第19話


 クリスマスイブの夜、僕は江美と過ごしていた。


 十二月半ばから昨日まで、岡田と数人のテキ屋仲間とで兵庫県の赤穂から奈良、京都と回り、久しぶりの休みが取れたので江美に連絡したのだ。


 優里のことを裏切っているのは分かっていた。

 自分が卑怯で嫌な人間だとも十分認識していた。


 江美は明るく行動的でドライな性格だ。

 ふたりの付き合いに関しても、先々のことを決して口にしなかった。


 一緒にいて楽しいからといったふうなので、僕は彼女との関係を重くは感じていなかった。

 そういう意味では気持ちが救われていた。


「小野寺君、今日は泊まっていくんでしょ。だったら新しいワイン開けようかな」


 江美はテーブルに料理を並べながら言った。


 僕と彼女とはまるで恋人のような関係になっていた。

 だが、溺れそうになっていたのは僕の方であり、江美は決して僕を頼るような言葉は口にしなかった。


 それは年上ゆえの配慮かもしれなかったが、自分を制御できないほどになっていたのは江美ではなく僕だった。


 もちろん僕は彼女の人間性が好きだったが、彼女の肉体にも夢中になっていた。


 僕の初めての女性だからという単純な理由ではなく、彼女はあらゆる面で素敵だった。

 一緒にいるとちょうど良い温度のお風呂に入っているような心地良さがあった。


 僕は優里と一緒にいるときは優里のことだけを考えていた。

 でも江美と一緒のときは違った。

 江美が僕のことを考えてくれているという、自分本位の甘えに浸っているという感じだった。


 この日の夜、僕は優里のことが気になったため、「今夜は帰るよ。ごめん」と江美の誘いを断った。

 彼女は表向き特に落胆した様子はなかった。


「あっそう、いいのよ。明日はまたテキ屋さんの仕事なの?」


「明日は一応、大国町の事務所へ行くけど、大晦日からの準備に入るんだよ。まだそんなに忙しくないんだけど・・・二、三日後にまた来てもいいかな?」


「いいわよ、来られる日に電話ちょうだい。今日は帰るんだったらワインは今度にして今夜はビールだけにしよう」


 江美は物事にいちいちこだわらない気性のサッパリとした性格だった。

 僕に欠落している部分だ。


 僕は江美が注いでくれたグラスのビールを一気に飲み干した。

 それからテーブル越しに彼女の顔を引き寄せて唇を重ねた。


「だめよ、今夜は帰るんでしょ」


 唇を離すと、江美は笑って言った。

 この明るさに僕は救われているのだと思った。



 阪急園田駅から電車に乗って十三駅に着いたら午後十一時半を過ぎていた。


 僕は北千里線に乗り換えるホームの、すでに閉じられた売店横の公衆電話から優里の従業員寮へ電話をしてみた。


 もうこんな時間だから彼女は寝ているだろう。

 でも、誰も出なくてもクリスマスイブの夜に優里に電話をかけたという行為を僕は欲しかった。


 それは優里への後ろめたさの裏返しにすぎないのは分かっていた。

 でも今夜は優里に電話をかけたかった。

 かけたという行為だけでも優里とつながっていたかった。


 コールが五回鳴った。そして電話を切ろうとしたその時、相手が出た。


 優里だった。


「優里、まだ起きていたの。もう遅いから寝ないといけないよ」


「電話を待っていたの。浩一さん、今夜はきっと電話をくれると思っていたの・・・プレゼント、ありがとう」


 優里はゆっくりと、言葉のひとつひとつを区切るように言った。


 まさか出ると思っていなかったので僕はすぐに適切な言葉が出なかった。


 僕は数日前、梅田のデパートで買った薄茶色の皮の手袋に手紙を添えて、クリスマスプレゼントとして送っていた。

 優里への初めてのプレゼントだった。


 手紙には「メリークリスマス!考えてみれば、これまでクリスマスや誕生日に何かお祝いをしたことがなかったね。このところずっと忙しくてごめん。電話の回数も減っているけど、優里を思う気持ちは変わらないよ。今のバイトが終われば絶対に会おう。君を愛しています」と書いた。


 「愛しています」の部分を書くときに、本当の気持ちなのかどうかを数秒考えたが、間違いないと自信を持って書いた。


「優里、寒いから・・・その、風邪を引かないように・・・身体に気をつけてね。会いたいけど、バイトが・・・」


「いいの、浩一さん。私・・・分かっているから」


「うん」


「プレゼント、嬉しかったわ。それに今夜・・・電話してくれて、本当にありがとう。嬉しくて・・・」


 電話の向こうで優里が泣いていた。


「優里、電話を・・・電話をかけるって言いながら、約束どおり守れなくて、本当にごめん。今年はもう会えないけど、来年はいっぱい会おうね」


 今すぐに優里に会いたい。彼女のそばにいてあげたい。


 僕は気持ちがこみ上げてきて胸が張り裂けてしまいそうになった。

 北千里行きの最終電車がホームに滑り込んで来たのが視界の端に見えた。


「メリークリスマス!」と僕は受話器に向かって少し大きな声で叫ぶように言った。

 ホームにいたサラリーマンたちが僕の方を見て笑っていた。

 もう一度僕は「メリークリスマス!」と言った。


「うん、ありがとう。私・・・幸せよ」


 優里が泣き声で言った。


 電話を切ったあと「もう迷わない、優里を大切にしよう」とあらためて思った。


 電車がなくなったので駅を出て、アパートまで優里のことをずっと考えながら一時間半ほどかけてゆっくり帰った。


 素敵なクリスマスの夜だと思った。

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