第34話
翌週の土曜日、僕は優里に会うために岐阜へ向かった。
江美の存在を打ち明けて、今度こそ別れを告げなければいけない。
翌日の日曜日は僕も優里も休みなので、今夜はゆっくりと話そうと少し重い心で考えていた。
午後一時過ぎに岐阜駅に到着した。
優里は改札口を出たところですでに待っていた。
これから話す内容など何も知らない優里の顔を正面から見るのが辛かった。
「浩一さん、ずいぶん日焼けしたわね。身体壊さなかった?」
「大丈夫だよ、もうテキ屋の仕事にも慣れてしまったからね」
「私のほうから行ってもかまわなかったのに、疲れているのに来てくれてありがとう」
「僕が岐阜に来たかったんだ、気にしなくていいよ。優里、それより今日は静かな場所へ行きたいんだ」
別れ話をするのに喫茶店やレストランではだめだ。
適していない。
しかし、なぜこうも普段と変わらない態度で優里と接することができるのか、自分が分からなくなった。
こういうときこそ神妙な態度で臨まなければいけないのに。
僕はそんな自分に腹立たしく、そしてこれから本当に別れ話を始めるのだろうかと、不思議な気持ちになるのだった。
「静かな場所?」と優里は呟くような声で言ってから「ううん・・・」としばらく考えていた。
なぜ僕が静かな場所を望んだかも同時に考えている様子に思えた。
「それじゃ、金華山はどう?」
「金華山って?」
「ほら、あそこに見えるでしょ、あの山。ロープウエイで上まで行けるのよ。展望台やお城や公園があって、岐阜では一番の場所かな」
僕たちは金華山へ向かった。
駅前からバスに乗って十数分の岐阜公園前で下車し、少し歩くとロープウェイの山麓駅に着く。
僕たちは会ってからすぐにどちらからともなく手をとり、ロープウェイの中でもずっと手をつないだままだった。きっと仲の良い若いカップルにしか見えないだろう。
でも、今日こそ話さなければいけない。
次第に小さくなっていく岐阜の町や長良川の曲線を眺めながら、僕は憂鬱な気分になっていた。
つないだ手から、僕の心の中を伝えることができるものなら伝わって欲しいと思った。
ロープウェイが山頂駅に着いてから、天守閣まではかなり急な階段を五分以上も歩いた。
思えば松江で野口江美と知り合った翌日、僕と江美は松江城の天守閣の望楼に上がり、そこからの景色に僕は感動し、そして江美の仕草や言葉にときめいた。
そのとき、優里がいながらも江美との関係がはじまってしまった。
そして今、僕は優里と岐阜城に上がり、そこから見渡せる美しい岐阜の町や長良川の流れを眺めながら、これから別れ話をはじめようとしている。
いったいどうしてこうなってしまったのだ。
僕は優里を愛しているのではなかったのか。
江美を愛したから優里と別れるわけではない。僕が愛しているのは優里なのだ。
大学一年の夏、優里が働く紡績工場にいきなり訪れたときから、僕は優里だけを見続ける責任が生まれていたのだ。
優里のことだけを考えて、どんなときでも優里だけを思い続ける義務があったのだ。
それが人を愛するということではないのか。
自分の身勝手でスタートさせた恋の責任を、今僕は自分の身勝手で放棄しようとしている。
優里は別れ話が切り出されることなど露ほども疑わず、僕の右手をしっかり握っていた。
「僕のような男を好きになってくれてありがとう優里」と僕は心の中で叫び、彼女の左手を強く握った。
「痛いわ、浩一さん。そんなに強く握ったら折れちゃう」
優里は僕のほうを見て笑って言った。
僕は言葉が出ずに優里の横顔を見続けた。
「どうしたの、浩一さん。何かあったの?今日はあまり喋らないのね」
優里は心配そうな表情に変わった。
「優里、今日は大事な話があるんだ。よく聞いて欲しいんだよ」
強張った顔になっているのが自分でも分かった。
僕たちは天守閣に十五分ほどいただけで、再びロープウエイで山麓駅までおりて岐阜公園の中をゆっくり歩いた。
会話はほとんどなかった。
僕が黙っているので、優里は僕が話そうとしていることに不安を持ちはじめたようだった。
僕たちは日陰のベンチに腰をかけた。僕はしばらく瞼を閉じた。
できることなら一年余り前まで時間を戻して欲しい。
去年の松江の水郷際へ行く前まで時計を戻して欲しい。
そうすれば僕は優里だけを見続けることができる。今度は迷わないはずだ。
「浩一さん、私と・・・もしかしたら、別れたいって言うんでしょ?」
「えっ?」
黙り続けていた僕に、優里はいきなり言った。
「いいのよ、言ってくれて。いつだったか・・・大学を辞めようと思うって、わざわざ岐阜まで、それだけ言うために、いきなり岐阜駅にいるって電話してきた日があったでしょ。おかしいわよね、それだけの話で急に来てくれるなんて。
あのとき、本当は大学の話だけじゃなくて、そんなことよりもっと話をしたいことがあったのでしょ。あの日会ったとき、浩一さんに誰かいるって思ったの。でも、私がそれを聞いたら、早く終わってしまうと思って、それが怖くて私・・・」
優里は途切れ途切れに言ったあと、下を向いて静かに泣きはじめた。
「優里、それは違うよ」
僕はそう言ったあと言葉が続かなかった。
「分かるの、だって、浩一さんは、嘘が・・・嘘がつけない人なのよ。自分で分からないんだと思うけど、私を気遣ってくれていたのは痛いくらい分かっていたわ」
優里は僕の言葉に首を振り、涙で濡れた顔など気にもせず言った。
「話すと優里を失うことになるから、それが怖かったから言えなかったんだ。でも今日は本当のことを今話すよ。すべて僕が悪いのだけど、話さなければずっと優里を欺くことになるから。実は去年の夏にテキ屋のバイトで島根県の松江に行っただろ」
「憶えているわ」
「その松江で、二日間のバイが終わった夜、岡田さんに連れられて行った飲み屋で知り合った女性がいてね。その女性と成り行きで親しくなってしまったんだ」
僕がそこまで話した時、優里はウッと声を出して両手で顔を覆い、激しく泣いた。
声こそ押し殺していたが優里の泣き方は、今まで映画やドラマで女優が泣くシーンでも見たことのない激しいものだった。
ときどき、顔を覆った手の隙間から小さく嗚咽が漏れて、それが僕の胸に突き刺さった。
「私には分かるの・・・」と優里は言ったが、本当に僕の口から別の女性の話が切り出されると、やはり大きなショックに違いなかった。
強烈な太陽が岐阜公園内の人々を照射していた。優里は上半身を折り曲げるようにして両手で顔を覆ったままいつまでも泣き続けていた。
太陽が次第に公園の木々の向こうに隠れて日陰が広がりはじめるまでそれは続いた。
僕は何も言えず黙ったままだった。
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