にもち
幼少期は母が女手一つ、育ててくれた。母子家庭だ。兄弟姉妹はいない。両親は父の女関係で離婚。おいおい急に物語感強くないか!?と思われるかもしれないが、高橋家はそうなのだ。ご容赦頂きたい。そして1ヶ月に1回ほど、定期的に父とは顔を合わせるのだが、その場に母はいない。顔も見たくないというほどではなさそうだが、今となっては「それはそうだ」としか言いようがない。
母は人として本当に強く、内外共に美しい。尊敬の値を数値化することが可能であるならば、数値が完ストしてもまだ足りないと思えるほどだ。
只、わたしは父のこともしっかりと好きだ。シンプルに周りの人の幸せを願っている。「皆幸せになるべきだ」と口にはしないが、顔に書いてあるタイプの人間、とでもいうべきか。
たしかに別の女と数晩を共に過ごした、という事実には道徳的欠如があるには違いない。ただ昔からどことなく父は愛嬌のある人気者だったのだ、と母は聞かせてくれた。良くも悪くもひとたらし。先述したが周りの…(あまり胆略的で使用は控えたいが面倒なので「優しさ」と単語を使わせてもらう)…「そのとびきりの優しさ」に寄ってくる人も男女問わず多かったのだろう。そんな父に自分にないものを感じ、若き日の母が惚れたのも納得がいく。
そして何より望(もち)は父が名付けてくれたのだという。難しいことは考えず1月1日生まれ=お正月=お雑煮=もちから望。ある意味で周りの幸福感を上げる特殊能力を持つような、父らしい素敵なネーミングセンスだと思う。
結果、父に関して言えば、嫌いになる要素よりも好きになる要素のほうが多かったのかもしれない。
少し長くなかったが、父のことも母のこともわたしは大好きだ。
「正月といえば雑煮…もち…望!これはどうだ?!」
20年前の1月1日、ニコニコしながら騒いでいたであろう父を思うとなんと微笑ましいのだろう。と同時にわたしはなんて呑気なんだろうと、自己嫌悪まではいかないが、すこし恥ずかしくもなるようにこの数年間でなった。そういう年頃になったのかもしれない。
とにもかくにも、優しく暖かい二人が形はどうであれ(順ぐり順ぐり)常に側にいてくれたこと。
絶え間なく「承認」をし続けてくれたからなのだろう。わたしは周りからはポカンとされるほどに素直で愚直。本当にご両親は複雑な関係なの?と疑問を抱かれるほどに真っ直ぐな目をしているらしい。
そんな4年制の大学に通う、よくいる女子大生のわたしに、とある出会いが訪れる。
それは高校卒業後、やりたいこと探しから目を背けてきた弱いわたしの心の土台を根本から突き動かした。
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