17話 薬師部の里で〈前編〉
ティフィンとシェマと一匹は、自分たちの影をうしろに従える方角へと歩いていた。
「ここから
手持ちの毒消しがないまま、旅を続けるのは軽率すぎる。
都から薬が届くのを待つのは、少しの時間がかかる。
「
「はっきりとは計れません。おそらく、
ティフィンの言う時間の幅がありすぎだ。
「四倍の差は、どこで?」
「里の近くまで行くと、招かれるのです。招かれない人間は、いつまでたっても里に着きません」
ふしぎな里らしい。
辺りに、
「招かれない人間は?」
「ついには、いつのまにか山のふもとへ降りているそうです」
山路は、なだらかだった。
木立は広葉樹だ。少し季節は進んだ。
ただ、さきほどから霧が濃くなっている。地面が冷える朝方でもなく、さらに晴天であるのに。
「これが、
香としたら無臭なのか。
いや、かすかに甘いと思ったら低木に、ちいさな白い花が咲いていた。その木の横に、また、花のような童女がたたずんでいた。
「——ヤマモモのひめ、おわします。ヤマモモのわかもの、よりそえば」
ちいさな口で懸命に暗唱している。
すかさず、ティフィンが、「ヤマモモの実がみのります」と、応えた。
すると童女は、にっこりと満面の笑みを咲かせ、くるりと、きびすを返して茂みの中へ走って行った。
わぅ!
「まれ
童女の声が、遠くに響いた。
「あのような童女が」
シェマがいぶかしむと、ティフィンは落ち着いた様子だ。
「あれが、
木立に立ち込めていた霧が、すぅっと一筋、
「さ、行きましょう」
ティフィンが先を歩いて行く。
霧の中の、ほそい
(自分の場所から遠くに連れ去られたような、
昔、こんな濃い霧に包まれたことがあったと、ふいにシェマは思い出した。
(あれは、四つばかりのころであったかな)
「あっ、あの」
情けないが、シェマはティフィンを呼び止めた。
「手を、つないでいただけませんか」
「……」
ティフィンが息を吐いたか、返事をしたのか。振り向いた顔は、見ようによっては、怒っているような顔だった。
「はぐれそうで……」
子供っぽいことを言わなければよかったと、シェマの声が小さくなった。
「——
ティフィンは腰帯の左に
「ありがとうございます」
シェマは、ほっとした。
(あれは、四つばかりのころであったかな)
『それでは、
たしかに、そう言ったのは母だったと思う。口元しか思い出せぬ。
修道寮の応接の間であったか。
そうだ。去る母を追って、シェマは外へ飛び出したのだ。
濃い霧で母の姿は、もう見えなかった。
(忘れていた。てっきり、産まれてすぐ母は、わたしのもとを去ったのかと。母は、わたしが物心つくまでは修道寮に立ち寄っていたのか)
そうしているうちに、霧がうすくなり木立の向こうに
「ただいま、戻りました」
意外だったのは、ティフィンの一言だった。
「おかえり。いとし子」
迎えたのは、壮年の男だった。
「ただいま?」
シェマの疑問は口に出てしまった。
「おや。お連れさま。申し遅れました。
それは、謙虚な
「父上。早速ですが、薬を分けていただけないでしょうか。立ち寄った
「それは難儀な。して、
そこをまず気にする、この人は心根の厚い人なのだろう。
「いく人かは間に合わず。しかし、おおよそは助かったというところです」
「単なる事故で発生した毒ではないのか」
「そのようです」
ティフィンは声をひそめた。
「どうやら、この
次の間から、
椀をシェマとティフィンの前に、それぞれ置いた。
小花の木の下にいた女童だろうか。髪の長さがちがう気がする。
椀の中は、薬湯であるようだった。ほのかに茶色味がかっている。
シェマは早速、のどの渇きをうるおした。
香ばしくもあり、さわやかさもあり、雑味もない。
「おいしいです」
素直な感想が口から出た。
「お口に合いましたか。土地の者は少し煎じたものも好みますが、はじめて口にされる方は、おなかにくることもありますから、これは中温で抽出した、いちばん茶でございます。よろしければ脈を診ましょう」
「お疲れでありましょう。薬草を入れた
都では、人ひとりが入るほどの木の桶に、適温の湯を貯めてつかる。
驚いたことに、ここには、人ひとり入れる大きさを、くり抜いた大岩が
何人もの下人たちが桶にくんだ清水を、その大岩のくりぬいた部分に、ざっと開けていく。水が満たされたら、近くの
焼けた石を、そろりそろり。じゅっ。
焼けた石を、そろりそろり、じゅっ。
水があふれそうになると、手を突っ込んで、つかめる温度の石から取り出していく。そのころには、大岩にためられた石は、ぬるま湯くらいにはなっている。
そうして、手のひらで湯の温度をたしかめた下人が、「ええ感じだ」と、うなずいき、乾燥させた薬草を手拭いに包んだものを湯に放った。
その行程を、シェマは飽きもせずながめていた。
なんなら手伝ってもみたかったが、ティフィンには「病み上がり」、そこにいる下男たちには、「まれ人さま」と、止められた。
「使用人たちは、まれ人へのもてなしの分、いつもより対価をもらえるのです。仕事を奪ってはなりません」
そうもティフィンに、たしなめられた。
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