第23話

 

 午後六時半を過ぎて、再び僕は優里の寮に電話をかけた。


 今度は優里が出た。

 帰ってきたばかりで、寮の食堂へ行こうとしていたところと言った。


「今、岐阜駅の近くにいるんだ」


「どうして?びっくりするじゃない。言ってくれたら迎えに行ったのに」


 優里の声は弾んでいるようだった。


「午後七時半ごろには行けるから駅近くの交番の前で待っていて」


 そう言って優里は電話を切った。


 そして時間通りに優里は現れた。


 優里は昨年の十一月に会ったときと比べて、また一段と綺麗になっていた。


 久しぶりに会って、優里がオトナに突き進んでいることと、逆に僕は彼女への誠実さを失っていることなどから、男として恥ずかしい気持ちになった。


「また癖が戻ったの?」


「癖って?」


「いきなり来るから」


「ごめん、でもいきなり来たのは最初に工場を訪ねたときと今回とで二回目だよ」


「そうだけど、毎回驚かされるから」


 優里は戸惑った感じではなく、嬉しそうな素振りだった。


 僕たちは駅北の商店街の中にあるレストランに入った。

 でも僕は今から話そうとすることを考えると空腹感はなかった。


「私、もう腹ペコ。エビフライ定食にするわ。浩一さんは何にする?」


 優里はますます垢抜けていたし明るくなっていた。

 それにこんなに食欲が旺盛だったかなと不思議に思った。


「僕はハンバーグ定食でいいよ」


「子供みたいね」と言って優里は笑い、ウエイトレスを呼んで注文した。


 以前は店の人を呼ぶのもためらっていた優里だったので、積極的に注文したのには驚きだった。


 少しずつ仕事に慣れ、社会の仕組みも分かってくるのだから、変わっていくのは自然なことだ。


「しばらく電話もなかったから心配していたのよ。それでいったいどうしたの、いきなり来てくれるなんて」


 優里はコップの水を一口飲んでから言った。

 右の人差し指に緑色のファッションリングを付けていた。


 僕はそのとき、紡績工場の面会室で最初に会ったときの優里を思い出した。


 真夏の暑い日だった。白いハンカチで首の汗を拭いていたあのときの優里の手。


 何の装飾もなかったその手がいつの間にか大人の女性の手になっていた。

 そんな優里に眩しさを覚えた。


「優里にどうしても早く話したいことがあってね。それで今は大学も休講だから、思いつきで来てしまったんだ。ごめんね」


「ううん、私はすごく嬉しいわ。でもどんな話?」


「たいした話じゃないんだ。ちょっと相談なんだよ」


「たいした話じゃなかったら電話でもよかったのに、お金がかかるのだから。でも私は会えて嬉しい。ずっと浩一さんのことを考えて仕事していたの。嫌な患者さんもいるでしょ。そんなときはね」


 優里はこれまでよりよく喋った。


 連絡もせずに会いに来たことが嬉しかったのかも知れない。

 少しはしゃいでいるような気さえする優里の表情だった。


 彼女はまさか僕から別れ話が出てくるなんて思いもつかないのだろう。


 料理が運ばれてきてふたりは食べはじめた。

 別れ話を切りだすには、全く不相応なレストランとふたりの状況だと思った。


「それで、相談って?浩一さんが私に相談したいことがあるなんておかしいわね」


「実は大学をね、もう辞めようかと思っているんだよ」


 僕は先ず大学のことを話した。優里はフォークとナイフの手を一瞬止めた。


「どうして?せっかく頑張って入ったのに」


「両立がね、やっぱり難しくて。頑張れば五年や六年かけて卒業できるよ、おそらく。でも二年で習得しないといけない単位が取れなくてね。三年に上がれないんだよ。つまり落第なんだ」


 優里はしばらく黙ってゆっくりと食事を続けていた。


 そして半分ほど残っていたコップの水を飲み干してから「もったいないわ。でも、私が協力できることは何もないのね。ごめんなさい」とまるで自分の責任であるかのような表情で言った。


「そんなことないよ、優里にはたくさん助けられたんだから。優里の励ましがどんなに心強かったか知れないんだ。

 覚えているかな?優里が最初にくれた手紙に『あなたの考えに共鳴しました。大学に進まれてさらに社会人になっても、生きる希望をなくしている人々を励ますような仕事をされることを期待しています』って書かれていたんだよ。嬉しかったなあ。

 でもね、話すと長いんだけど、少し前にテキ屋衆のある人から忠告された言葉にハッとしてしまったんだよ」


「どういうこと?」


「つまりね、大学へ入ったとしても、お前は金がないんだろってその人は言うんだ。だから金がないから稼ぐためにこのバイトをしているんですと言うと、それで勉強に影響はないのかってさらに訊くから、いえ思うようにできていませんと答えたんだよ」


「うん、それで?」


「そしたらその人は、だったらどっちかにするべきだろうって、当たり前のように言うんだ。金を稼ぎたければ大学など行かず稼ぐ。大学へ行きたいけど金がなければ、稼いでから大学へいくべきだって。

 二つをうまくやろうなんてことはムシが良すぎるってね。何だか分からなかったけど、渡世の仁義に反するとか言うんだけどね」


「でも、働きながら学んでいる人って世の中にいっぱいいるんじゃない。私だって紡績工場で働きながら定時制高校を卒業したんだし」


 優里は顔を上げて、しっかりとした口調で言った。


「勤労学生なんて数え切れないくらいいるよ。それはそうなんだ。でも僕は二部学生じゃなくて全日制だから、働く期間や時間を調整しながらなので、バイトがうまく調整できなければどっちつかずになってしまうんだよ」


 僕は話をしながら、やはり自分の不甲斐なさを言い訳しているだけだと思った。


 優里が黙ってしまうと、僕も次の言葉が出なかった。

 もう今日は別れ話なんかやめておこうと思った。


 そのとき優里が顔を上げて話をはじめた。

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