第41話
考えたくはなかったが、優里を愛しながら江美と急速度で親密になり、そして優里を自らの意思で失い、今僕は江美との間の命も失ってしまった。
頬に涙の筋を残したまま微かに寝息をたてて眠る江美を見ながら、僕は心が壊れてしまいそうになった。
江美との暮らしや、ふたりで赤ん坊を育てる姿を何度も想像したことがあるが、それらすべては絵空事となってしまったのだ。
おそらく江美と僕の赤ん坊は十数センチの命に成長していたはずだった。
その命が一瞬で消え去った。
彼或いは彼女は、自分の意思を伝えることもできず、その命が消し去られてしまったのだ。
しばらくは江美のそばから離れずにいて、大きな悲しみの何割かでも僕が負担できるならそうしたいと思った。
ニューパラダイスの豆狸に連絡を取って、故郷の身内に不幸があったので一週間ほど休みたい旨を伝えた。
「それは大変やから、ちゃんと片付くまで店のことは気にせんと親孝行せなアカンで。来れるようになったら、いつでも来てくれたらええさかいにな」
豆狸は本当に心配そうに言った。
見かけは強欲そうな中年男だが、根は優しい人間なのだと思った。
江美は自ら会社に電話をして、体調が優れないのでしばらく休むと伝えていた。
僕にしてやれることは、簡単な食事の用意と清潔で熱いタオルで身体の隅々を拭いてあげること、薬を飲む手伝いをしてあげることくらいだった。
一週間が経つと江美の体調はずいぶんよくなって、次第に明るさを取り戻してきた。
だが、ふとしたときに、僕がこれまで見たことのない悲しい表情を見せた。
そんなとき江美の全身は、僕が声をかけることも躊躇してしまう何かに包まれていた。 心の回復までにはまだ時間がかかりそうだった。
「浩一、赤ちゃんは亡くなってしまったけど、私とこれまでどおりの関係でいてくれるの?」
江美は小さな声で訊いてきた。
あの快活でさっぱりした気性の江美が、少し上目遣いで僕の気持ちを探るような顔をした。
「そんなこと気にする必要はないよ。赤ん坊はきっとまたいつかできるよ。それより安来の実家に僕たちのことについて話をしに行かないといけないね」
赤ん坊は失ったが江美と一緒になる気持ちは変わらなかった。
逆にこういうことが起きたからこそ江美を大切にしなければいけないと思っていた。
優里をあれだけ傷つけた僕が、今度は江美にも同じ傷をつけることはできない。
「その言葉、すごく嬉しい」
江美はようやく微笑んで言った。
いつの間にか秋の気配が深まり紅葉の季節になったころ、僕はいったん京都へ戻り、再びいつもの暮らしを始めた。
江美は体調も回復して以前の日常生活に戻り、表情にも彼女が持つ本来の快活さが窺えるようになった。
土曜と日曜日の夜は江美の家に泊まり、前ほどではないにしても、江美は好きなワインを飲むようになった。
ベッドでは「そろそろやらせてあげようか」と戸惑うようなことを言うときもあった。
江美と連絡が取れなくなったのは十一月初旬のことだった。
電話に出ない日が二日続いたので、その翌日、僕は朝早く起きて江美の家へ向かった。
三日前の夜、電話で安来の江美の実家にいつ行こうかと話し合ったばかりだった。
江美の家には午前九時過ぎに着いた。
玄関をコツコツと叩いても応答がなかった。
玄関横のゴミ箱がきれいに空になっていて、その横に黒い大きなビニール袋が数個出されていた。
電気メーターの回るスピードがジリジリと緩慢な動きになっていた。
僕はもう一度玄関のドアをかなり強く何度も叩いた。
「あのう、野口さんは引っ越されましたよ」
いつの間にか僕のうしろに中年の主婦が立っていた。
「えっ?」
「一昨日の昼間、運送屋のトラックが来ていましたよ。野口さんは夕方、このご近所何軒かだけに挨拶に来られました。大きなカバンを持っていて、これから実家へ帰ると仰ってました。前にここにお住まいだった叔父さんも手伝いに来ていました」
江美が実家へ戻ってしまった。
先週会ったときは何も言っていなかったのに、僕に何も言わずに引っ越してしまった。どうしてなんだ。
バス停を通り過ぎてしまっても、なぜ江美が急にいなくなってしまったのかを僕は繰り返し考えた。
江美は両親にまだ僕たちのことを話していないはずだ。
何か急に田舎に帰る理由ができたのか。もしそうだとすれば、事前に話をしてくれるはずだ。
何度考えても江美が急に実家に戻ってしまった理由が分からなかった。
江美がいなくなってしまってから二週間が経った。
僕はすぐには島根県安来市にある彼女の実家を訪ねて行かなかった。
江美から手紙が届く可能性があったので、逸る気持を我慢してバイトだけをする日常を送った。
田舎に帰らないといけない急な事情ができて、それを僕に伝える時間がなかったのかも知れないとも思ったが、二週間も手紙が届かないとなると江美の意思による行動と判断するしかなかった。
江美も優里も赤井もいない一日は、目覚まし時計をかけない怠惰な目覚めからはじまった。
身体の疲れに任せた目覚めは午前十一時を過ぎていることもあれば、午後二時ごろまで死んだように寝続けることもあった。
顔を洗い、歯を磨いて近所の小さな喫茶店へ気だるい足を運ぶ。
もう初老に近いマスターは、注文しなくとも熱いコーヒーとよく焼けた厚めのトーストを出してくれた。
いつもと変化のない窓の外の景色をぼんやりと眺めながらそれをかじり、コーヒーを流し込んだ。
店内に流れている音楽は最近のヒット曲で、風の「二十二歳の別れ」やバンバンの「いちご白書をもう一度」など、僕の心をさらに切なくさせるものばかりだった。
一時間ほどしてからアパートへ戻る。
そして午後五時を過ぎると天神川御池から市バスに乗り、京の夜の歓楽街へ出勤するのだ。
こんなふうにして一ヶ月近くが過ぎた。無味乾燥な毎日だった。
師走の声を聞くと街の様子が一変するのが不思議だった。
四条河原町の交差点あたりにしばらく佇んでいると、商店街を行き交う人々は慌しく急ぎ足で通り過ぎ、街角には早くもクリスマスソングが流れはじめていた。
京都の冬は盆地ゆえに寒さが厳しい。
優里も江美もいなくなってしまった僕の心は、京都の寒さによってさらに打ちのめされた。
ある朝、窓からのいつもと違う鮮烈な陽射しに目が覚めた。
磨り硝子の窓でも外の鮮明な白が映って見えた。
電気毛布から身を出すのにいつも少し勇気が必要だ。
僕はゆっくり身体を起こして、ベッドから片足ずつ床に足を下ろした。
窓を開けると、広大なアパートの敷地一面が白化粧に変わっていた。
思わずため息が出た。
冷風が勢いよく暖かい部屋に飛び込んできて旋回する。だが、寒さは感じない。
その冷たさが頬をかすめるとかえって心地よい。
しかし一面の雪の白さは、この世にこんな白が存在するのかと思うほど鮮やかで、四国育ちの僕にはこんな圧倒的な雪化粧は初めてだった。
江美から手紙は来なかった。
僕はそろそろ会いに行こうと思った。
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