第35話
「浩一さん」
「うん?」
ようやく優里は顔を上げた。
「浩一さんは真面目過ぎるから、きっと私とその女性とを両方大切にしようとしたのね。私、浩一さんに愛されているのがずっと伝わってきたもの。
だから、その女性とお付き合いがはじまっていたとしても、私への気持ちが変わったとはちっとも感じなかった」
僕は今でも愛しているのは優里なんだよと言おうとしたが、ためらった。
別れる女性に対してそういう言葉はますます相手を傷つける。
「女の人がいたんだ、浩一さんに・・・」と優里は呟いた。
それからショルダーバッグから手鏡とハンカチを取り出して、目のあたりを整えた。
そしてそれらをバッグにしまってから、僕のほうを向いて微笑んだ。
目は泣き腫らしていたのに無理に笑おうとした。
僕にはそれがよく分かった。
どうして君はいつもこうなんだ。
僕は優里の顔を正面から見ることができなくて胸が苦しくなった。
優里、僕を罵って欲しい。
「私は浩一と別れたくない。その女性と別れて欲しい。絶対にそんな別れ話には応じないから」と言って僕を非難し、僕が困るほど取り乱して欲しいんだ、優里。
いつの間にか長良川の向こうに太陽が沈み、あたりは次第に暗くなってきた。
公園の人々は入れ替わり、周りのベンチでは若者たちのカップルが愛を囁き合い笑っていた。
僕と優里は別れ話でびしょ濡れになっていた。
「浩一さん、明日帰ればいいんでしょ」
「うん」
「それじゃ、今夜は前に行った柳ヶ瀬のバーに行きたいわ」
「優里・・・」
「私、今夜ひとりになったらどうなるか分からない。今日、これから浩一さんが京都に帰ってしまったら、寂しくて死にそうになるわ。だから、朝まで一緒にいて欲しいの」
優里は僕の目をじっと見つめて言った。
僕は優里が愛おしくてたまらなくなった。別れなければいけない理由はすべてこの僕にある。
江美にも責任はなく、優里にはもちろん何の罪もない。
「優里、分かったよ。そうしよう」
僕たちは陽が沈んでからも少しだけベンチにいて、それから公園を出た。
岐阜公園から柳ヶ瀬方向へゆっくり歩いた。
思えばこれまで優里と京都を何度も長い時間歩いた。
鴨川べりを何キロも歩き続けたこともあった。
あれは二年近く前だったか、鴨川から上がって哲学の道を南禅寺方向へ歩いて、それから四条大橋までさらに歩いた日もあった。
ふたりの歴史を作りはじめたころだった。
そして僕たちは京都で何度も会った。
僕たちはただの一度も喧嘩をしたことがなく口論さえも記憶にない。
鴨川沿いを歩き、ホテルで愛し合った。
僕は優里と歩きながら彼女とのこれまでのことを思い起こしていた。
「手をつないで、浩一さん」
「ああ、そうだったね、ごめん」
愛し合っていると信じていた相手から突然の別れを宣告されると、心の中の「幸福感」がまるで初春の雪崩のように大きな音とともに崩れ落ちてしまう。
優里はまさに今それに直面しているに違いないのだ。
だのに彼女は今、普段と変わりなく装っていた。
僕は戸惑っていたが優里は平静を保っているかのようだった。
週末の夜の柳ヶ瀬通りは夕食を求める家族やカップルで賑わっていた。
大勢の人々がそれぞれの目的で、それぞれが踏み入れている人間関係の中で生きていた。
僕は優里の手を握って歩き続けた。
時折、優里が手を強く握ってくると僕もそれに応えて強く握り返した。
僕の心の中には、この二年余りの優里と過ごした時間の数々の断片が現れては消え、そして次のシーンが現れた。
「このあたりの路地を入ったところにあったよね、その・・・前に行ったバーなんだけど」
「もう少し歩いてから右手に折れたところに多分あると思うわ」
「優里、まだ時間が早いし何か食べようか?」
「いいわよ、私はあまり食べられないかも知れないけど」
別れ話のあとすぐにウイスキーを流し込めば、僕は自分が統制できないくらいに酔って、別れを告げたばかりの優里に「さっきの話は嘘だ!」と叫んでしまうような気がした。
だから少しだけレストランのようなところに入りたいと思った。
小さな店だとだめだ。
こういうびしょ濡れの気持のときは、せめて大きなレストランでないと気持が潰れてしまう。
僕たちは柳ヶ瀬通りから少し外れた場所にあるシティホテルに入った。
広々としたホテルの一階のロビーには、ホテルの上階のレストランや和食店への客がたくさんいた。
このホテルはビジネスマンなどが商用で主に利用する他、地元市民の結婚式などにも利用されているようだった。
僕たちは五階にある広いレストランに入って窓際の席についた。
ウエイトレスは僕と優里を見て、なぜか分からないが一瞬だけ目を大きくした。
窓からは平和な夜の岐阜の街が遊園地みたいに見えた。
僕と優里は、これまでのふたりの平和を、今夜僕の手によって手放すことになった。
「それで、浩一さん、松江で知り合った女性の話、まだ聞いていないわ」
優里は運ばれてきた冷たい水を一口飲んでから言った。
「聞きたくないことだと思うけど、話すよ」
僕は江美とのことをかいつまんで優里に説明した。
もちろん妊娠してしまったことも話をした。
優里にとっては自分以外の女性と僕が深い仲になっていたことが、言葉で言い表せないほどショックに違いない。
僕の話を聞けば聞くほどますます辛くなるはずだ。
逆の立場だったら、僕は優里が違う男性と親密な関係になった経緯など聞きたくもないだろう。
ましてや優里が妊娠したなどと知った途端に、きっとその場から駆け出して二度と会いたくないだろう。
心が広いとか狭いという問題ではなく、愛している相手から心変わりを告白されたら誰だってそうなるのではないか。
僕は江美と知り合ったきっかけからこれまでの経緯を話ながら、ゆっくりとサラダを食べはじめた。
でも優里は何も手をつけず黙って僕の話を聞き続けた。
「この一年ほどの間なのね、その人と。島根県から浩一さんを追って来たのだわ。私にはできないことね。すごい女の人だわ。私はだめね、ずっと待っているだけだったから」
僕はもう何も言いたくなかった。
優里の言葉に相槌を打つことでさえ、彼女の心にガツンと楔を打っているような気がした。
優里、もう聞かないで欲しい。
「優里、ともかく食べよう。ピザが冷たくなってしまうから」
「それで・・・浩一さんは、その人と一緒になることで、それで本当にいいのね?」
優里はようやくフォークを手に取ってから言った。
僕はその言葉について少し考えた。
「優里、君を裏切り続けていたことは心から謝る。でも本当に愛しているのは優里なんだ。いつか江美とは別れないといけないと思っていたのだけど、赤ん坊ができてしまったとなればどうにもならないから・・・」
僕はうまく説明できなかった。
優里は僕のこの言葉のあと黙り込んで、料理をすごい勢いで食べはじめた。
僕は目の前の優里の姿を何ともいえない気持ちで見ていた。
一時間ほどしてレストランを出て、柳ヶ瀬通りに戻って駅の方向へ歩いた。
「この路地を入ったところよ」と優里が言った。
「マギー」と書かれた見覚えのあるバーが見えた。
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