第32話


 夏祭りのバイを終えて二週間ぶりに京都に戻った。


 やらなければいけないことが僕の頭の中にたくさん転がっていた。

 幸いにも大学が休みなのが救いだった。


 優里は一週間ほど前に松山から電話したとき、お盆休みは帰省しないと言っていた。

 夜になって、アパートの一階にある赤電話から、江美より先に優里に電話をかけた。

 すぐに彼女は電話に出た。


「お帰りなさい、疲れたでしょう。電話してくれてありがとう。身体、大丈夫だった?」


「大丈夫だよ、僕のことは心配しなくていいんだよ。それより、田舎にいつ帰るの?」


 僕はできるだけ早く優里と会いたかった。


 優里に別れを伝える方法を松山にいる間もずっと考えていた。

 江美が妊娠した以上、優里と関係を続けることはできない。


「田舎にはいつでも帰れるから、浩一さんと会いたいわ。浩一さんの都合のよい日に休みを取るから」


 優里は元気そうだった。僕は涙が出そうになった。


 こんなに僕のことを考えてくれて気遣ってくれているのに、彼女は何も知らないのだ。

 僕はこれまで隠していたことを、今すぐに打ち明けて詫びたい衝動に駆られた。


「優里の今度の休みはいつ?僕が岐阜に行くからね。僕が会いに行くから」


 来週の土曜日なら都合が良いと優里は言った。

 できるだけ早い時間に京都を発つと言って僕は電話を切った。



 優里の声がしばらく心に残ったままで、同じ公衆電話から江美に電話をかけることができなかった。

 僕はアパートの外の公衆電話からかけようと思った。


 アパートがある映画撮影所はいつもひっそりとしたままで、いったいいつここで撮影が行われているのかも知らなかった。


 少し前の夜、大きな倉庫の前にセットが作られて時代劇のいくつかのシーンが撮られていた。


 それは僕もテレビで観たことがある「木枯らし紋次郎」だった。

 僕がここに住むようになって撮影現場を見たのは、あとにも先にもそれ一回きりだった。


 撮影所の裏門の木戸を開けて外に出た。

 小さな路地を抜けると住宅街に出る。


 八月下旬といってもまだまだ暑い。

 窓を開け放った網戸の向こうに幸せな家族の暮らしが少し見えた。


 ある一軒の家庭には子供がふたり、小学生位の男の子とお兄ちゃんは中学生位、そのふたりがテレビから二メートルほど離れたところにキチンと正座をして観ていた。


 同じ部屋の隅で、母親が広げた新聞紙の上にまな板を置き、注意深くスイカを切っていた。

 行儀のよい子供たち、神妙にスイカを切る母親、僕は歩行を緩めて羨望と懐かしさとが混ざった気持ちでその光景を見て、今治の故郷を思い浮かべた。


 今年の夏、弟や妹はスイカを食べることができただろうか。

 弟は進路で悩んでいるはずだし、妹も再来年は高校受験だ。

 実家に手紙はおろか電話すらできない自分を情けなく思った。


「いったいお前は何をしているのだ」と夜の闇に向かって僕は声を出して呟いた。


 そのまま真っ直ぐに五十メートルほど歩くと、映画撮影所の正面入口に通じる道路にあたる。

 そこを左に折れると銭湯があり、その前の食料品店の入口に赤電話が置かれていた。

 僕はようやく江美に電話をかけた。江美はすぐに出た。


「江美、今日帰ってきたんだけど、明日そちらへ行こうと思うんだ。かまわないかな」


「明日は事務所に行くんでしょ?バイトが終わってから来て。何が作っておくから」


「でも、あまり身体を動かしては駄目だろ」


「何言ってるのよ、まだ何も心配ないのよ。そりゃ安定期まで少しは注意しないといけないけど、まだお腹に何の変化もないし、残念ながら相変わらずのナイスバディだわ」


 江美は松江にいきなり来た日に比べるとすっかり明るさを取り戻していた。


 おそらく僕に妊娠していることを伝えたことで、途方に暮れていた気持ちが落ち着いたからに違いなかった。

 江美が元気になってくれると僕も安心した。



 翌日の日曜日、僕は午前十時前には大国町の安東総業に着いた。

 一階の事務所には留守番の若い衆と事務の女性二人がいたが、岡田は出張の疲れが残っているのか、まだ顔を出していなかった。


「はい、お土産のタルト」


 僕は女性ふたりと男性とに愛媛名物のタルトを一本ずつ入れた袋を手渡した。


「小野寺君、ありがとう。ちゃんと私らのこと気遣いしてくれてるんやね。嬉しいわ、ホンマに。お礼にキスしたげよか」と喜んでくれたが、キスは丁寧にお断りをした。


 男性からも「すんまへん、そんな気い遣うてくれんでもよろしいのに」と礼を言われた。


 女性ふたりはいわゆるヤンキー崩れの雰囲気を持っていたし、男性は半袖の上腕部から刺青が覗いていた。

 でも僕は彼女たちや彼に好意的な見方をしていた。


 それは、僕自身だってほんの少しだけ道を踏み外せば同じだと思うからなのだ。

 僕は無邪気な与太者たちの正直さを愛した。


 愛媛のバイがかなり好調だったので、岡田から少し特別手当のようなものをプラスしてもらっていた。


 事務所の彼女たちはバイこそしないが、各地の庭場の世話役などからの連絡をしっかり受けて、現地にいる者にキチンと伝える仕事で貢献しているのだから、土産くらい買って帰るのは当然のことだと思った。


しばらく雑談をしていると岡田が来た。


「おう小野寺か、お疲れさんやったな。疲れているところ悪いけどな、来週末、ちょっと二日だけ石川の片山津へ一本行ってくれへんかな。何か予定あるか?」


「岡田さん、すみません。来週末は都合悪いです。普段はいつでも大丈夫なんですけど、ちょっと大事な用があるんです。申し訳ありません」


 来週末は優里に別れを告げに岐阜へ行かなければならない。

 予定は変えられない。


「そうか、お前が駄目と言うのやから、よっぽどの大事な用事なんやろ、分かった。ともかくしばらくゆっくりせえ。秋祭りはまた手伝うてもらいたいのや」


 岡田はあっさりと言った。岡田のこういうところが僕は好きなのだ。

 決してグダグダとは言わない。


「お前がそんな神妙な顔して言うのは珍しいな。女のことか?まあええ、今日はゆっくりしていけ」


 そう言って二階へ上がってしまった。


 僕は夕方五時までときどき鳴る電話の応対をして、あとは語学の本を読んでいる振りをしながら、これから先のことをずっと考えた。

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