第8話

 

 僕たちはつないだ手を離さず鴨川の川縁をゆっくり歩き続けた。

 いつの間にか三条から川端二条を上がり、丸太町通りまで歩いていた。


 土手の遊歩道の桜並木はまだ蕾が少し膨らんだ程度だが、淡いピンクがとても綺麗だった。


 鴨川ってどうしてこんなに美しいんだろうと、上流に目を移しながら僕は思った。

 僕たちはさらに川原を歩いて荒神口東詰めから土手に上がった。

 橋を渡ると荒神口の交差点に出た。


 角の古びた建物の二階に「シアンクレール」というジャズ喫茶があった。


 大学紛争が揺れ動いていたころに体制との闘いと恋愛に疲れて、発作的に鉄道自殺に至った立命館大学の女子大生が頻繁に訪れていた店だ。


 彼女の死後、残された日記が家族の手で出版されたものを高校生のころに読んでいたから知っていた。


「ジャズって聴いたことある?」


「聴いたことがないけど興味あるわ」


 僕たちは狭い階段を上がって店に入った。


 熱っぽい店の雰囲気と、うつむいて指先や足でリズムをとって聴いている若者たちの姿が目に飛び込んで来た。


 コーヒーを注文して壁を背にして並んで座った。


 会話が難しいほど音響は大きくないが、周りを見渡すとほとんどがひとり客だった。


 目をつぶってジャズの旋律に合わせて首を小さく振っている若者や、本を読みながらBGMのように聴いている青年など、誰もが黙って狭い空間で音に浸るひとときを楽しんでいるように思えた。


 これが本当に音を楽しむという音楽の姿なんだと僕は思った。

 しばらく黙って聴いていたが、一時間足らずで僕たちは店を出た。


「どうだった?」


「私は好きだわ。もし近くにあればひとりでいくかも知れない」


 優里は意外にも気に入った様子だった。


 一方で優里は読書家でもあった。


 このころの彼女は「女性の生き方」について書かれた小説を主に読んでいた。


 少し南へ下ると再び丸太町通りにあたる。西へ歩くと京都御所の南側に出る。

 このあたりは京都らしい老舗の店が所々に見られた。


 大阪や京都は故郷の今治と違って大都市だが、京都は大都市の喧騒を感じない落ち着いた町に思った。

 落ち着いた町並みに沿って歩いていると、次第に落ち着いた気持ちになった。


 僕たちは老夫婦が営んでいる小さな蕎麦屋で軽く食事をしたあと、烏丸通りを南に下って歩いた。

 歩きながら僕は優里に言いたいことがなかなか言えずにいた。


 つないだ手が汗ばんだ。


 烏丸四条を左に折れ、四条通りを河原町通り方向へ歩いた。

 四条大橋を基点に一周してきたような気持ちになった。


「優里ちゃん、キスしたいんだ」


 僕は思い切って優里の耳元で囁くように言った。


「どこで?」


「えっ?」


「だから・・・どこでキスするの?」


「河原町通りを渡って少し路地を入った辺りに個室喫茶というのがあるらしいんだけど、そんなところは嫌かな?」


「嫌じゃないわ、当たり前じゃない。でも変なところじゃないわよね」


「個室になっている喫茶店じゃないのかな、よく知らないけど」


「だから個室喫茶って言うんでしょ。何言っているの、浩一さん」


 優里は恥ずかしそうにしながらも、興味があるような素振りだった。


 個室喫茶は部屋の上部に空間があるので完全に個室というわけではないが、カップルが二人きりになれる喫茶店で、京都にもあるという情報は男性雑誌で読んで知っていた。


 その個室喫茶「白夜」は、河原町通りを木屋町の方へ入って、細く静かに水路のように流れる存在感のある高瀬川沿いにすぐ見えた。


 店の近くに来ると僕たちは人の目を避けるように急ぎ足で黙ったまま入った。

 握られた手はお互いの汗で濡れていた。


 僕はまだ女性との性交渉の経験はなかったが、キスは高校二年生の夏休みに友人の幼馴染という女子高生と経験していた。


 あらかじめ電話で「今度キスしよう」と約束して夜遅くに公園待ち合わせた。

 お互いが緊張していたので唇を軽く合わせただけのぎこちないキスに終わった。

 それが初キスだった。


 優里とは一度キスをしていたが、一瞬軽く唇を重ねただけのものなので、本当のキスという定義があるのなら、まだ経験がないと言ってよかった。


 僕たちはしばらく経っても、飲み物を何度も口に運ぶだけだった。

 優里は僕の手を握ったまま黙っていた。


「浩一さん、キスしてくれないの?」


 その言葉に救われたように僕は優里の肩に手を回し、抱き寄せて唇を重ねた。

 映画やテレビドラマなどの激しいキスシーンを思い浮かべて行為に及んだが、おそらくぎこちない動きだっただろう。


 優里の唇は驚くほど熱かった。

 僕たちは何十分も唇を合わせたまま抱き合っていた。

 優里の開いた唇から漏れる吐息が僕の鼻腔をくすぐった。


 これが優里の匂いなんだと思うと、とても素敵な香りに感じられた。

 僕は細い体躯にしては大きな優里の胸を服の上から乱暴につかむだけだった。


 優里もどうしていいのか分からないようだった。

 でも僕たちはずっと触れ合っているだけで幸せを感じていた。


「浩一さん、私を離さないでね。他の人に目を向けないでね。私は弱い女だから、浩一さんを頼ってしまっているから・・・だから私だけを見ていて欲しいの」


 優里はそう言うと、突然泣きはじめた。

 僕は激しい愛しさを感じて優里を思いっきり抱きしめた。


 僕たちは個室喫茶で二時間もほとんど黙って抱き合っていた。


 若者が楽しむような健全な趣味やスポーツを共有するわけではなく、会ってから街を歩き、そしてふたりになる場所を探すだけだった。


 でもめったに会えないふたりにはそれで十分だった。

 むしろそれを求めていた。


 店を出て京都駅まで宵闇が迫ってきた町を歩いた。


「今日もたくさん歩いたね。疲れていないかな?」


「大丈夫よ。浩一さんは?」


「僕は優里ちゃんと一緒にいると疲れなんて感じないよ」


 幸せな時間はすぐに終わってしまう。幸せな時間が永遠に続いたとしたら、それはもはや幸せではないのかも知れない。


「じゃ、さよなら。何かあったら必ず手紙を書いて」


「分かったわ。浩一さんもあまり無理をしないでね」


 京都駅の中央改札口の向こうへ急ぐ優里の姿が見えなくなるまで僕は見送った。

 今すぐにでも追いかけて一緒に岐阜へ行きたくなった。


 人を愛する気持ちはこんなにも苦しいものなのだと、二十歳の僕はこの時初めて分かった。

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