第16話


 大学二年の冬休みが近づいてきた。この三ヶ月、大学へはできるだけ毎日行くようにしていた。


 大学の近くにある仕出し料理屋で弁当作りの補助を早朝三時間だけ、週に四日程度バイトを入れていた。


 仕出し料理屋のバイトだけでは当然生活ができないので、土日や平日に単発のバイトを月に数日入れていたが、割の良いバイトはなかった。


 夏に稼いだ分を少し残していたが、延納の許可を得ている授業料の支払いで消えてしまった。

 冬休みはまた岡田にバイトを頼んでみようかとも思った。


 優里とは九月下旬に京都で会って以来、再び会えない日が続いていた。

 これからは会う日を増やそうと言っていたのに、もう二ヶ月近くも会えずにいた。


 三日に一度は優里の寮へ電話をかけて変化のないことを確かめ合っていたが、今のふたりの状況をもどかしく思う日々が続いていた。



 十一月のある日、僕は朝のバイトを終えて週に一度楽しみにしている「社会思想史」の講義を受けるため急ぎ足で大学へ向かっていた。

 一時限目から講義を受ける学生たちは、皆真っ直ぐ正面だけを向いて歩いていた。


 大勢の学生が急ぎ足で大学へ向かっている中に入っているだけで、自分は大学生なのだと安堵するのが不思議だった。


 緩やかな坂を上りきって正門に着くと、門の中に吸い込まれていく学生たちとは少し離れた位置でひとりの女性が佇んでいた。


 ダークグレーのスーツに黒のハイヒールのその女性は、学生とは異なった大人の雰囲気を漂わせていた。

 大学職員でもなさそうだし、バイトの求人担当かなとあまり気にも留めず僕は入口へ急いだ。


「小野寺君、私よ!」


 規則正しく張りつめた朝の空気を、一網打尽に破ってしまうような甲高い声で叫びながら、その女性は僕の方へ駆け寄ってきた。


 顔がはっきり見えるところまで近づいてくると、その女性は何とあの野口江美だった。


 僕は唖然としてすぐに言葉が出なかった。


「驚いたなあ、どうしたんですか?」


 島根の松江での出来事も月日が経つにつれて風化されようとしていただけに、驚きと一緒に懐かしさが湧き出てきた。

 もうあれから三ヶ月以上が経過していた。


「すごく大きな大学なのね。朝からこんなにたくさんの学生さんがドッと来るから、絶対見つけられないとあきらめようと思っていたところなの。でもよかったわ、ハンサムボーイを見つけることができて」


 江美は周囲の状況など全く見えていないかのような大きな声で、相変わらず軽口を叩いた。

 学生たちは僕と江美をチラッと見て、怪訝な顔をして正門へ入って行った。


「何時から待っていたのですか?ここには一万人位の学生がいるのですよ。無茶ですよ」


「そうね、三十分くらい前かしら。もし一時間ほど待っても見つけられなかったら、大学の中に入って、あなた法学部って言っていたでしょ、だからそこの事務所へ行って小野寺浩一君の住所を教えてくださいって訊こうと思っていたのよ」


「そんなこと簡単に教えてくれませんよ。ああもう・・・あなたって人は無茶しますね。ともかくちょっと喫茶店にでも入りましょう。さっきから皆がジロジロ見ていますから」


「えっ、授業は出ないの?私、授業が終わるまでそのあたりの喫茶店で待っているわよ」


「何を言っているんですか。授業なんてもうどうでもいいんですよ。さあ、行きましょう」


 僕と江美は圧倒的な数の学生たちと逆方向へ坂を下り、駅の近くのボーリング場の中にある喫茶店に落ち着いた。


「いや、本当に驚いたな。いったいどうしたのですか?」


 運ばれてきた熱いコーヒーに口をつけ、一息ついてからあらためて僕は訊いた。

 江美は終始ニコニコと笑っていた。


 まるで僕を急襲した目的が成功した満足感に浸っているようだった。


 しかし今日の江美は人目を惹くような素敵な女性だった。

 スーツの下のブラウスの胸のふくらみが眩しく、僕は目の前の彼女を抱いたことがあるとは信じられなかった。


「実はね、兵庫県の尼崎というところに叔父さんが住んでいるって前に言ったと思うけど、そこに引っ越してきたの」


 松江城の観光案内所での仕事は父が知人に頼んで紹介してもらったものだが、仕事自体がつまらなかったことと、夜のバイト先でひとりの客がしつこく迫ってくるのが鬱陶しくなったので、父に相談して勤めを辞めて松江を出たと江美は説明した。


「それで、どんな仕事をするのですか?以前のようにデパートとか・・・」


「小野寺君、さっきからその丁寧な物の言い方やめてよ。それに野口さんはやめて。江美って呼んで、鳥肌が立つわ。私たちもう深い関係でしょ」


 江美は笑いながら言った。


 僕にとって江美は四歳も年上だし、この日は久しぶりだったので自然と丁寧な言葉遣いになっていたのだ。


 しかし「深い関係でしょ」とは、なんてことを平気で言うんだ。

 僕は冷や汗が出てきた。


「じゃあ、江美って呼ぶよ。それで前みたいに叔父さんの家に厄介になるんだね?」


「それがね、叔父さんたちは近くに一戸建の家を新築したのよ。それで今まで住んでいた家は賃貸だったのだけど、契約者を変えないでそこに私が住むことになったの。

 叔父さんは水道工事とか配管工事の小さな会社をやっているのね。だから管理している不動産屋さんが仕事上の知り合いなので、特別に便宜を図ってもらったのよ」


 数日前にすでに松江から引っ越してきて、この日は仕事探しをしていると江美は言った。


「電話が明後日から通じるの。番号を教えておくから遊びに来て。今度の休みはいつ?」


 自分主導で物事を進めようとする江美だったが、僕は不快には思わなかった。

 むしろ自分にはない積極性に惹かれていた。


 僕は今度の日曜日の夜、バイトが終わってから訪ねて行くと返事した。


「それじゃ、私は午後から一件面接があるから、まだ少し早いけど行くわね。小野寺君はしっかり勉強してね。日曜日、阪急の園田駅まで迎えに行くから」


 そう言って江美は支払いを済ませて急ぎ足で駅に消えた。

 何か疾風のようなものがいきなり襲ってきて、あっという間に僕の目の前を通り過ぎたような感覚だった。

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