5話 稲喰村
今夜の宿でもさがしてくれ。
それに「承知」とばかり、ぴんとしっぽを張った
軒先に、元は白かっただろう黄ばんだ布がさげてあった。その日、宿泊可能な家は、白い布を入り口にたらしておくのが決まりだ。
「ほんとにみつけた!」目を丸くするシェマに、「神の加護か」とティフィンも驚いた。
「いらっしゃー」
家の中からふりむいた男は、最初、白い仔犬しか目に入らなかったらしく、言葉につまった。
「
それから、ティフィンの姿を認めて破顔した。
「あいよー」
シェマたちの身なりを一目見て、すぐさま上客だと判断したのだろう。
「すぐに用意しますだ」
「食事は消化のよいものを頼む。精のつくものもだ」
ティフィンには、無理を言っているという自覚はないようだ。
「おまかせあれや」
男も慣れたものだ。
「これが宿屋というものなのですか」
修道寮から限られた距離しか出たことのないシェマには、見るものすべてがめずらしい。落ち着かず、きょろきょろとまわりを見渡した。
「主には猟や耕作で身を立てておりますね。旅の方をお泊めするのは、よい収入になるのでさ」
いまだに街でもない限り、物々交換が主流なのだ。
男は愛想よく、「ささ、どうぞ」と、ふたりを土間に通した。
土間には丸太を横に断ち切った座と、それにちょうどよい高さの木の台がしつらえてあった。
「
男が、
さっそく、シュマは、その椀を手に取り湯をすすった。霊泉には及ばないが、手はぬくもるし、腹にゆっくりとしみた湯で肩のちからが抜けてきた。
どうやら、シェマは自分が思ったより緊張していたものらしい。
「旅人に一夜の宿を貸す。食事を提供する。宿屋とは、そういう商売です。十三の社の《やしろ》のふもとの街道筋は人の往来が盛んですよ」
黙ったまま向かい合っているのは気まずいなと思っていたら、ティフィンが自分の手元に視線を落としたままながら、ぼつぼつ話してくれた。
それから待つこと、少々。えも言われぬ香ばしい匂いがただよってきた。木をくりぬいた椀に盛った穀類と、須恵器の高台からはみ出すような細長い魚を、男がうやうやしく、ティフィンとシェマの前に置いた。
「これは何?」
シェマは、くんくん鼻を鳴らした。
「ウナキの白焼きだな」
ティフィンが説明している間に、男は半割にした小さな
「あたたかな日が続きましてな。川の泥の中にもぐっていた奴らも目を覚ましたらしく」
そうして、白焼きに手の中の柑橘を、ぎゅっとしぼった。
「こうして
男の説明にシュマの口中は、よだれでいっぱいになった。
「待て、待て。シェマ殿」
ティフィンは制してくる。
「ゆっくりだ。ゆっくり食べろよ。よし!」
許可が出たとたん、がっとシュマは白焼きを口に放り込んだ。舌の上で白い身がほぐれていく。
(うまままま~~い)
かみしめる。口に放り込む。かみしめる。そのうちに、鼻水と涙が出てきた。
『うっ、ううっ』
シェマの中でも感極まった声がした。ユーフレシア皇子が泣いているのだ。どうやら、しばらく前から起きていたらしい。
(え? どうして泣いてんの? 皇子さまは、こんな食事、いつもでしょ)
頭の中で問う。
『こんなに胃腸が丈夫でなかったから、こんなにおいしぃと思ったことがなかった』
(そうなんだ)
シェマは、しみじみと自分の健康に感謝した。
少しでも、しあわせな時間が続くように、ゆっくりと
そして、ウナキの白焼きを半分食べたところで、ぴたりと箸を止めた。
「どうした? まだ食べれるだろ、まだ、召し上がれますよね」
ティフェンは、シュマ(ユ―フレシア皇子在中)を扱いかねているようだ。
「ティフィンも食べてください」
シュマは申し出た。
「わたしをおぶって、ずいぶん歩いてくだすったでしょう。
「いつもの訓練以下だ」
ティフィンは謙遜はしていなかった。
「でも、このウナキ、おいしいので。ユ―フレシアさまも、
「そうか。では、この半分をいただこう。あとは、ユ―フレシアさまの分だ」
ティフィンは穀物で腹いっぱいにする気で、宿屋の主に空の飯椀を差し出し、おかわりを催促した。
「酒はいかがですか」
飯のおかわりを山盛り盛って、男がやって来た。
「神事の旅の途中だ。食事だけでよい」
「あぁ。なるほど。
男はシェマの年頃で察した。
「近頃の
夜更けて、そのまま、シェマとティフィンは、土間に
男は
「いちばんあたたかいのは
ティフィンは、丸太を横切りにした椅子もたれた。
「横にならないんですか」シェマが聞くと、「ああ、いつものことだ」と返ってきた。
(大変なんだなぁ、武人って)
シェマが
「いっしょに寝てくれるの」
仔犬の白い毛は深くみっしりと生えていて、一度つかまえたぬくもりは逃さない。
「うわぁ、あったかいですよ、
シェマは今さらだが、自分は「役に立つものを持ってきた」と、少しうれしくなった。横になると、すぐに眠気が押し寄せてきた。
『叔父上、おやすみ』
ユ―フレシア皇子の声が、頭の中でした。
(おやすみなさい)
シェマは応えたかどうかもわからないうちに、寝付いてしまった。
その代わりのように、ユ―フレシア皇子はシェマの中で起きていた。
シェマの
あちこち試してみて、目と口と右手だけがどうにか動いた。
(
感覚は
ティフィンが気がついてくれたようだ。
「ユ―フレシア皇子……」
(そうだよ)
ユーフレシアは、ぱちぱちと目を二回、しばたいた。「
物心つくころから臥せっていることが多かった。
動けば体力を消耗し、話せば疲れた。
だから、短く意思表示することにした。
「お疲れではありませんか」
ティフィンの問いに一回、目をしばたいて、(
(むしろ、このうえなく気持ちが、あがってる。本当に楽しい一日だった。ありがとう、ティフィン)
これは長すぎて伝えられない。
(み、ず)
ちいさくユ―フレシア皇子は、シェマのくちびるを動かした。
土間に
ユ―フレシア皇子に水を含ませるのは、皇子付きの武人には許されている行為だ。
ティフィンは一口、ひしゃくに口をつけると、とりあえず、ひしゃくを平らなところに置いた。
そして、横たわっているシェマのうしろ頭を左手で持ち上げ、シェマの背中は左ひざで支えておいて、そのあごに右手を添わせると一滴の水もこぼさぬように、くちびるを重ねシェマの
こくんと、シェマの
(ありがとう。わたしも、もう眠るよ)
ユ―フレシア皇子も瞳を閉じた。
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