第17話

 

 次の日曜日、昼の倉庫作業のバイトを終えてから、僕は江美に会いに向かった。

 彼女は約束どおり阪急電鉄園田駅まで迎えに来てくれた。


 この前と違って、この日はジーンズに白のトレーナーにスニーカーというカジュアルな服装だった。


 江美の家は駅前からバスで十五分程の距離にあり、少し不便なところにあった。


 バスは駅を出るとすぐに住宅街に入り、そこを抜けると地方競馬場の裏通りに出た。


 競馬場に沿って西へ行くと小さな川に架かる橋があり、それを越えると江美の住む街のバス停に着いた。


「この先に昔は小さな市場だったところがあるのね。今はもう商売をしているお店はないけど、私の家は市場の人の住居兼店舗だったみたい。叔父さんたちはそこで商売をしていたわけじゃないんだけど、家の造りがそんな風なのよ」


 確かに江美の家の一角はアーケードに覆われていて、その下に二階建の店舗兼住宅風の建物が二列に十数軒並んでいた。


 昔、市場が開かれていたとされる住宅に、それぞれの暮らしの明かりがすでに灯っていた。


「ここよ、入って。お料理は私が食べたいものを勝手に作ってあるから、好き嫌い言わずにしっかり食べて帰ってね」


 玄関脇に幅の狭い屋根つきの二畳程度のスペースがあり、ここはおそらく店舗として利用したようだった。


 中に入ると一階が六畳程度の和室で、その向こうに四畳半程度の台所とバスとトイレがあり、奥に二階への階段があって、上階にも二部屋の和室という造りだった。


 二階への階段の位置が奇妙だと思ったが、住居の造りは家族向けのものだった。


「三部屋もあるんだね。誰か下宿人でも募集するの?」


「じゃあ小野寺君が住んだらどうなの。アパートなんか引き払ってらっしゃいよ」


 江美はあらかじめ下作りをしていた料理を温めて、台所から居間の卓袱台に運びながら冗談とも本気ともつかない顔で言った。


 料理はビーフシチューとポテトサラダ、フランスパンと少しのチーズ、それに赤ワインが用意されていた。


「ビーフシチューは松江のレストランで食べたことを思い出すよ。それにポテトサラダは大好物なんだ」


 水郷祭からまだ三ヶ月ほどしか経っていないのに、江美にランチをご馳走してもらったことがずいぶんと遠い日のような気がした。


「本当はホウレン草のおひたしとか小芋の煮っころがしみたいなのを作ってあげれば、いわゆるおふくろの味なんだろうけど、私はそういうのがだめなの。ごめんね、洋風で」


「いや、すごく美味しいよ。こういうの大好きだ」


「本当に美味しい?」


「本当だよ、興奮するくらい」


「じゃあこれからここに来なさい。栄養のあるものを作ってあげるから」


「そういうわけにはいかないよ。独身女性の家にはたびたび立ち寄れない」


「遠慮しなくてかまわないんだから。お姉さんの言うとおりにしなさい」


 会話は弾んだ。


 それは江美が話し上手だからであり、どちらかといえば陰気な性格の僕は、彼女といると気持ちが自然と明るくなるのだった。


 江美の作ったビーフシチューは、肉が柔らかく口の中で溶けそうなほどに煮込まれていて絶品だった。


 おそらく今夜のために朝から下ごしらえをしたのだろう。

 それにポテトサラダの味付けも僕の好みだった。


 料理が美味しいとワインもつい量を飲んでしまう。一本の赤ワインはすぐに空いた。


 食事が終わってから江美はコーヒーをサイフォンで淹れてくれた。

 サイフォンコーヒーなんて洒落ているなと思った。


 彼女のひとつひとつの行為に意外性があって、しかも新鮮で興味深かった。


 松江で江美の部屋に入ったときは心臓がドキドキして余裕がなく、全く何も目に入らなかったが、今夜は部屋の中の様子や彼女自身をも正面から見る気持ちの余裕があった。


「小野寺君、明日はうちから大学へ行けばいいのに。今日は日曜日だし、この時間は駅へのバスが三十分に一本ほどしかないのよ」


 午後十時を過ぎて、そろそろ帰らないといけないと思っていた矢先に江美が言った。


 それまで江美が松江でつきまとわれていた男のことや、僕のテキ屋のバイトのエピソードなどで楽しい会話が続いていたが、江美の言葉は僕の気持ちを探るかのようだった。


「泊まって帰ってもいいのかな。きっと僕、江美を襲ってしまうよ。目の前のご馳走を我慢できるほどの忍耐強さは持ち合わせていないから」


 僕はおどけて言ったが、顔が少しこわばっているのが自分でも分かった。


「いいわよ、襲ってくれても」


 江美はほとんど飲み干したコーヒーカップを置いてから、真面目な顔をして言った。

 松江での予期しなかった一日の流れのことが一気に蘇ってきた。


 僕はテーブルの上の江美の手をつかんだ。そのまま身体を彼女の方へ移動させて唇を合わせた。

 濃いぶどう酒のような香りがした。


 優里のことがすぐに思い浮かんだが、僕は頭を振ってそれを消した。


 江美の家は二階の奥の部屋が寝室になっていた。

 僕たちはもつれ合いながら階段を上がり、ベッドに倒れ込んだ。



 翌日、目が覚めると江美はまだ寝息を立てていた。

 軽く口を開いて、僕が目を覚ましたのも気がつかない江美の顔には疲労の表情が窺えた。


 彼女を起こさないように気遣いながらそっとベッドから出た。

 時刻は午前九時を過ぎていた。


 もう大学なんてどうでもいいような気分になっていたが、そんなことより何か分からないが、僕は自分に自信のようなものが生まれた気がした。


 外に出ると秋晴れの空に光る太陽が眩しかった。


 僕は気だるい身体を引きずるようにして大学へ行き、学生援護課のバイトの求人を見た。


 早朝の仕出し屋のバイトは続けていたが、冬休みに一気に稼げるバイト先を決めたかったからだ。


 でも掲示板に貼り出されていた多くの求人情報には、好条件のバイトは見当たらなかった。

 やっぱりもう一度テキ屋の岡田に頼んでみようかと考えた。


 大学を出てからアパートに戻り、夕方まで部屋で本を読んで時間をつぶしてから岡田のいる安東総業に電話をかけた。


 あいにく岡田は不在だったが、出張ではないとのことだった。


 電話があったことは伝えるから明日かけなおして欲しいと言われたので、名前を伝えて電話を切った。

 そして翌日、午前九時を過ぎてから再び電話をかけると今度は岡田が直接出た。


 連絡したことがキチンと伝わっていたことと、岡田が電話を待っていたかのようにすぐに出たことが嬉しかった。


「おう小野寺か。学生さんはそろそろ冬休みやから、もしかしたら連絡があるかも知れんと思っていたんや。どうや、その後変わりはないか?」


 岡田はいつものようにバリトンのよく通る声で言った。


「変わりはないのですが、また稼がないといけなくなりました。仕事はありそうですか?」


「仕事はいつでもある。十二月になったら、まあいつものことやが年末年始のバイの準備や。この時期は一番の稼ぎどきやから、人手不足で困っとるんや。

 小野寺さえよかったら早目に手伝うてくれたら助かるんやけどな。いつから仕事できるんや?」


 僕は十二月十日以降ならいつでも可能だと伝えた。


 岡田は一度事務所へ遊びに来いと言った。


 どんなところか興味深いので、事前に連絡をしてから訪ねてみることにした。

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