第40話


 九月も過ぎて十月の声を聞いた最初の日曜日、僕はいつものように安東総業で昼間のバイトをしていた。


 大学には全く行っていなかったが、電話番をしながら悲しい習慣で第二外国語のフランス語の教科書を読んでいた。


 昼過ぎのことだった。

 事務の女性が「小野寺君、県立尼崎病院から電話よ」と不思議そうな顔で言った。


「えっ、尼崎病院?・・・何だろう?」


 僕には全く覚えのない病院だった。


「はい、小野寺ですが・・・」


「あっ、小野寺さんですね、実は野口江美さんのことで連絡させていただきました。野口江美さんという方をご存知ですね?」


 電話は病院の救急受付の男性からだった。


「実は野口さん、自宅で転倒されまして、救急車で運ばれて来たのです。階段を踏み外されたようですな。ともかく小野寺さんを呼んで欲しいと言われるものですから連絡させていただいた次第です」


「あっ、はい。それで江美は大丈夫なんでしょうか?」


「ちょっと足腰に打撲がありますが、外傷も骨折もなく別状はありません。

 ただ・・・ご存知でしょうが妊娠されていまして、それが・・・残念なことですが腰を強打したために・・・ともかくお越しいただけますでしょうか?」


 僕はその男性の説明の最後のあたりは耳に入らず、江美が大変だと身体が震え、「すぐに伺います」と言って電話を切った。


「どうしはったん、小野寺君?顔が青ざめているけど」


 事務の女性たちが心配そうに訊いてきた。


 「急用ができたと岡田さんに言っておいて下さい。夕方に一度電話しますけど」


 そう言い残して事務所を飛び出た。


 病院は地下鉄御堂筋線で梅田へ出て、阪神電車に乗り換えて大物駅を降りればすぐ近くと聞いた。

 僕は大国町駅まで全力で走った。


 病院の担当者は階段を踏み外したと言っていた。

 江美の家の二階への階段は歪で傾斜が急だから、降りるときは注意するようにとあれほど言っていたのに。


 病院の男性は言いにくそうにしていたが、もしかして流産してしまったかもしれない。


 いや、でもそんなに簡単に流産なんかするものか、きっと大丈夫だ。


 僕は自分に無理やり言い聞かせ、たいしたことがないように祈った。

 病院に着いた時刻は安東総業を出てから四十分以上も経っていた。


 病院は日曜休診だが救急病院に指定されていた。

 救急外来の入口から入り、受付の男性に部屋を訊ねた。

 指定された部屋に入ると江美は点滴中だった。


 部屋には医師はいなかったが看護婦が見守っていて、江美は僕に気がつくとゆっくり頷いた。


「もうすぐ点滴が終わりますけど、先生が隣の部屋にいますから入ってください」


 誘導された部屋に入ると、かなり年配の医師が書類に書き込みをしていた。

 僕の姿を見ると「そこにお掛けください」と丸椅子を勧めた。


「小野寺さんは野口さんの?」


「はい、婚約者です」


「そうですか、野口さんが小野寺さんに連絡をして欲しいと何度も言うものですから、電話番号をお聞きして連絡させていただいたわけです」


「ありがとうございます。それで、状態はどうなのでしょうか?」


「実は、野口さんの場合はお腹を強く打ったわけではないのですが、尾てい骨や腰をかなり強打していて、それが原因で胎盤剥離と呼ぶ事態が起こり、つまり流産してしまったのです。

 妊娠中に転倒してもめったにないことなのですが、大変お気の毒な結果となってしまいました。ただ、外傷も打撲もたいしたことはありません」


 それだけで流産してしまうのかと僕は不思議に思った。

 それと同時に現実的にひとつの命が亡くなってしまったとはどうしても実感できなかった。


「今日は無理に帰らず、一日ここで安静にしてください。明日は帰っても大丈夫ですが、しばらくは自宅であまり無理な動きをしないように。それから野口さんの場合は妊娠四ヶ月の頭、つまり十二週にかかっていましたので死産届けが必要です。

 二十四時間以降に火葬しなくてはいけませんが、実際形となるものはほとんどありません。ただ義務付けられているので今書類をお書きしますから明日にでも市役所へ提出して下さい」


 医師は事務的な口調の中にも、気遣いを感じる説明をしてくれた。


 しかし、流産してしまったことは事実として受けとめなければならなかった。


 江美の身体を突然襲った事故、ひとつの小さな命が失われた事実を現実として目の前に突きつけられていたが、江美と僕とのものとは思えず、僕は医師が書類を書いている間、しばらく呆然としたままだった。


 医師の部屋を出て再び江美が点滴を受けている部屋へ戻ると、彼女がベッドの上で身体を起こしていた。

 点滴は終わったようだった。


「ごめんなさい、浩一・・・」


「江美、何て言ったらいいのか分からないよ」


 僕はベッド脇に座り、江美の手を握った。どうして神様はときにこんな悪戯をされるのだろう。

 江美がどんな罪を犯したというのか。


 江美のような純粋で真っ正直な女性に対して、いくら不注意があったとしてもあんまりの酷い仕打ちじゃないか。

 僕は神や仏や、そして社会にさえやるかたない腹立たしさを感じた。


「ごめんなさい、浩一。私の不注意でこんなことになってしまって。私、取り返しのつかないことをしてしまったわ」


 江美は小さく声を上げて泣いた。紫色の唇に透明の涙が吸い込まれていった。


 僕は江美の肩に手を置いて、自然と湧き出る涙を止められなかった。

 せめて江美と僕との涙で、産まれてくることができなかった命を天国へ流してやりたいと思った。


「江美、身体を楽にして、横になっていたほうがいいよ。僕はずっとここにいるから」


 江美の身体を支えてゆっくり寝かせた。


「ごめんなさい」と江美は呟き、そして少しすると眠ったようだった。


 麻酔がまだ効いていたようだが、巨大な疲労が江美を襲ったに違いなかった。

 僕は全身が大きな虚脱感に包まれていくのを感じた。


 そして同時に、江美と僕が今いる部屋には何もないことに気付いて絶望的な寂しさに襲われた。

 白壁の小さな部屋には窓もなく、医療に関わる張り紙やポスターひとつさえない。


 ベッド以外には点滴器具と四角い三段の収納棚、そして丸椅子。

 何の装飾もない殺風景で無機質な部屋。人間の息づかいのない部屋。


 救急患者用の部屋だから仕方のないことなのだが、僕はこの部屋を見回して、江美と僕とのこの一年余りのふたりの関係の結果がこれなのかと思うと、やりきれない気持ちになるのだった。

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