第22話
江美の家は外から見るとすでに電気が消えていた。
ドアをコツコツと叩いてしばらく待ってみたが応答がなかった。
二階のベッドのある部屋の電気も消えていた。
遅すぎた連絡など過去の男の身勝手な戯言と、とっくに心の外へ放り出したのかもしれない。
2階の部屋の窓を仰ぎ見ながらしばらく考えた。
江美に罵られてもかまわない。江美の顔を見てそして謝って帰ろう。
アパートまで二時間でも三時間でも歩いて帰ればいいのだ。
僕は入口横にあるゴミ箱の上に足を掛けて、壁を這っている水道管につかまって上がり、今度は以前店舗だった部分の幅の狭い屋根に必死に這い上がった。
屋根の上に積もった土埃で服は埃まみれになった。
埃を払いながら落ちないようにゆっくり立ち上がると、ようやく二階の窓のあたりに顔が届いた。
窓の向こうには江美のベッドがある。コツコツと窓を叩いた。
まるでオリビアハッセーとレナードホワイティングの映画「ロミオとジュリエット」のワンシーンみたいだなと思った。
窓が少し開いて江美が顔を出した。
「小野寺君、あなた何をしているの⁉︎ 危ないよ! ああ、もう困った人ね、ちょっと待って、今すぐ玄関を開けるから気をつけてゆっくり降りて」
江美は大きな眼をより大きくして驚いて、叫ぶように言った。
「玄関、開けなくていいから。ここから入るよ、いいね」
僕は窓をもう少し開けて、両手に精一杯の力をこめて自分の身体を引き上げた。
思ったより簡単に窓に身体が乗っかり、そのまま部屋に滑らせた。
途中で脱ぎ捨てた靴が店舗の屋根で跳ねて、一階のゴミ箱の上に音を立てて落ちた。
部屋の中に身体を入れると一回転してベッドに仰向けになった。
「小野寺君、あなた馬鹿ね!本当に馬鹿だわ」
江美は泣き声で言った。
そしてベッドに仰向けになった僕に覆いかぶさってきた。
二人の唇が重なった。江美のキスは激しかった。
歯磨きの香りが江美の舌から伝わってきて、それが僕を冷静にさせた。
追いかけてくる舌から逃れて唇を離し「江美、服が・・・服が埃まみれなんだよ」と言った。
「そんなこと、どうでもいいの、どうでもいいのよ。私・・・嬉しいの」
「ごめんよ、江美、ごめん。僕が悪かった」
僕の顔に江美の涙が落ちてきた。
江美との関係が復活した。
彼女とは「生活」の中での男女関係だと思った。
江美は僕を「浩一」と呼ぶようになった。その夜のことがあってから、彼女は外を歩いても腕を胸のあたりに抱くように取った。
自分の気持ちや考えを遠慮なくハッキリと言う江美だが、ひとつの言葉や所作に細かい配慮を感じるようになった。
そんな大人の江美に僕はあらためて惹かれていった。
前よりふたりの親密度が増したのは確実だった。
江美と付き合いながら優里とも連絡を取り合い、そしてときには京都で会うことなど、もはや不可能だと思った。
優里との関係は現実的ではなく「恋」というロマンの世界のような気がしはじめた。
でもそれは単に、優里との物理的な距離と空白の時間が原因というだけだった。
優里への根底の気持が変わったわけではない。
僕は江美との男と女の関係に浸っているだけだった。
三月になった。
僕は岐阜へ向かう列車の中にいた。優里に会ってきちんと話しておこうと思ったからだ。
これまでためらっていたことだが、いつまでも優里を欺くわけにはいかない。
男として面と向かって別れを伝えようと思った。
それともう一つ話したいことは、大学をやめようと考えていることだった。
会いに行くことを優里には事前に連絡をしていなかった。
岐阜に着いてから寮に電話をかけようと思っていた。
前もって連絡をすれば、きっと彼女の休日まで会うのは待ってと言うに違いないのだ。
「私が京都まで行くから」と言うに違いない。
彼女は必ずそういう気遣いをするのだ。
だが僕は、京都で会えば別れ話を切り出す自信がなかった。
最初に会った岐阜で、最初に会ったときのようにいきなり訪ねて、そして別れたかった。
別れたくはないが別れないといけなかった。
岐阜駅には夕方五時過ぎに到着した。勤務先に電話をかけるわけにはいかないので、寮へ電話をかけてみた。
何度かのコールのあと優里とは違う女性が出た。
「長峰優里は病院の方です」との返答だった。
僕は駅の近くの喫茶店で時間をつぶすことにした。
別れを切り出すと優里はどういう反応を示すだろう。
僕は目の前のコーヒーカップを見続けながら考えたが、まったく予測できなかった。
優里に「なぜ?」と訊かれたら「距離だよ」と言おう。
距離と空白の時間が原因だ。
優里がいつも近くにいてくれたら、逆に僕が優里の近くにいつもいたら空白の時間は埋められ、ふたりの関係に隙間など生まれなかった。正当な理由付けだと思った。
でもよく考えてみると、僕はこれまで優里への優しさに欠けていたのではないかと思いはじめた。
最初から自分勝手な行動で優里に会いに行き、ふたりでいても会話の八割は僕のもので、優里はいつも黙って聞いているだけで、自分の意見をあまり言わなかった。
どうしても我慢できないとき、優里は訴えるような目で話をした。
優里のことをもっと分かってあげればよかった。
優里の家族のことや職場のことや友人のことなど、優里の方からは決して積極的に言わないことを、もっと聞いてあげる配慮が必要だった。
どうしてそんなことを、別れ話を切り出そうとしている今になって気付いたのだろう。
僕は沈んだ気持ちでコーヒーを流し込んだ。
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