第18話


 十二月になると街角には早くもクリスマスツリーが飾られ、イルミネーションが踊り輝き、クリスマスソングも流れはじめた。


 師走の夕方の梅田地下街は、サラリーマンやカップルなど大勢の人々がそれぞれの目的の場所へ急いでいた。


 僕は阪急電車と大阪市営地下鉄を乗り継いで大国町駅で降りた。


 岡田のいる安東総業は大阪の通称「ミナミ」と呼ばれる広範囲な歓楽街の端にあり、駅を出て北に歩いて大阪環状線の鉄道高架を越えたところに見えた。


 赤茶けたレンガ造りの古い四階建のビルで、一階の入口に「安東総業」と大きな金文字の看板が掲げられていた。

 その看板の迫力にやや気後れしながらもゆっくりとドアを開けてみると、そこはごく普通の会社の事務所のようなところで、机が何列か並び奥に大型キャビネットや段ボール箱などが置かれていた。


「すみませんが、岡田さんはいらっしゃいますか」


 カウンターの向こうにいた若い男性に声をかけると、彼はニコッと笑って立ち上がった。


「小野寺さんですか?」


「はい」


「こちらでお待ちいただくよう言われています。さあ、どうぞ」


 男性に事務所内にある小さな応接室へ案内された。

 岡田はこのビルの上階にいるようで、内線電話で僕が来たことを伝えているのがパーテーションの向こうから聞こえた。


 しばらくすると派手なセーターを着た岡田が現れた。

 服装のせいかもしれないが、夏よりも体が大きくなって貫禄がついたような気がした。


「おう、よう来たな。ま、ゆっくりして行ってくれ。おっ?茶も出してないんか。しょうがない奴やな。客人に茶ぐらい出さんか。あっ、それよりコーヒー取ってくれ、二つな!」


「すんまへん、気いつきませんで。コーヒー二つすぐに注文します」


 岡田の大声にさっきの男性は立ち上がって返事をし、それから慌ててコーヒーを注文した。


「岡田さんはここの幹部ですか?」


 僕は訊いてよいものかどうか、一瞬ためらいながらも口から出てしまった。


「幹部なんかと違う。俺なんかはまだまだ下っ端や。ここにはいろんな仕事があるからな。俺はその一部を任されているだけなんや」


「いろんな仕事って、どんなのがあるんですか?」


「それはな、小野寺。俺にも言えることと言えんことがあるんや、勘弁してくれ」


 岡田は笑いながら言う。


 コーヒーが運ばれてきてから仕事の話になった。


 数日後に兵庫県赤穂市の義士祭りがあり、そのあと奈良の春日大社、京都の寺院の納め行事などで少しバイをしたあと、年末年始の段取りに入るとのことだった。


「小野寺、お前は明後日から俺に付き合うてくれ。京都が終わったら二日ほど休みがあるよってな、大晦日から明けの五日まで住吉大社や。そのあとは今宮戎で十日戎や。ともかく大晦日からはしばらくぶっ通しになる。ええかな?」


「分かりました」


「取っとけ。ちょっとだけやけどな。金、要るやろ」


 帰り際に岡田から茶封筒を手渡された。


 外に出て開けてみると、丸一日の倉庫作業の仕事で得られるバイト料の一週間分ほどの金が入っていた。


 僕は素直に嬉しかったが、次第に複雑な気持ちになった。

 自分は大学生だが、明らかに普通の大学生から逸脱した世界に足を踏み入れているような感覚になった。


 地下鉄の駅へ向かいながら、僕が迷路に入ってしまったとき、そばにいて欲しいのは優里なのか江美なのか、いったいどちらなのかを考えてみた。


 優里は僕に与える適切な言葉を、時間をかけて考えてから意見するだろう。

 そしてその言葉は僕を安心させることだろう。


 江美はきっと「何をそんなことで悩んでいるの。馬鹿みたい。今夜来なさいよ、美味しい料理を作って待っているわ」なんて、僕がすぐ元気になるようなことを言うに違いない。

 ホームに電車が滑り込んできた。電車はすぐに暗闇に入った。



 冬休みに入って年末が近づいて来た。

 僕は優里への連絡をあまり取らなくなっていた。

 テキ屋のバイトが忙しくなっているのは事実だったが、理由は江美との関係が進行していたからだった。


 松江でたった一晩だけの関係だと思っていた江美が、突然大学の正門に現れた。


 無謀な彼女に驚いている間もなく、松江での続編がはじまったかのように僕と江美は会いはじめた。

 そして大学と江美の家とを往復する毎日になっていた。


 優里がいながら江美とこのような関係になっていることは、間違いなく世間でいうところの「ふたまた」の状態なのだ。


 僕が優里と話をしたいと思えば彼女の従業員寮へ電話をすれば可能だ。


 だが、優里は僕からの電話を待つしかないのだ。

 それは分かっているのだが、何か後ろめたさのようなものを感じて優里に電話をしない日々が続いた。


 ある日の夜、思い切って電話をかけたとき、冬休みに再び岡田の仕事を手伝うことになったことを優里に伝えた。


「そうなの、またあちこち行くのね。寒いから風邪をひかないように気をつけてね」


 僕を気遣う言葉をかけたあと、何かを訊きたそうな気配が受話器から伝わってきたが、優里は黙ったままだった。

 僕は優里を安心させられるような優しい言葉が出なかった。


 九月に優里とようやく結ばれた日、京都駅で別れ際に人目も気にせず「優里、本当はこのまま一緒に岐阜へ行きたいんだ」と、改札口の向こうに消えていく彼女の背中に向かって叫んだことがあった。


 優里は振り返って僕のもとに駆け寄って来て、改札扉の向こうから僕の手を取って泣いていた。


 その時は本当に何もかも捨てて、優里とともに岐阜へ行って、そのまま仕事を探して一緒に暮らそうかと真剣に思ったのだ。


 でも日常に戻って離れてしまえば意思は脆くも崩れてしまう。

 それがたとえば江美との関係だった。


 僕はいったいどうすれば良いのか分からなくなっていた。

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