第14話
松江から松山に向かう列車に乗っているほとんどの時間、僕は長峰優里と野口江美のことを考えていた。
女性のことばかり思い浮かべる自分はどうかしていると思ったが、本を読んでも内容が頭に入らず、知らず知らずのうちにふたりのことを考えていた。
特に、江美と過ごした昨日の様々な場面が次々と鮮明によみがえり、彼女の弾けるような肌の感触や吐息の香りなどが、身体の四肢五感に消えることなく残っていた。
「小野寺よ、お前さっきからずっと外ばかり見ているが、何を考えているんや。そろそろ帰りたくなったか?」
外の景色をぼんやりと眺めていると、いつの間にか目が覚めた岡田が声をかけてきた。
「そりゃあ一ヶ月近くもワシらみたいなのと一緒やったら帰りたくもなるわな。なあアンちゃん」
サイコロを振りながらカンさんがからかった。
「ホラ、どうや!四ゾロやで、いただきや、悪いな」
「何やそれ、そんな殺生なことするなよ。いかれてしもうたわ」
テキ屋衆の容赦ない大声に、周りの乗客が再び顔をしかめた。
「いえ、帰りたいなんて思っていませんよ。外の景色が素晴らしいので見とれていただけです」
決して帰りたいなどと思わなかったが、優里にしばらく電話をしていないことが気になっていた。
松山に着いたら、今夜必ず電話をしようと思った。
列車は午後三時ごろ松山に到着した。
町はすっかり祭りの準備が出来上がっている様子だった。
われわれは市内の中心街からやや離れたところにある安旅館に荷を解いた。
テキ屋衆と僕は早速、畳に寝転んで疲れを取ったが、岡田はネタ元と地元の庭場の世話人などへの挨拶と打ち合わせに出かけた。
松山祭りは四国四大祭りの一つ、地元のテキ屋組織だけでは賄えず、岡田らをはじめ各地から応援に駆けつけているようだった。
「ここのバイがヤマやからな、もうひと頑張りしてくれよな」
岡田は出かける前に僕を気遣って言った。
正直なところかなり疲れていた。
身体の疲れはもちろんあったが、それとは別の何か分からないモヤモヤしたものを感じていて、それが疲労感の原因に思った。
江美とはたった一夜だけの関係だったとしても、このまま連絡を取らないのは心残りだった。
住所と勤め先の観光案内所の電話番号は聞いていたので連絡を取ることは可能だ。
でもやっぱり江美と付き合うなんてことは出来ないと僕は考えていた。
その日の夜、僕は優里の寮に電話をかけた。
優里はいつもと変わりがなかった。
一週間あまり連絡が途絶えただけなのに、彼女の語尾を少し上げる喋り方を懐かしく感じた。
「ずいぶん疲れているんじゃないの。ちゃんと睡眠をとっている?お酒はあまり飲んでないでしょうね?冷房が効いている部屋に寝ていると思うけど、あまり冷えすぎると風邪をひくから注意してね」
「大丈夫だよ、でも正直言ってちょっと疲れている」
優里が身体のことを矢継ぎ早に訊いてきたことが僕にはすごく嬉しかった。
優里は僕に安心感を与えてくれる。
早く大阪に帰って京都で優里と会いたいと思った。
「もうすぐお盆だけど、どうするの。田舎に帰るの?」
「お盆に帰っても実家は郡上踊りですごい人なのよ。だから休まずに仕事に出て、その振り替えに八月二十日以降に三日間お休みを取ろうと思っているの」
「郡上踊りって?」
「田舎で毎年お盆にある有名なお祭りなのよ。いつか浩一さんを連れて行きたいと思っているのだけど」
「じゃあ三日間の休みのうち、どの日かを京都で会えたら嬉しいな。お土産をたくさん買って帰るから」
「ごめんなさい、振り替えの休みは田舎に帰ることにしたの。今年は高校を卒業して就職もしたでしょ。
去年は一度も帰っていないから、両親を安心させておかないといけないと思って。本当にごめんなさい、勝手に田舎に帰ることを決めてしまって」
「いや、会う日を多くしようと言いながら、地方へ長期のバイトに出た僕がいけなかったんだ。気にしないで田舎に帰ってあげればいいよ」
僕はそれから「早く会いたいね」と言って電話を切った。
宿に戻ると岡田とテキ屋衆が部屋に集まって酒を飲んでいた。
「明日から三日間はぶっ通しになるよってな。ここが終わればちょっとだけ琴平のバイに寄るが、そのあとはしばらく休みやから、皆気合入れて乗り切ってくれ」
テキ屋衆は「おう、まかしときや、岡田ハン」と応えて酒をあおった。
多くのテキ屋衆は若くなく、決して体調が良いとはいえない者もいたが、表向きは皆元気だった。
「小野寺はここから大阪へ戻った方がええやろ。大学もあるやろうからな。それとも俺らと一緒に金比羅さんでも参って帰るか?」
岡田が僕に酒を勧めながら訊いてきた。
帰ってもすぐに優里に会えないが、しばらくしたら大学の講義もはじまるので、「琴平にはついて行かずに帰ります」と返答した。
今年の夏は各地の夏祭りを回っただけに終わったが、充実した夏休みだったと僕は満足していた。
松江での野口江美との出会いは優里への裏切りだったのか、このとき僕はよく分からなかった。
一ヶ月あまりのテキ屋行脚は、僕がこれまで生きてきた環境から得た様々な物の見方を根底から覆すような驚きと刺激の連続だった。
これほど疲れた仕事も初めてだったが、これほどエキサイティングで楽しかった仕事も初めての経験だった。
熱風に吹かれたような夏が終わろうとしていた。
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