でした」

 ティフィンは両手を握りしめていた。

「ですが十三詣じゅうさんまいりが、皇子が帝の日継ひつぎたることを世に知らしめる必須だと。帝が賛同なさったうえは。そして」


 ティフィンは武人となると決めてから、この薬戸屋敷やっこやしきには帰っていなかった。

 なのに、昨日の話の続きのような話し方をする父に、つい打ち明けたくもなる。


「ユーフレシア皇子自身が、この身代わりに賭けるとおっしゃいました。皇子宮みこのみやの中で何もできぬ、動けぬまま死んでいくのはいやだと。どんな犠牲が出ているのかも知っている。それでも自分は生きたいと」


「そして、身代わりは成ったか……」

 マルトマは、ため息をついた。

「その先は、望むものになるのか。おまえが、つらい選択をすることになりはせぬか。それが、わしは心配だよ」

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