第21話


 

 大学は入学試験の時期になった。在学生は例年通りほぼ休講状態となった。


 二年の単位取得が可能な科目は、このままだと語学以外に数科目が精一杯という状況だった。


「君は二年間で三十単位にも満たないね。今期はまだ頑張ったようだが、一年次の取得単位が少なすぎて話にならんからね。

 うちの大学は専門科目の履修に影響がありそうな学生は、二年から三年に上げないんだよ。つまり留年となってしまうんだな。それに残念だが奨学金も打ち切りとなるよ」


 学生課の若い職員の態度は事務的だった。


 半年前には年配の職員が優しくアドバイスをしてくれたが、この彼は「大学にいったい何をしに来ているんだ?」と言いたげな態度だった。


 僕はそれ以上の話を聞く気にもなれず、彼の忠告を背中で聞きながら事務局を出た。


 外は寒かった。冬の空は冷たかった。


「いわゆる落第か」と独り言をつぶやいた。誰のせいでもない。


 ガックリきていたが、考えなければいけないことがたくさんあった。

 凍った緩やかな坂道をゆっくり歩いていると、急に野口江美の顔が浮かんだ。


 こんなとき、江美の明るい声が欲しいと思った。


 彼女ならきっと「世の中難しく考えることなんかないわ。子供だましみたいなものよ」と、あの屈託のない表情で言うだろう。


「留年が何よ、五年でも六年でも行けばいいじゃない」と、何を悩む必要があるのと涼しい顔で言うだろう。


 江美とはクリスマスイブの夜に泊まらずに帰ってから連絡を断っていた。

 僕が連絡をしなければ、江美からは連絡の取りようがないのだ。


 いくら行動力のある江美でも、もう一度大学の正門で待つことはないだろうし、アパートまで訪ねては来なかった。


 約束を破って連絡をしなかったのだから、江美はもう呆れているに違いない。

 僕は彼女の女性としてのプライドを確実に傷つけたのだ。


 アパートに帰ってから様々なことを考えた。

 大学のこと、優里とのこと、そして江美のこと・・・考えてもすぐに結論など出ないことは分かっていた。


 いつの間にか午後九時を過ぎていた。

 無意識のまま跳ね起きて、アパートの近くの公衆電話から江美に電話をかけた。

 どうしても江美の声を聞きたかった。


「はい、野口です」


 数回のコールで江美が出た。ちょっと疲れたような気だるそうな声だった。


「小野寺です・・・久しぶり」


 僕は努めて明るい声を出そうとした。

 そうすることで空白が少しでも埋められるかもしれないと考えたからだ。


「どうしていたの?心配させるんじゃないわよ。私、すごく寂しくて自殺しようと考えていたところなのよ」とでも明るく言ってくれれば救われる。


 だが江美は電話の向こうで黙ったままだった。

 僕は顔から血の気が引く感覚になった。


「ごめん、連絡しなくて。ちょっと忙しくて・・・」


「用件は何?」


 江美は怒ったような事務的な口調だった。


 江美が怒っていることは予測していたが、用件は何だと言われるとすぐに返す言葉が浮かばなかった。


 江美だって天使じゃない。身勝手をそう簡単には許さないだろう。


「用がなければ切るわね」と江美は言った。僕は言葉が全く出なかった。


 切られても仕方がないと思った。

 だが江美は電話を切らず、僕の言葉を待っているようだった。


「僕は・・・最低だ」


 体内からようやく絞り出したような掠れた声になってしまった。

 江美は黙ったままだった。辛い沈黙が十数秒続いた。


「何があったのか知らないけど、電話ぐらいしてくるものよ。大学生だからって、自由の免罪符が与えられているわけじゃなし。生きていくのにはルールがあるのよ。

 男女の付き合いにももちろんあるわよ。そんなことが分からないの?堂々と社会のルールなんて知らないとは言えないでしょ。いったい大学で何を勉強しているの?呆れて物も言えないわ」


 江美は一気に言った。


 江美の言うとおりだ。電話の向こうの江美の態度は当然だ。


「じゃ、もう切るね。今からお風呂入るから。元気でやるのよ」


 言葉のあとためらいもなく電話は切れた。


 仕方なくアパートに帰った。


 昼前に学食で軽く食べたきり何も口にしていなかったが、空腹感はまったくなかった。

 食欲などは自己嫌悪の感情に追いやられてしまっていた。


 畳に仰向けになり、天井を見ながら江美のことを考えた。

 江美は「元気でやるのよ」と最後に言った。もう会わないという意味だろう。


 江美と会えない。会えないようにしたのは自分だ。

 自分が優里を大切にしたい、裏切るようなことはできないからと、江美と会わないと決めたのに・・・。


 僕は焦った。居ても立ってもいられない気持ちに襲われた。


 再び無意識のうちに駆け出し、気がついたら電車に乗っていた。


 阪急園田駅で降りたときはすでに午後十一時前になっていた。

 江美の方面への最終バスが停まっていたので飛び乗った。


 何も考えていなかった。

 ただ江美に会いたい、会って謝りたいと思うだけだった。


 バスの発車ブザーが鳴り、ドアが閉まった。


 その音に僕は我に返った。

 自分はいったい何をしているのだろうと。


 だが、夜のバスはためらいもなく暗闇を走りぬけ、江美の家のあるバス停にまもなく着いた。

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