第15話

 

 大学が再びはじまった。


 僕は法学部の学生課を訪れ、後期の授業料の延納申請用紙をもらった。

 納付期限にはまだ期間があるが、早目に延納手続きをしようと思ったのだ。


 テキ屋のバイトで得た金はかなり残っていたが、普段は貧乏学生なので、たまには手元にそれなりのお金を置いておく日常を味わいたいという意味もあった。


「最悪、年内に収めれば良いから。でもあまり無理するなよ。それに小野寺君、大変だろうが講義にはできるだけ出るように。君は一年目ではあまり単位が取れてないようだから二年目は頑張らないといけないよ」


 事務局の年配の男性職員が言った。


 考えてみれば大学で他の学生と話をすることがほとんどないから、このような言葉を投げかけてくれる人が存在しないことに今更ながら気づいた。


 入学以来授業料は毎回延納しているし、取得単位も少ないのでこの男性は心配してくれたのだろう。


 僕は頭を下げて学生課を出た。


 法学部から緩やかな坂を下ると左手に競技場があり、右手には緑に囲まれた文学部の学舎がある。

 学生運動がようやく下火になり、キャンパスは平和に包まれ始めた。


 学生たちの表情にも活気が戻ってきて、彼らの明るく自信に満ちた会話や大きな笑い声が溢れていた。

 でも僕にはそれらが自分とは違った世界のことのように感じていた。


 ここにいる学生たちは学びに来ているのだ。

 自分の将来に夢と希望と期待を持って大学生活を送っているに違いない。


 中には僕のように経済的に困窮している学生や、友人がいない孤独な学生もいるかも知れないが、大多数は学びかつ学園生活をエンジョイしているのだ。


 僕は正門に向かいながら、自分には不相応な世界に入り込んでいる違和感を覚えた。



 優里と会えたのは、結局九月下旬になってしまった。


 優里が二日間の休みを取れたので再び京都駅で落ち合った。

 三月下旬以来、なんと半年が経過していた。

 いくら遠距離の交際といってもこれじゃ駄目だと思った。


 僕たちはいつもの時刻に京都駅で待ち合わせをした。

 改札口から出てきた優里を見て、前回会ったときに個室喫茶でずっと抱き合ったことが蘇ってきた。


 松江で野口江美によって初めて女性を知った僕は、若い健康的な性欲が満ちていた。

 そんなふうに女性を見る自分が嫌だったが、優里に対して前回会ったときとは明らかには違った見方をしていた。


「優里ちゃん、グッと大人っぽくなったね」


「えっ、本当?もしかしてこれまでみたいに機械相手のお仕事じゃなくて、大勢の患者さんが相手だからかな。あまり意識しなくても身だしなみやお化粧をキチンとするようになるのよ。私はあまりお化粧が好きじゃないんだけど」


 優里は色白で綺麗な肌をしていた。

 この日は水色の生地に赤や白の花びらが舞った長袖のワンピースを着ていた。


 優里は少しずつ確実に大人に向かっていた。

 履き古したジーンズにヨレヨレのシャツの自分が恥ずかしくなった。


 京都駅から市電に乗って四条河原町まで出た。

 爽やかな秋空の下、僕たちは鴨川の川原をいつものように歩いた。


「これから秋が深くなってくると、毎年なぜか寂しさを感じるんだよね」


 郷里の今治では、両親と弟と妹との五人家族だったが、思えばずっと寂しさに包まれていたような気がした。

 兄や姉がいれば違っていたかも知れないが、家では満たされなかった。


 両親ではない誰かに常に頼りたい気持ちがあった。

 学校から帰ってきて晩御飯を食べたあと、時々不意に友人宅を訪れて相手を驚かせたことが何度かあった。


 夜遅くに何の前触れもなく急襲された友人は「どうしたんだ、いったい?」と不審がった。


 たいていは「いや何もないんだ。お前とちょっとだけ話がしたかったんだ」と説明したが、あるときは本気で「死にたいんだ」と言って心配させたことがあった。


 このことはその後も友人たちの間でずっと語り草になっていた。

 寂しさが大きくなると精神的に参ってしまう弱さがあった。


「私はいつも寂しいわ、季節に関係がなく」


 優里は正面を向いて笑って言った。


「私は家ではひとりぼっちみたいな気持ちだったわ。両親は自分たちのことで精一杯だったし、妹は活発な子で姉の私を頼ることなんかないから、会話の少ない家だったの。

 私は部屋で本を読んでいることが多かったの。そういうこともあって早く家を出たかったのよ。学校の帰り道なんかに急に悲しくなって、部屋に戻ってからよく泣いていたわ」


 優里が地元の高校に進まなかった理由は前に聞いた。


 優里も僕と同様に家族といても寂しさを感じていたのだ。

 僕は右手を優里の肩に回して引き寄せて歩いた。


「優里ちゃん、こんなふうにめったに会えない付き合いは駄目だと思うんだよ。優里ちゃんは真面目だから・・・その、長く会わなくても、特に男の人と何かがあるとか、そういうことの心配はしていないけど。でも、やっぱり長く会わないと心配なんだよ」


