第9話

 

 桜の季節が過ぎ去り、大学のキャンパスには新入生が溢れていたが、それもしばらくすると落ち着き、やがて鬱陶しい梅雨の季節が終わると暑い夏がまたやって来た。


 僕は早朝の仕出し屋のバイトを終えてから大学へ急ぎ、できる限り授業には出るようにした。


 ときどき単発のバイトもしたが、自分の都合では日程を取れないだけに、どうしても講義に出られないこともあった。


 優里は不安を持っていた新たな暮らしが意外に快適と言っていた。


 梶浦医院は内科、外科、小児科、胃腸科、整形外科などの総合病院で、名古屋にある法人病院の系列化にあって病院施設も立派らしい。


 希望する者は病院敷地内の別棟にある従業員寮に入居出来たし、食事の賄いも付いていて経済的に助かると喜んでいた。


 また、岐阜市内にある公立病院付属の看護学校へ夜間通うことが可能で、優里は勤め先にも居住先にも恵まれた環境に満足しているようだった。


 優里はまた、収入も紡績工場で働いていたころよりかなり増えて、少しずつ貯蓄もできると喜んでいた。


 病院の経営者側が、医師や看護婦、事務職員などが快適に安心して働けるように配慮を怠らず、福利厚生面なども気遣っているようで、皆が明るく積極的で、職場はとても活気があるとも言っていた。


 従業員寮には電話があり、呼び出しで話をすることができた。

 僕は夜になってからときどき優里に電話をかけた。


 電話口の優里は、紡績工場に勤めながら定時制高校に学んでいたころに比べると、ずいぶんと性格が明るくなった気がして安心した。


 だが、反対に僕は苦境に陥っていた。

 二学年の前期授業料を延納はしてもらったが、納付の目処が立っていなかった。


 奨学金も生活費に使ってしまう有様で、自分のだらしなさに呆れた。


 夏休み前になって、ギリギリまで待ってもらった前期授業料を支払ったらアパートの家賃や生活費が無くなってしまった。


 まとまった金が必要になった僕は、この前の年末年始に伏見稲荷神社で働いたときに世話になったテキ屋の岡田に相談しようと考えた。


 岡田なら相談に乗ってくれそうな気がしたからである。

 教えてもらっていた連絡先に公衆電話から電話をかけてみた。


「小野寺と言いますが、岡田さんはいらっしゃいますか?」


「アンタは誰?」


 安東総業と名乗った相手の男は横柄なものの言い方だった。


「この前の正月に仕事をさせてもらった者ですけど」


「ああ、そうかいな、岡田ハンは今出とるけど、戻ってきたら電話しようか。あっ、電話がないの?そうしたらどうしようかいな・・・夕方には戻るから、もう一度かけなおしてくれるかな。岡田ハンには小野寺君かな?電話があったことを伝えておくから」


 安東総業とはいったいどんな会社なんだろうと少し不安になったが、僕は言われたとおりに午後六時に再度電話をかけた。

 すると今度は岡田が直接出た。


「おう小野寺かいな。久しぶりやな、元気にしとるんか。勉強の方はどうや?」


 快活に喋る岡田の声を聴くと、落ち込んでいた気持ちも元気になっていく気がした。


「何や、仕事か。おう、ええで。ちょうど夏祭りの季節やからな。お前さえ都合がつくようやったら長期であちこちバイに回るか?ちょっとした稼ぎになるぞ」


 夏休みはしっかり稼がないと大学生活を維持することは難しい状態だったので、僕は岡田に身を任せることにした。


 優里とは三月下旬以来会っていなかったが、さらに会えない日が続くことになった。


 以前ほど手紙のやりとりはしていなかったが、最近は優里の従業員寮に週に一度は必ず電話をかけていた。


 平日の夜間に電話をかけたときは、お互いに忙しくて五分ほどで電話を切ったが、優里の休日には長時間話ができて僕たちは安心を得ていた。


 ただ、通話料金も馬鹿にならないので、頻繁に電話をするわけにはいかなかった。


 大学が夏休みに入る直前に優里に電話をして、長期のテキ屋のバイトで各地を回ることになったと伝えると、優里は電話口でしばらく黙ってしまった。

 夏休みに入ればすぐに会えると心待ちにしていたからだった。


「夏祭りの露店だよ。ほら、去年の大晦日から五日間だけ京都の神社でバイトしただろ。そこで世話になった人と一緒に行動するから大丈夫、心配ないよ」


 夏祭りが続くので、七月半ばの北陸方面をはじめに、山口県の下関から萩、島根県の松江、そして最後に四国は愛媛の松山の予定で、この間一ヵ月ほどぶっ通しになると岡田は言っていた。


「看護学校はしばらくお休みになるけど、病院は休みなしなのね。でもお盆の期間は私たち交代で三日ほど休めるの。浩一さんがずっと地方回りなら、私は久しぶりに郡上八幡の実家に帰ろうかな」


「帰ってきたら優里ちゃんの休みに合わせて必ず時間を作るから。それまでは仕事先の町から電話をするよ」


「分かったわ、気をつけてね。連絡を待っているから。それから仕事先では身体に注意してね。お酒を勧められてもあまり飲んじゃ駄目よ」


 優里は看護婦の卵らしく僕の体調管理を気遣った。

 さらに会えない日が続いた。

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