記憶
少し通り雨が降りそうな匂いのする夕暮れ。傘を持っていなかったので急いで帰宅すると母が待っていた。「おかえり」いつも通りのトーン、いつも通りの言葉のはずなのに、素直に入ってこなくて、とてもモヤモヤした。時刻は7時。わたしは夕食を口にしていなかったが、それどころではなく早く話をしたかった。母もそれに気づいている様子で「凄い偶然があるものね」と洗面所で手を洗うわたしの少し後ろで、少しばかりスカしたように腕を組み、引き戸に体を預けながら言った。
望「隠してたの?」
母「隠してたわけではないの。でもね望。あの事を本能的に記憶から消しているであろうあなたに、話すタイミングがなかったし、分からなかった。誤解しないでほしいんだけど、何が起きたか「今日」ちゃんとその時が来て、しっかり話せるってこと。わたしは少し嬉しいかもしれない」
望「嬉しいってなんでよ」
母「わかんない。笑」
望「へんなひと」
母「そんなの前からわかってるじゃないの」
不満な感情をしっかり持って接しようとしていたが、母の華麗な雰囲気に飲まれて話自体が有耶無耶になりそうな気がしたので、この感情をそのまま口にした。すると「そんなつもりはないから、ちゃんと聞いてね」先程のスカしは演技でした!と言わんばかりに今度はとても改まって、その時の事を話し始めた。わたしの知らない話。わたしの知らない父と母。そしてこの事による二人の関係…。
結果、この一件によりわたしの想像している以上の事が起きていていることを知った。というよりはわたしのこと「だけ」で済むと思っていた、と言うべきか。
「お母さんとお父さん、その時の事で揉めちゃってね。そのあと1年もしないうちに別れることになってしまったの。お父さんに女ができたのは事実だけど、そのタイミングは明らかな心のすれ違いがあって。不倫という不貞行為があったとしても、あの人が100%悪いとは当時のお母さんには思えなかった。もちろん望が悪いわけではないの。あの頃の私達は本当に未熟だった。もしかすると望が死んじゃっていたかもしれないという、とっても大きな出来事に上手く向き合えなかった。さっきも言ったけど、あなたが大きくなってきても、その頃の記憶だけがない様子なのは見ればわかるし、当時の家庭的なシーンとかも含めて変にフラッシュバックをさせたくなくて。だから、あなたが大人になってからちゃんと話そうと思ってた。お母さんもお父さんも、あなたが思うほど出来てる人間なんかじゃないの。望、本当にごめんなさい」
色々な感情が私の中を駆け巡っているのがわかった。自分の理想の崩壊。でも間違いなくそこにある無償の愛。そして生きていくということ…。
喜怒哀楽のどれにどれが当てはまるのか分からない感覚。少し前、上と下や右と左がわからなくなるのが好きだとか言っていた自分が滑稽に思えた。実際にそのような状態に陥ってみると、途方もない暗闇に飲み込まれとんでもなく息苦しい。普段、恐らく軽率に言葉を紡いでいるかもしれない自分が情けなく、恥ずかしいと割と絶望する。同時に「何故、わたしにはそんな大きな出来事が起きた当時の記憶がないのだろうか」と率直に思った。人間の脳と記憶のメカニズムについて調べてみたい。今までこのような「興味からくる動力」みたいなものを、わたしは感じたことがなかった。
そしてこの「動力」こそが、今後のわたしの人生を大きく変えることになる。
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