第33話


 江美の家には夜六時半ごろに着いた。

 彼女は近くまで出かけていたようでちょうど帰宅したところだった。


「ごめん、まだ何もできてないのよ。お腹空いたでしょ、ちょっと待ってね、お姉さんがすぐに美味しいご飯を作ってあげるから」


 松江で会ったときと違って、明らかにもとの江美に戻ったようだ。


「たまには何か食べに出ようよ。それとも出前でも取ろうか。バイト代がたくさん入ったからご馳走するよ」


 僕はこれまで思いついたときに少しだけお金を江美に渡していたが、考えてみれば彼女が年上だからと甘えていたところがあった。


 この日の夜は近くの和食店から出前を取った。


「江美、しばらくあまり動かない方がいいんじゃないかな。お腹が落ち着くまで注意したほうがいいと思うよ」


「うん、ありがとう。浩一は、大学を続けていいのよ。いろいろ深刻に考えているようだけど、私のことで辞めてはいけないわ。

 私この前、どうしても感情が抑えられなくて、早く伝えたくて、それで松江までいきなり行ってしまったのだけど、浩一に話すことができて落ち着いたから大丈夫よ。

 赤ちゃんができたといってもまだお腹に変化がないし、それに浩一が我慢できなかったらエッチだってできるのよ」


 食後、コーヒーを淹れながら江美は言った。


 江美の冗談は、きっと僕に心配をかけないための配慮に違いなかった。

 女性にとって未婚の状態での妊娠は人生の一大事なのだから。


「僕は江美のお腹の中の赤ん坊の父親だから・・・とも限らないかも知れないけど、ともかくそうなると大学を辞めて働く。それからできるだけ早く江美の両親や叔父さんにもキチンと挨拶をして許可を得ないといけないだろ。エッチなんか我慢するよ」


「とも限らないかも知れないって、本当に失礼なことを言うわね、殴られたいの?」


「いや、ごめん、間違いだ。僕が赤ん坊の父親だ」


「本当に失礼ね。ともかく浩一、私と本当に結婚するつもりなの?」


「もちろん、そう考えているよ」と僕は言った。


「そうするしかないだろう」と一瞬言葉に出かかったが、そんなことを言うと江美なら「ああそうかい、仕方なしなのね。そんな気持ちなら赤ん坊は私がひとりで育てる。もう帰れ、浩一。お姉さんをなめるんじゃないぞ」くらいは態度を一転して言いかねないのだ。


 いや、もしかしたら今の江美なら、そういった僕の言葉に敏感に反応して、ショックで黙り込んでしまうかもしれない。


「本当にそう思ってくれているなら私、素直に嬉しいわ。でもね、大学を卒業できないかなって、私なりに浩一が大学を辞めなくても良い方法をいろいろ考えているのよ」


 江美が言うように、大学を辞めなくてもふたりが結婚できる方法を僕もいろいろ考えてみた。

 でも良いアイデアは見つからなかった。


「それから、私の両親だけじゃなく浩一のご両親にもキチンと話しておかないといけないわね。もしかしたら、私の父は卒倒するかもしれないけど、浩一の両親はどう?」


「僕の両親は、僕が江美と結婚すると言ったら反対も何もしないよ、きっと。お前が良いならそうしろって言うに決まっているから大丈夫だ」


 江美と結婚をするのなら、彼女の両親にも僕の親にもキチンと筋を通しておかないといけない。


 筋を通すという言葉が頭に浮かんだ時、僕は安東総業の岡田と最初に京都の宿で酒を飲みながら話をした夜を思い起こした。


「まあ要するに筋を通すっちゅうことやな。通された方も気持ちよくショバ代を受け取れるし、通した方も安心してバイが出来るわけや。要するに渡世の仁義ってやつや。それを忘れて勝手なことをしたらイザコザになるわけや」


 そう岡田は言っていた。


 ともかく、これからたくさんのことを片付けていかないといけない。


 遥か遠くに、何にか漠然とした暗闇が見えた気がしたが、目を閉じてそれらを追い払った。

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