2話 出立
はじまりの月の
古来より、
下々の者のそれは、だいぶゆるい決まりごとになっているようだが、皇子の
出立は
月のない晩に、
シェマは
すでに、七日前から潔斎に入り、日が落ちてからは声を出すことも許されぬ。
だから、どうして、今、
宮中三殿のある場所に足を踏み入れたのも、はじめてだった。
三殿は皇祖を祀る
案内の者が、だんだんと少なくなっていき、最後の陣に入った時はシェマひとりだった。
シェマが部屋に入ると、背後で
目の前には、白木の祭壇がしつらえてあった。
御神体は鏡である。
左右の常夜灯に照らされ、ぼんやりと祭壇は浮かんでいた。シェマの想像よりは簡素なものだった。
シェマは座している足を組みなおした。
板張りの床には、大ぶりな白い獣の皮が敷かれていた。
そこに座って待つのですよとは、日のあるうちに予言部の者に教えてもらった。毛皮の上に座ったシェマは、かろうじて下からの冷気を感じずにすんだ。
その毛皮がなかったら、もっとつらかったろう。
どのくらいの時間がたったのか。もはや、時間の感覚がわからなくなる頃。
何の気配もしなかったはずだ。
だが、眼前に、ほの白い人影が現れた。
それは一瞬、少女とも思えた。
肩にかかる薄い色の髪と線の細さ、貫頭衣のせいで、そうとれた。
だが、面差しが誰かと似ている。それが自分だと、そのときのシェマは気がついていなかった。
ただ、ユーフレシア皇子だと察した。
そのそばに、もうひとり、ひかえている武人が見てとれた。
そう思ったのは、その腰の
そして、その武人が朱塗りの立柱の回廊で出会った青年であることに、シェマは気づいた。
しゃぁぁぁん。
きらめくような
御神体の鏡から光が、こまかな
その光の
「い」の形に口がなり、シェマはこわばった。御神体から発した粉をはらうような手振りをするわけにいかず、座していた毛皮を、ぎゅっとつかんでしのごうとした。
カゴーミー カゴーミー。
どこからともなく唱和が聞こえてきた。その意味するところは、シェマにはわからなかったが、イェルシャーライの古語だろう。
目の前が白く発光しはじめ、思わずシェマは目をつぶった。
それきりだ。
うっすらとシェマが意識を取り戻したのは、どのくらいたってからだろう。
はぁと深く息を吐くと、その背中がぴくりとした。
「目が覚めたか」
落ち着いた声だ。あの青年の声だ。
シェマはしゃべろうとしたが、声が出なかった。
暗闇の中を自分たちは移動している。
どのくらい、意識を手放していたのか。
暗闇ではあるが、岩肌がわかる。ということは、
「もう少し行けば水場がある」
青年は、シェマを背負い直した。
それで、シェマの
シェマは右手に白い毛皮を握りしめていた。祭壇の間に敷いてあったものだ。
(持ってきてしまったのか)
それで、あの神殿での出来事が夢ではなかったと確信できた。
まわりを見渡す余裕もできた。
洞穴の中のようだ。
ほの暗い洞穴の中を進んでいた。
「おろすぞ」
シェマを背負っていた青年は、おぶっていたシェナを器用に自分の前に移動させ、シェマを支えて、ゆっくりと足を地面につけさせた。
そんなのは造作ないこと。そう思ったら、シェマはひざから崩れそうになった。
(あぁ?)
ちからが入らない。自分の
青年が、ぐいとシェマを引き寄せた。
「慣れるまで、しばらくかかるだろう」
(……?)
そう言えば、ユーフレシア皇子がいない。シェマは右手を広げてしまい、するりと白い毛皮が地面に落ちた。
青年は身をかがませて毛皮をひろいあげると、平らな石の上に敷いた。そして、シェマをそこに座らせた。
「役に立つものを持ってきたな」
シェマは顔を赤らめた。
それにしても、洞穴の中は湿気ている。苔の匂いがするようだった。
ふたりのいる場所の近くの岩肌から、清水がしみ出していて、青年は腰の竹筒をはずして岩肌に沿わし、清水を竹筒に貯めはじめた。その竹筒をシェナに差し出す。
「まず、この水を飲め。霊水だ。ちからがつく。潔斎で、ろくに食べていなかったろう」
そうだった。
シェマは竹筒を受け取ろうとして、まだ少し手がふるえた。青年が気がついて、その手を添えて、シェマの口元まで竹筒を運んでくれた。
「ん!」
シェマは目を丸くした。
水は
一気に飲み干す。
「おい! いかに霊水でも! 一気はよせ! おまえはよくても、ユーフレシア皇子が!」
「えぇっと」
シェマは覚えが悪くなっているようだ。
「ユーフレシア皇子はどこです……」
清水を飲んだら、どうにか声が出るようになった。
そのとき、青年が、びくっとしたのはシェマの問いのせいではない。
「しっ」
黙るように、口の前に人差し指を立てられた。
「気配がする。
青年は小声で。
「
「
どうやら、〈野良〉というのは、宿無しの何か。神になりそこねたものらしい。
すぅと風が吹いた。
吊り
「まずいな。
青年が眉をひそめた。
「
シェマにも何も
ただ、気配は感じる。空気がふるえるのだ。不穏だ。
(こういうときは
シェマは目を伏した。
息を殺して、じっとしているしか自分にはできない。
青年は
目に
(あぁ。大丈夫だろうか)
自分は見ていることしかできないのか。
ふいに。
『にーがいクスリ、にーがいクスリ』
脈略なく、言葉が頭に浮かんできた。
『あまーい、あまーい
そのうち、シェマの目の前で、青年が何かに足を取られた。どぅ、と受け身で転がる。
「あ!」
思わず、シェマは声をあげて立ちあがってしまった。
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