第39話


 九月半ばを過ぎた日曜日、僕は久しぶりに江美の家に行った。


 お盆明けに松山から戻ってきて会って以来、実に一ヶ月ぶりだった。

 安東総業のバイトを終えて阪急園田駅に着いてから江美に電話を入れた。


「今、園田の駅に着いたんだけど、何か買って帰るものはないかな?」


「今日は昼間駅前まで出て食材はたくさん買っているの。何もいらないから早く来て」


 まるで夫婦みたいだなと僕は電話を切ってから思った。


 事実、江美のお腹にはふたりの間の命が日に日にその形を大きくしているのだろう。

 バスに乗って向かう途中、江美と家庭を持って小さな赤ん坊をふたりで育てる生活を想像してみた。


 僕が仕事から帰ってくるのを江美が待っていて、夕食などあとまわしにして、ふたりで協力して赤ん坊をベビーバスに入れるのだ。


 熱くもなくぬるくもないように湯加減を確認してから、ゆっくり赤ん坊をバスに入れる。


 僕が右手で赤ん坊の後頭部と首を持ち、左手でお尻のあたりを持って支え、江美がガーゼにベビーソープを浸して注意深く身体の隅々まで丁寧に洗う。

 絶対に耳から湯が入らないように慎重に行う。


 そしてあらかじめ広げていた厚めのバスタオルの上に、僕が赤ん坊を抱いてそっと降ろす。

 風邪を引かないように急いで、でも優しく体を拭く。


 ふたりの協力なくしては赤ん坊ひとりも育てられない。

 そういう生活は楽しいかも知れない。

 しかも江美のような明るく頭の良い年上の女性と暮らすことは、もったいないくらいの幸せではないのか。



 バス停から江美の家までは五分程度、九月下旬になると陽が暮れるのも次第に早くなる。


 午後六時を過ぎたばかりなのにもうあたりは暗く、家々の窓にも明かりが灯り、台所から様々な料理の匂いが漂っていた。

 家庭の匂いだ。


「もう来てくれないのかって思っていたわ。やっぱり浩一は逃げたんだって。昨日まで自殺しようと考えていたところよ」


 玄関に靴を脱いで上がると江美はいきなり嫌味を言った。


 顔は笑っていたから本気ではない。彼女はこういった冗談混じりの嫌味をときどき浴びせる癖がある。


「逃げ切れるものなら逃げたいけどね」とすぐに僕も冗談で返した。


「本当は、ちょっと重荷になってきたからここに来たくなかったんでしょ?」


 卓袱台に料理を並べて、僕のグラスにビールを注ぎながら江美は言った。


「そんなことはないよ。実は夜の仕事で、赤井が辞めてしまってから特出しの照明係がいない日は僕がやらないといけなかったり、まあいろいろ大変だったんだよ」


「何?その特出しって」


 僕は江美に「特出し」について説明をした。


 ダンサーの妖艶な腰の動きや乳房の揺れに興奮して、照明の色を変えるのを忘れてしまうほどだと、かなりオーバーに説明した。


「バイトでそんなことまでやってるの?じゃあ、今度私を踊らせてよ、セクシーダンスを披露してあげるわ」


 江美はコップのビールに少し口をつけてから言った。


 すっかり以前の江美の口調に戻っていることに僕は安心した。

 江美ならスタイルもいいし、ボリュームのある胸が客を魅了するだろう。


「妊婦さんのダンスは誰も興奮しないよ」


 僕は出された料理に箸をつけながら言った。


「先週、病院に行ってきたの。最近は気分も良くなってきたわ。浩一がお盆明けに来てくれたころは不安だらけだったのだけど」


 江美は少し僕の顔色を窺うような感じで話をした。


「それはよかった。もしかしたら江美、ビールもあまり飲まなくなったけど、妊娠を気遣ってのことなのか?」


「大量の飲酒は絶対駄目ってお医者様は言うの。でも少しくらいなら影響がないって。だからコップ一杯くらいのビールにしておく」


 あれだけビールやワインが大好きな江美が節制しているのだから、やはり赤ん坊が生まれるということは女性の人生にとって大イベントなのだ。


 巨大な責任感が僕の背中から全身に広がっていくような感覚になった。


「それで、いつ安来の実家に行こうか?」


 江美に代わって食器を洗い、あと片付けが終わって卓袱台の前に座って僕は訊いた。


 江美は僕のためにコーヒーを淹れてくれていた。

 江美はコーヒーを飲むのも控えていた。


 「そうね、来月の半ばごろにしようかな。でも浩一、何度も聞くけど、本当にそれでいいのね。私と結婚してもいいのね?」


「そう思っているよ、大丈夫」


 躊躇する気持ちがないわけではない。

 ただ、これから先のことをどういうふうに一つ一つ片付けていけば良いのか、漠然としていて何も考えられなかった。


 来年の春には赤ん坊が生まれる。

 そのころには大学を辞めて仕事に就いていなければならないし、入籍も済ませておかなければいけないのだ。


「じゃ、私の実家に行って了解をもらったら、そのあと浩一の実家に連れて行ってね。反対されないか心配だけど、既成事実ができてしまったのだから、浩一がキチンと説得してくれるわね」


「もちろんそうだよ、心配ない。両親は絶対に反対しない」


 大学を途中でやめることになるので、父は多少落胆するだろうが、母は心配性だから、どこで何をしているか分からない状態より、結婚して子供ができると聞くとかえって安心すると僕は思っていた。


 いずれにしても僕の両親は江美と一緒になることを反対しないはずだ。


 問題は江美の両親だ。

 そんなだらしない男との結婚は許さない、子供は実家で引き取って育てる。

 そんな男と別れろと許しが出ない可能性だってあるのだ。


「江美の両親が僕は怖いんだ。大学生の分際で娘を傷物にしやがってと言われないかな。きっとお父さんは僕を殴るだろうな」


「殴られるのが嫌なの?」


「殴られるのが好きな男なんていないよ」


「いいじゃない、私のために父に一発や二発殴られたって。それくらい覚悟の上で私を抱いてこうして付き合っているんじゃないの?男でしょ、浩一」


「分かったよ、そういうふうに怒るなよ。赤ん坊にも悪いよ。ちゃんと殴られるから心配しなくていいよ」


「じゃ、許してあげる」


 江美は僕の横に身体をずらせてきてキスをしてきた。

 キスをするのは久しぶりのような気がした。

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