第36話
マギーの重い扉を引くと、まだ誰も客はいなかった。
一度しか来たことがないのに「こんばんは、お久しぶりです。よくお越しくださいました」と、顎鬚のマスターが微笑んだ。
僕たちは前回と同様に一番奥の方の席に座った。
「ウイスキーを、ロックで」
「かしこまりました、彼女は水割りにしましょうか」
マスターが訊くと優里は頷いた。
この店で優里に何を話そうかと考えた。
別れを告げた相手にこれからのことを話すのはおかしいし、これまでのことを懐かしむには不適切だ。
僕が黙っていると優里も何も話そうとしなかった。
僕たちは時々ナッツを口にしながらウイスキーを飲んだ。
優里は水割りのグラスをジッと見て、それから少しだけ口をつけた。
そしてその動作を繰り返していた。
店内に流れていたナット・キング・コールの素晴らしいバリトンが、髭のマスターと店の雰囲気にピッタリだと思った。
「When I Fall in Love」が流れてきた。
僕は優里と初めて会った日のことを思い起こした。
何の連絡もせずにいきなり職場を訪れた僕を、紡績工場の守衛さんも彼女も受け入れてくれた。
十日後の二度目の岐阜は真夏の暑い日だった。
建設中の岐阜県庁を眺めながら、広大な田んぼの木陰で汗をかきながら話をした。
その日から僕たちの恋が始まっていた。わずか二年前のことだ。
僕はウイスキーを味わうように飲みながらそのころを懐かしく振り返った。
それにしても本当に静かな夜だった。
いつの間にか優里に何を話そうかと考えなくなっていた。
本当に優里と今夜で別れるのかどうかさえ分からなくなってきた。
それほど静かで穏やかな空気だった。
マスターは僕と優里の沈黙に口を挟むようなことはしなかった。
マスターを交えた悪くない三人の沈黙が、おそらく三十分近くも続いた。
ナット・キング・コールは「Autumn Leaves」を歌っていた。
気持が沈む切なすぎる曲だ。店には誰も客が来なかった。
「マスター!」と不意に優里が言った。マスターがこちらを向いた。
「私たち・・・今夜で別れてしまうの」
マスターは優里の言葉の裏側を汲み取ろうとでもしているかのように、一瞬困った表情になった。
だがそれからすぐに穏やかな顔に戻って「何があったのですか?」と少し微笑んで訊いた。
「何もないの。でも別れないといけない事態になってしまったから」と優里は言った。
僕は黙っていた。
再び五分ほどの沈黙が訪れた。僕のウイスキーグラスが空になった。
マスターが水晶のような大きな氷をグラスにカチンと音を立てて入れた。
ウイスキーをグラスの三分の一程度まで注いでマドラーで転がし、「別れないと、本当にいけないのですか?よくお考えになったのですか?彼も・・・」と言いながらグラスを静かに置いて僕の顔を見た。
僕のような若造よりもおそらく二まわり以上も深い年輪が窺える、とても素敵な表情でマスターは僕たちを見て、そして言った。
「どうしても別れないといけないのなら、それは仕方のないことです。どちらかの愛が醒めた場合も、それはもう無理でしょう。
でも、別れることはいつでもできますよ。おふたりはどちらかが醒めてしまったのですか?」
「いえ、そうじゃないんです。ふたりの気持ちに変わりはないんです。でも・・・」と優里は顔を上げて呟いた。
「それなら良いじゃありませんか、別れなくとも。もう一度よくお考えになる余地はないのですか?」
マスターは少し首を傾げて言い、「特に急ぐ必要がなければ、別れるとはっきり決めなくても良いんじゃありませんか」と付け加えた。
僕はマスターの言葉のあと優里のほうを見た。
彼女はややうつむき加減に両手に持ったウイスキーをじっと見つめていた。
僕は優里に何か言おうと適切な言葉を考えた。
だが、ちょうどそのときドアがゆっくり開いて若いカップルが入ってきた。
「おふたりでもう一度じっくりお考えになればいかがでしょうか。慌ててはいけません」
マスターは自分に言い聞かせるように言って、二度ばかり頷いてから新しい客のほうを向いた。
僕と優里はそれからしばらくして店を出た。
時刻は午後十一時を少し過ぎていた。
「じゃあ、私帰るから、浩一さん、さよなら」
柳ヶ瀬通りから金華橋通りへ出たところで優里がいきなり言った。
そして僕が何もできず呆然としている間にタクシーを止めて行ってしまった。
優里を乗せたタクシーはあっという間に遠くの闇へ消えてしまった。
少し酔っていた優里のことを心配しながら、僕はまるで捕虜収容所へ連行される戦い敗れた兵士のような足取りで岐阜駅まで歩いた。
夢遊病者のように切符を買って改札を入り、下りの列車に飛び乗った。
行けるところまで行こう。そしてそこで朝まで待って始発に乗れば良いと思った。
朝まで列車を待っている間、ずっと優里のことを考えよう。
僕はかなり酔った頭の奥の方で繰り返し思った。
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