第37話


 岐阜で優里と別れてから、江美には毎日のように電話連絡はしていたが、しばらく会う気持ちにはなれなかった。


 次への行動に踏み切るための燃料が、僕のこころの中に不足していたからであった。


 あの日、柳ヶ瀬通りから金華橋通りへ出た途端にタクシーを拾って逃げるように行ってしまった優里のことを、僕は米原駅のホームのベンチに座って朝までずっと考え続けた。


 心配した駅員が「朝の五時過ぎまで列車はありませんよ。よければ駅舎の中の待合室でお休みになりませんか」と親切に言ってくれた。


 でもホームのベンチで夜明けを待ちたいと思って、僕は彼の親切を丁寧に断った。

 駅員はしばらくホームで考えていたが、やがて心配そうな顔を残して立ち去った。


 夜行列車に飛び込み自殺でもしかねないほど、僕は悲壮な表情だったのか、或は切迫した雰囲気を駅員は感じたのかも知れなかった。


 「マギー」のマスターは、「どうしても別れないといけないのなら、それは仕方のないことです。どちらかの愛が醒めた場合も、それはもう無理でしょう。でも、別れることはいつでもできますよ。おふたりはどちらかが醒めてしまったのですか?」と僕たちに訊いた。


 そしてふたりの気持ちが醒めたわけではないと優里が話すと、「特に急ぐ必要がなければ別れるとはっきり決めなくても良いんじゃありませんか」と言った。


 僕は夜が明けるまでベンチに座ってその言葉を何度も反芻した。


「じっくりお考えになればいかがかでしょうか?慌ててはいけません」と彼は言った。


「でも慌てなければならないことなんですよ、マスター」と僕は声に出して呟いた。

 僕はそう自分に納得させて、ようやくやって来た始発の列車に乗った。



 江美には、九月の連休がある週に安来の彼女の実家へ挨拶に行こうと伝えていた。

 そのことを具体的に決めなければならないのだが、僕は少し億劫に感じていた。


 僕の気持ちが変わったわけではない。

 若造の僕は、娘を妊娠させられた親の気持ちがどのようなものか想像できなくて、彼女の実家を訪ねて行くことが正直怖くなっていたのだ。


 ニューパラダイスのバイトが忙しいからと、九月半ばを過ぎても僕は江美の家には行かなかった。

 それでも毎夜、電話連絡だけは入れていた。


「忙しいのなら十月でもいいのよ。すぐにどうなるわけじゃないから。逆に少しお腹が目立つようになってから実家に事情を話せば、両親もあきらめるしかないものね。それから、出版社は年内に退職することにしたわ」


 江美は僕が家に寄らない理由を疑いもしなかった。


 僕は大学が始まっても講義に出なかった。もうどうでもいいと思いはじめていた。


 それどころではない。

 こんなとき、学問なんて何の支えにもならないじゃないかと思った。


 僕は昼ごろまで寝て、目が覚めてもベッドで一時間ほどもダラダラと考え事をし、それから近くの喫茶店でトーストを食べてコーヒーを飲み、しばらく本を読んだ。


 夕方になると、そろそろ支度をしてバスに乗って四条河原町まで出た。


 ニューパラダイスのバイトは単純だったが、毎週金曜日に三十分ほど「特出し」があった。


 金曜日の午後八時になると、正面に設けられた小さな舞台でヌードショーがはじまる。


 ホステスが交代で踊るのではなく、週に一度、このためだけに店に来る少し熟年のダンサーが妖艶な踊りを披露するのだ。


 スタッフが不足している日には、僕が照明係を言いつけられることもあった。


 ダンサーの腰のくねりや豊満な乳房が揺れる様は、健康的な性欲を持っている僕を興奮させた。


 その興奮を僕は引きずって、ある夜などは帰りのマイクロバスの中で、隣に座ったミチというホステスの胸のふくらみが魅力的で、わざとふざけて肘を胸に押し付けた。


「ちょっとアンタ責任取りなさい」


 彼女のアパートの近くで僕は一緒に降ろされた。

 ミチはいつも僕が注文を訊くためにテーブルの前でひざまずくと、「ボーイさんにチップあげて」と客に言ってくれた。


 ミチの客をマークしているだけで一晩のバイト料に近いチップを得た日もあった。

 僕はミチと普段から冗談を言い合う関係になっていた。


 ミチに引っ張られてマイクロバスを一緒に降りた僕は、彼女のアパートに連れて行かれた。


 玄関のドアを閉めると、彼女は僕に抱きついてきて激しくキスをしてきた。

 優里や江美とは違った、欲望だけの激しいキスだった。


 シャワーも浴びず、僕とミチは単に肉体の欲望だけで身体を合わせた。

 ミチは「アンタのフワフワした雰囲気が好きやわ」と言った。

 僕は性欲だけのセックスは心が醒めたままで何も満足しなかった。


 明け方、ミチが疲れ果てて寝入った姿を見て、彼女には誰か大切にしてくれる男の人が必要だと思った。

 誰もが寂しいのだ。



 帰り道、僕はいったい何をしているのだろうと猛烈な自己嫌悪に襲われた。

 高校生のころ夜遅くに友人の家を突然訪ねて行って驚かせたように、「死にたい」と思った。


 バスに乗ってアパートに帰ると赤井はすで起きていてコーヒーを飲んでいた。

 赤井は少し前から体調が思わしくなく、バイトを休んでいた。


「朝帰りか?」


「ああ、ちょっとね」


「それにしてもお前、顔が死人みたいでフラフラやないか。いったいどうしたんや?」


 どうやら僕はゲッソリした風貌だったようだ。

 バイトのあとミチのアパートで一睡もしなかったのだから当然だった。

 僕は赤井の言葉を聞いて猛烈な疲労を覚え、ベッドに転がった。


「小野寺、俺はちょっと身体の具合が悪いからバイトはもう辞める。そして毎週金曜日は大学が終わったら実家へ帰って、月曜日に講義のあとこっちに来る。つまり毎週月曜から木曜まで四日間だけここで寝ることにする」


 赤井はカバンに教科書を放り込みながら言った。


「それじゃ家賃のうち、もう二千円ほど僕の方が多く負担しようか」


「俺の家はブルジョアやからそんな気遣いは要らん。それより小野寺、お前はもっと大学へ行け。最近のお前はちょっとおかしいぞ。何しとるんや」


 赤井は僕の申告を聞き入れなかった。

 それは僕にとってありがたいことなのだが、もっと大学へ行けという彼の忠告も、空しい気遣いとなってしまうのだった。


 赤井が大学へ出かけたあとも、僕は疲れ切っていたにもかかわらず、なかなか寝つかれなかった。

 こんなことじゃ駄目だ、今度の日曜日は絶対に江美と会おうと思った。


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