A 02
人混みの中で私は、そっと携帯をポケットにしまう。
電光掲示板も、腕時計も、携帯の時刻表示も、もう見ないことにした。
あと十分で否応なく学校に行くことになる。
そう思うのがたまらなく苦痛だ。
学校が嫌いな理由も、人混みが嫌いな理由と同じかもしれない。
いろんな人がいる。
いすぎるのだ。
学校が嫌いな人は私を含め、わりといると思う。
でも、それだけじゃない。
あの人が嫌いな人、あの先生が嫌いな人、ああいう発言が嫌いな人。
色んな人の色んな「嫌い」が複雑に絡み合う。
しかもそれは、知っている人同士で起こる。
知らない人同士で集まっている状態より、もっとたちが悪い。
知り合いであるが故に、ぶつかり合いに発展してしまうのだ。
私のクラスにはわかりやすいぶつかり合いは無いが、一方的な攻撃は嫌というほど目にする。
今のところ私は標的にされていない。
そういう意味では幸せなのかもしれない。
でも裏を返せば、誰からも相手にされていないということなのかもしれない。
そんなことを考えているうちに私は、激しい動悸に襲われていた。
心臓の鼓動がびっくりするほど強くなっている。
心臓が動くたびに、その拍動が体中に響きわたる。
どくり、どくり、という動きに合わせて、頭の痛みが倍増していく。
私は、ぎゅっと握った右手を胸に当てた。
いつの間にか呼吸も荒くなっていた。
ぐっ、と目を瞑る。
駅で気分が悪くなることはよくあった。
頭痛など、一週間に一回は必ず起こるイベントだ。
でも、こんなに激しく動悸や息切れがしたのは、今日が初めてだった。
そして、今までに経験したことがないという事実がまた、私の不安をかき立てた。
ふっ、と耳が遠くなるような感覚に陥る。
周囲の音は遮断され、激しい動悸と荒い息づかいが、私を支配している。
遠くで、列車がやってくる音が聞こえた。
あぁ。
もう来ちゃった。
どうしよう。
どうすることもできない。
そう思うと、何故か不安が少しだけ和らいだ気がした。
私の体が勝手におかしくなっただけ。
私にはどうすることもできないんだ。
私の動悸と、がたん、がたん、という音が重なっている。
よく聞いてみると、電車が入ってくるときとは違う音だ。
徐々に速度を落としている。
その音とともに、動悸も、呼吸も、頭の痛みも、穏やかになっていく。
その音は、変わらずゆっくりと近づいてきている。
いつの間にか私は、落ち着きを取り戻している。
私は瞑っていた目をひらいた。
私は目を疑った。
周囲を埋め尽くしていた人々が、綺麗にいなくなっている。
そして、誰もいないホームに入ってきたのは、いつもの電車ではなかった。
くろがね色の円筒形の車体。
その円筒形から上に突き出た煙突。
蒸気機関車だ。
なぜここに蒸気機関車がやってきたのか。
そんな考えもわかなかった。
目の前をゆっくりと通過していく機関車を、ただ見ていることしかできない。
まぶしいほどに黒光りしていて、すす汚れはまるで見あたらない。
見れば、煙突からは煙が出ていない。
そんな状態で走ることなんてできるのだろうか。
もしかしたら蒸気機関で動いているのではないのかもしれない。
機関車は速度を緩めながら、ホームの中央へと進んでいく。
気付けば駅の中は私一人になっているらしく、電車を待つ人はどこにも見あたらない。
さっきまでアナウンスしていた人はどこに行ったのだろうか。
電光掲示板には、相変わらず私が乗るべき電車の表示がされていた。
機関車の運転席は通り過ぎ、私の前では紺色の客車がゆっくりと動き続けている。
止まったかな。
と思った瞬間、客車の一番前のドアが開いた。
開いたドアから、ジャケット姿の背の高い男の人が降りてきた。
特徴的な帽子をかぶっている。きっと車掌さんだろう。
その車掌さんらしき人は、さっきまでの機関車と同じようなゆったりした動きで、私の方に近づいてきた。
鼻筋がすっと通っており、眼窩が落ち窪んでいる。日本人離れした顔立ちだ。
「お客様、どうぞご乗車になってください」
ご乗車になってください、なんて言われたのは初めてだった。
乗るか乗らないかは客に決めさせてほしい。
というか、まだ乗ってないんだから私は客じゃないんじゃないか。
頭の中ではこんなことを考えるも、実際に出る言葉は全く違う。
いつものことだ。
「切符を、もっていないんですが」
車掌さんは仰々しい言葉遣いで答えた。
「お客様が乗車してくれさえすれば良いのです。それ以上を要求しようとは思いません」
おかしい、とは思った。
とはいえ、こんな所に前触れもなく機関車が来るのはおかしい。
そもそもSLなんだとしたら、煙突から少しも煙が出ていないというのはあり得ない。
すでにいろんなことが常軌を逸している以上、新たにおかしな事が起きてもそれを受け入れるしかなかった。
「どこまで、行くんですか」
車掌さんは変わらずゆったりした口調で答える。
「望む限り、どこまでも、旅ができます」
どこまでも旅ができる。
さっきまでのくだらない妄想が、現実味を帯びてきた。
頭の中だけで考えていたことをやれるチャンスが、目の前にある。
いつもいつも、妄想だけで終わってしまう。一度くらい行動に移してみるべきだ。
そんな気持ちが私を急かす。
でも果たしてこの列車に乗って大丈夫なのか。得体の知れない怪しい列車。
乗ったら最後、どうなるかわからない。
そんな気持ちが私を引き止める。
私はもう一度、電光掲示板を見上げる。
備え付けのアナログ時計は、七時四十五分を指している。
学校への電車の発車時刻ちょうどだ。
すぐそこに停まっている機関車を見つめる。
学校へ行くための電車に乗ることを、いつも私は進んで選んでいたのだろうか。
いや、違う。
学校方面の電車に乗るのは学校に行くためだ。
私は、学校になんかに行きたくない。
私が乗るまで、車掌さんも機関車もここを動かなそうだ。
乗るか、乗らないか、天秤にかける前から乗ることを拒絶してしまっていた。
乗ってみるだけ、乗ってみよう。
まだ、この列車でどこかへ行ってしまおうと決めたわけじゃない。
いったん車内に入ってみて、それから決めればいい。
そう自分に言い訳をしないと、自分の決断に自信が持てなかった。
いや、これは「決断を先延ばしにする」という決断だ。
決断ですらないのかもしれない。
ちっぽけな行動を起こすだけなのに、いつまでも頭の中で足踏みをしてばかりの自分が情けなくなった。
とにかく乗ろう。
ずり落ちた鞄を肩にかけ直し、客車の中に入った。
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