第31話


 翌日、水郷祭の初日は激暑の好天だった。

 祭りの人出は観光客も含めてまずまずで、町は賑わっていた。


 僕がバイを担当した大阪名物のたこ焼きは、この暑さではそれほど売れなかった。

 だが夜になると少し涼しくなって、客が途切れることがないくらい忙しくなった。


 宍道湖では打ち上げ花火が機関銃のような音を立てて盛大に上がっていた。

 そして花火のクライマックスも終わり、午後十時を過ぎてそろそろ今日は閉めようと思っていたところに、いきなり江美が現れた。


「江美、いったいどうしたの?びっくりするじゃないか」


 江美は少しだけニコッと笑って「もうすぐ終わる?」と言った。


「もう今から片付けだから。どうする?ちょっと待ってくれる」


「分かった。ちょっとそのへんブラブラしてくるから、三十分ほどしたらもう一度来るね」


 明日のバイのために残った食材を丁寧に片付けながら、江美はいったいどうして松江に来たのだろうと考えた。

 身内に何かあったのか、それとも僕に何か緊急の用があるのか、考えてみても想像がつかない。


 最後に会ったのは七月末近くだった。ついこの前のことだ。

 そのときは松江に来るとは言っていなかった。


 単に休みが取れたので驚かそうと思ったのかも知れない。

 それならもちろん嬉しいが、何か急ぎの用件があるのだとすれば、全く見当がつかなかった。


 江美が戻って来てから、僕は隣でバイをしていたカンさんに「ちょっと友人が来たので今夜は遅くなると岡田さんに言っといてくれますか」と伝言をして、バイネタを預けた。


 それから江美を連れて深夜まで営業している居酒屋へ入った。

 江美は松江市内のビジネスホテルを予約していると言った。


「あれ、ビール飲まないの?」


「うん、私はいいの。温かいお茶がいいわ」


 普段、ビールでもワインでも大好きな江美なのに、この夜は「私はいいから」と言ってお茶しか飲まず、卵焼きを少し口にしただけで食欲もなさそうだった。


「江美、身体の具合でも悪いんじゃないのか?会いに来てくれて嬉しいけど、この前会った時は何も言ってなかったから」


「本当に嬉しい?」


「えっ、当たり前だろ。でも大学の正門で待ち伏せしていたり、こんな仕事先へいきなり現れたり、そのたびに江美に驚かされるね」


 僕は少しおどけて言った。


 だが江美はいつもの快活さがなく、僕の冗談にも全く乗ってこなかった。


「こんな場所で言うのはちょっと嫌なんだけど、でも早く伝えたかったから。どうしよう・・・浩一さえよかったら私の泊まるホテルへちょっと来てくれる?」


「それはいいけど、いったいどうしたんだよ、何か深刻そうな話のようだけど。もしかして僕と別れたいとか言い出すんじゃないだろうね」


 僕はいつもと違う江美のただならない様子に戸惑った。


「違うの、そんなことじゃないの。そんなこと・・・言うわけがないじゃない」


 僕たちは歩いて十分足らずのところにある、江美が予約を入れていたビジネスホテルへ向かった。


 江美がフロントで鍵を受け取っている間、僕はエレベータ前で待っていて、そして二人で部屋に入った。


「浩一、怒らないって約束してくれる?」


「えっ、何が?」


「だから今から私が話すことを、絶対に怒らないって約束して欲しいの。約束してくれないなら話さない。そしてもう私、浩一に会わない。私、これまでこんなに困ったことなんかないのよ。

 でも今、どうしていいか分からないの。ジッとしていられないし、浩一が忙しいのは分かっているのよ、もちろん。でも私は・・・人に迷惑をかけたり、自分勝手なことをしたことなんて、これまで一度もないのよ、本当よ・・・私」


「どうしたんだよ、江美。ともかく話してくれないと分からないじゃないか」


 江美は声を震わせて泣き出した。


 でも僕には江美の涙の理由が分からず、彼女を落ち着かせることで精一杯だった。

 僕は江美をベッドに座らせてその横に腰をかけた。


「さあ、何があったのか言って。どんな話でも驚かないから。何も言わないで泣くなんて君らしくないよ」


「じゃあ言うわ、怒らないって約束よ。あのね浩一、私・・・赤ちゃんができたみたいなの。一昨日、病院へ行って分かったの」


「えっ?まさか」


 僕は一瞬ホテルが地震に襲われて揺れたのかと思った。

 唖然としている僕に江美は「まさか・・・なのよ」と言った。


 ショックという類ではないが、嬉しいという感情とは違う、なぜという感情だけが起きた。


 しばらく言葉が出なかった。自分の気持ちをどういう言葉で江美に伝えたら良いのか分からなかった。


「病院で、その・・・間違いないって?」


「間違いないわ」


 僕はうつむき加減の江美の肩を抱いて「心配ないよ、江美」と言って軽くキスをした。


 それから朝まで江美のそばにいた。そばにいてやらないと江美が崩れてしまいそうな気がしたからだ。

 シングルベッドに僕と江美は抱き合って寝た。


「エッチしてくれていいのよ。まだなんともないんだから」と江美はいつもの快活さを少しだけ取り戻して言った。


 腹部にはもちろん何の変化も窺えなかったが、妊娠していると知るとセックスの欲望は起きなかった。


「私、浩一に話をしたらホッとしたから、明日帰るね。私のことが重荷になるなら遠慮なく言っていいのよ。私の問題なのだから」


「江美だけの問題じゃないよ。ふたりのことだ。帰ったら今後のことを話し合おう。僕もたくさん考えないといけないことがあるんだ。

 だからそれまでは身体に注意しないといけないよ。このあと松山へいくけど、お盆明けには必ず戻るから、帰ったらすぐに連絡する」


 様々なことが頭の中を駆け巡り、僕は明け方まで眠れなかった。

 優里のこともキチンとしなければいけない。


 これまで偽り続けていたことが、どれだけ優里を傷つけることになるかと思うと、今すぐにでも岐阜へ飛んでいって詫びたい気持ちに駆られた。


 江美と知り合ってこの一年間、僕は優里を偽り続けていた。それは同時に江美をも偽っていたのだ。


 きっと神は、僕の偽りの恋愛関係に終止符を打たせようとしているのだろう。


 優里との恋は手放さないといけないと思った。

 それが本意なのか不本意なのかの問題ではない。

 僕は少し薄明るくなってきた窓の外を見ながらそう思った。


 隣の江美もおそらく様々なことを考えて眠れないでいるのだろう。

 僕は江美のことが愛おしく、彼女の背中をそっと抱いた。

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