第24話

 優里は僕の目を真っ直ぐ見つめながら、口角に泡を飛ばすような勢いで言った。


「そんなふうにすぐ大学を辞めるって決めなくてもいいと思う。昼間働いて夜大学へ行っている勤労学生さんと浩一さんとどう違うの?

 浩一さんは昼間大学へ行ってそれ以外の早朝とか夜に仕事をしているわけでしょ。だから・・・その、浩一さんも勤労学生だわ。それにテキ屋さんの人が言うのは、二兎追うもの一兎を得ずって諺のことだと思うけど、二兎を追っているわけではなくて、一兎を追うために頑張っているのだから、つまり・・・うまく説明できないけど、欲張っているというのとは違うと思うのよね。

 二つを欲張っているわけではなくて、一つの目的のために二つのスタイルを並行しているってことだと思うの。何だったかな・・・渡世の?」


「渡世の仁義って言うんだよ。ヤクザさんの言葉だけど」


「そう、その渡世の仁義っていうのとは意味が違うと思うのよね」


 優里が言っていることはよく分かった。


 優里はときどき驚くようなことを理路整然と言うことがある。

 僕は優里の言うことをじっくりと考えてみようと思った。


 レストランを出て僕たちは商店街を歩いた。

 優里は明日休みだし、僕も明日の夜までに帰ればいい。


「浩一さん、今夜どうするの?」


 僕が切り出さないので、優里は言いにくそうに訊いてきた。


 僕は迷っていた。優里とホテルに泊まれば抱いてしまう。


 そうなってしまえば、おそらく江美を選ぼうとしている自分の気持ちがいとも簡単に揺らいでしまうことになる。


 本当に愛しているのは優里だとしても、結論付けて別れを伝えに来たのではなかったのか。


 本当は優里との恋を失いたくないが、「距離」という腹立たしくどうにもならない理由から別れようと決めたのに。


「優里は寮に戻らなくてもいいのかな。かまわないのだったら、少しお酒を飲もうか」


 僕は自分の迷いを酒にいったん預けようと思った。


 僕たちは岐阜駅北側の金華橋通りをさらに北へ歩き、高島屋あたりから柳ヶ瀬通りの商店街へ入った。


 この時間、まだ商店街は人通りが多かった。

 アーケードの通りから少し路地を入ったところに「マギー」と小さな板看板が掛かった、感じの良いバーがあった。


「入ろうか」


「うん、知ってるの?」


「もちろん知らないよ。でも感じの良い店だから」


 古木を利用した重い扉を手前に引いて中に入った。

 カウンター席のみ十席ほどのウッド調のバーだった。

 先客はカップルが一組だけだった。


「こんばんは、いらっしゃい」と顎鬚を蓄えた、まるで山登りをしているような格好のマスターがニコッと笑って言った。


 僕たちは奥の方の席に座った。マスターが小さなメニューを持ってきた。


「ウイスキーの水割りを」


「分かりました、ロバートブラウンになりますがよろしいですか」


「はい」


「彼女は?」


「私は・・・ウイスキーは飲んだことがないのですけど、大丈夫かしら」


「では、少し薄めの水割りをお出ししましょう」


 マスターは体格が良く、お腹が少し出ていても違和感のない登山家のような風貌だった。

 店内にも山の頂上などで撮影した写真がたくさん貼られていた。

 ここは山が好きな客が来る店のようだった。


「ここは山が好きな方たちが集まる店なのでしょうか?」


 運ばれてきた水割りを手にとって、僕はマスターに訊いた。


「山好きの方だけがお客様ではありません。全くご心配要りません。ごゆっくりしていってください」


 マスターはナッツの入った小皿を置いて、それからオイルサーデンの缶詰を開けて、少し炙ってからレモンを添えて僕と優里のカウンターに置いた。


  本当に今夜はもう優里に何も言わないでおこう、そして大学も優里が言うとおりなんとか続けてみようと僕は思った。


 彼女はよく考えてから言葉を選ぶ。

 確かに二兎ではなく僕は一つのことを追って、そのために二つの生活を重ねている。


 テキ屋の山本の言うことはもっともだと思う。

 ことに男女関係では彼の言うとおりだ。ふたりの女性を幸せにすることなんて、決してできるはずはないのだ。


 だが僕の大学の問題は全く内容が異なる。僕は次第に酔いが回ってきた頭の中でそう思った。


「僕みたいな男を好きになってくれてありがとう、本当にありがとう」と何度も繰り返し優里に言った。

 そのたびに優里は「そんなこと言わないで」と言って僕の手を握った。



 僕と優里は柳ヶ瀬通り近くのホテルに泊まった。

 初めて抱いたときと同じように、優里は体を硬くした。

 唇を合わせてお互いの吐息を感じることで、次第に彼女は身体を開いた。


「浩一さんがいつも私の手が届くところにいてくれたら、どんなに心強いか知れないわ。病院ってね、いろんな患者さんがいて、それぞれが何かの病気を患っているのだけど、でもね、身体の病気だけじゃないのよね。

 患者さんのほとんどは身体と神経との両方が病気なのよ。そういう患者さんをね・・・大変なのよ、浩一さん」


 優里は珍しく仕事のことについて話をしてくれた。


「看護婦さんって、患者さんの心のケアもしないといけないんだね」


「そうなの。それが人によっては種類の違う神経症を患っているようだし、それは表向きの病名とは違うのよ。でも精神的な部分を癒してあげないと、身体も治らないのよ」


 優里はそう言って、僕の背中に回していた手に力を加えた。


「私、もし浩一さんにどこかに行かれてしまったら、精神的におかしくなるかも知れないわ。だから・・・どこにも行かないでね」


 優里はそう言って、初めて自分のほうから唇を求めてきた。


「私、浩一さんだけよ。寮の友達は彼としょっちゅう会っているけど、すぐに別れちゃうの。そしてまた次の男の子に熱を上げたりするのよ。でも私は・・・」


「優里、分かってる。優里のこと、すごく愛しているから心配しなくていいよ」


 決して嘘じゃない。


「僕みたいな男を好きになってくれてありがとう。本当に感謝しているんだ」


「だからもうそんなこと言わないで。まるで別れるときの言葉みたいじゃない」


「そうだね、ごめん」


 今夜は別れ話はやめよう。


 僕たちはまだ将来を悲観したり、今の関係を先の見えない迷路に入り込んだふたりなどと決して不安に思う必要はなく、ドライに明るく考えるべきなのだと思った。


 でも、現実は離れて暮らすもどかしさで、優里は寂しさと辛さ、僕は自己欺瞞との葛藤に明け暮れて生きていくだろう。


僕たちはベッドで強く肌を合わせることで、その苛立ちや悲しさや迷いを、ふたりでいる間だけでも消し去ろうとした。

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