「浩一さん、さっきから何を言っているの?私は大丈夫よ」


 優里は笑いながら言った。


 僕は自分のことを棚に上げて、それでも伝えたいことがうまく言えなくて苛々した。

 遠距離だから仕方がないかも知れないが、何ヶ月も会わないでいると駄目になると思った。


 会うたびに綺麗になっていく優里だから、きっと職場でも好意を持つ男性がいて不思議ではない。

 それを僕は心配したのだ。


 僕たちは川縁に腰をおろした。

  

 鴨川の水嵩はいつも驚くほど少ないのに流れは意外に速い。

 その速い流れなど気にも留めないかのように数羽の水鳥が遊んでいた。

 どうしてあの水鳥たちはあんなに細い足で、速い流れにも動じずに立っていられるのだろう。


 僕は自分の優里に対する気持ちが、何かに急襲されれば途端に崩れてしまう脆弱さを恥じた。

 実際、松江では予測もしなかったことでひとりの女性に心が揺らいでしまったのだから。


「私だって同じよ。浩一さんのことをいつも考えているから、電話が何日もなかったり、手紙が十日以上も届かなかったら心配するわ。誰か他に女の人がいるのじゃないかって」


「それじゃ、僕も優里ちゃんも同じ心配をしているんだね」


「そうね、でも一緒に暮らさない限りは誰もがきっとそうなのよ。肝心なのはお互いが信頼しあうことじゃない?」


 優里の言うとおりだ。


 信頼していたら離れていても三ヶ月に一度しか会えなくても、今日のふたりのように半年も会えない期間があったとしても大丈夫なのだろう。


「私たちは大学生と看護学校生で、しかも遠距離だから、近くに住むこともできないし一緒に暮らすこともできないでしょ。だからお互いが信じるしかないのよ」


「確かにそうだな。でも離れているって、辛いね」


「そうね」


「優里ちゃん」


「うん?」


「いや、何でもないんだ」


「どうしたの?何か言いたいことがあれば遠慮なく言ってね」


「うん、ちょっと言いにくいんだけど・・・今日、優里ちゃんを抱いたらだめかな。このまま何もなく別れたら、辛くてたまらないんだ」


「だめなわけがないじゃない。浩一さんのその言葉を待っていたの」


 優里は恥ずかしそう答えた。


 僕たちは河原町三条の裏通りにあるホテルに入った。


 僕はいよいよ優里を抱くことができると思うと心が震えた。

 通されたのは和室で、奥の部屋にはすでに大きなマットレスの上に清潔そうな布団が敷いてあった。


 ホテルの女性は簡単に部屋の説明をしてから「ごゆっくりどうぞ」と言って出て行った。

 僕たちはしばらくテーブルの上にあったポットでお茶をいれて飲んだ。言葉が途切れたままだった。


「これがラブホテルというのか。普通の旅館みたいだな。連れ込みホテルって呼ぶこともあるようだけど、どういうことなのかな」


 湯飲みのお茶を飲み干して僕が言った。


「何を言っているの、浩一さん」


 優里は少し緊張している感じだった。


「お風呂、先に入って。私、あとでいいから」


 部屋には清潔そうな和風の浴槽があった。優里の勧めのまま僕は先に入った。


 どれくらい身体を洗えばいいのだろうと、手ぬぐいに石鹸をこすりつけながら考えた。  

 そしてそんなことを考える自分はかなり緊張しているのだと思った。


 八月に松江で初めて女性を知ったが、そんな経験は今この場では全く役に立たなかった。

 部屋に戻ると電気が消されて薄明かりになっていた。

 優里が黙って交代でお風呂に入った。


 僕は布団に入り、下着を脱いでしまったほうがいいのかこのままでいいのか、天井を見ながら考えた。

 愛している優里をこの胸にようやく抱きしめることができる喜びを感じる余裕がなかった。


「私・・・もちろん、初めてだから」


 布団に体を滑り込ませてきた優里が恥ずかしそうに言った。

 石鹸の甘い香りが身体から漂ってきた。


「僕も初めてだよ」という言葉が嘘になるので、それを飲み込んで黙ったまま優里の体に覆いかぶさった。


 唇が合わされ、お互いの歯がカチンと当たった。その音になぜか興奮した。


 僕は荒々しく優里を抱きしめ、そして身体を合わせた。


 ようやく優里とひとつになった瞬間、僕は言葉で言い表せない感動に浸った。


 文通をはじめて二年余り、初めて会ってから一年余りが経ってようやく結ばれた。僕の腕の中で優里は泣いていた。


「優里、ずっと一緒だよ」


 僕は叫ぶように言った。


 このときから僕は優里と呼ぶようになった。優里は黙って頷いた。

 目尻から涙がつたっていたが笑顔だった。


 僕たちは明け方まで抱き合っていた。

 でも幸福感と切なさが同居する不安定な気持ちに包まれていた。

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