第7話
年が明けた。
年末年始も故郷の今治には帰らなかった。正確に言うと帰れなかった。
両親が喜びそうな話は何もなかったし、帰省する金の余裕もなかった。
大晦日から年明けの四日までの五日間は、伏見稲荷神社で初詣客を相手に天津甘栗を売った。
僕はそれこそ寝る間もなく働き、世の中にテキ屋という職業が存在することをこのとき初めて知った。
露店で売ることを「バイ」とテキ屋衆たちが呼んでいた。
実際、天津甘栗は馬鹿みたいに売れた。
日当に歩合がついて、五日間働いただけで他のバイトの二週間分ほども稼げた。
二十四時間、露天は出しっぱなしの交代勤務で、僕は数人のテキ屋衆たちと神社近くの安旅館に寝泊りした。
その中に岡田という二十代後半の男がいて、彼が他のテキ屋衆を指示していた。
岡田はテキ屋の仕事をはじめてから、かれこれ十年余りになると言った。
この仕事は、彼の親方が次に商売に訪れる庭場と呼ばれる土地の親方に挨拶してから店を出すのだそうだ。
「まあ要するに筋を通すっちゅうことやな。通された方も気持ちよくショバ代を受け取れるし、通した方も安心してバイが出来るわけや。
まあ、俺らの用語ではショバ代とは言わんのやがな。兄さんらの大学でもそういうことがあるやろ。要するに渡世の仁義ってやつや。それを忘れて勝手なことをしたらイザコザになるわけや」
僕はよく分からなかった。
自分の周囲にあてはめてみると、大学の中での渡世の仁義って何だろうと考えてみた。
僕の大学では一昨年暮れに学園紛争で対立する組織の内ゲバ殺人事件があった。
まだ社会に出ていない未熟な学生たちの間で、岡田の言う人間臭い「渡世の仁義」など存在しないのではないかと、彼に勧められるままに飲んだ酒の酔いの中でぼんやりと考えた。
五日間の宿泊代や飲食代はすべて岡田が出してくれた。
飲み代くらい払いますと言うと、「兄ちゃんはしっかり勉強せなアカン立場や。飲み代なんかに気遣いする必要はない」と言って受け取らなかった。
僕が大学で法律の勉強をしていると言うと、岡田は僕の将来は裁判所勤務だと勝手に思い込んだようだった。
大学生といってもほとんど講義に出ていない僕は「はあ」と生返事をしながら自分を恥ずかしく思うのだった。
二月になると大学は入試や新入生の受入れ準備などに忙しく、在学生は受講科目のレポート提出程度で、ほとんど休みとなった。
僕は単発のバイトを次々とこなし、二月の下旬から三月四月は運送屋でバイトをした。
このころから引越しを請け負う運送会社が増えてきて、年度替わりのこの時期は人手が足りないくらい忙しかった。
体力に欠ける僕にはきついバイトだったが、優里と会える日のことを励みにして頑張った。
優里も病院への就職や看護学校への入学などで多忙な日々が続いていて、僕たちは十一月初旬以来、長く会えなかった。
手紙もこの時期、優里の紡績工場の寮から病院の寮への移転などもあって少し途絶えた。
三月半ばを過ぎたころ、新しい住所から優里の手紙が届いた。
あと一週間もすれば病院での仕事がはじまることや、四月一日から看護学校もスタートすることが記されていた。
そして可能なら次の日曜日に京都で会いたいと書かれていた。
引越しのバイトは土日が最も忙しい。
でも、どうしても優里と会いたい僕は、バイト先に次の日曜日は休みたいと伝えた。
担当の男が、それならもう来なくていいと言った。
「分かりました。お世話になりました」
僕はあっさりと辞める意向をその男に伝えた。
「いや、日曜日は何とかするから、また月曜からこれまでどおり来てよ」
男は慌てた素振りでそう言いつくろったが、僕は「はい」と返事をしながらも二度とそこのバイトには行かなかった。
日曜日、優里と京都駅で会うと、彼女の最初の言葉が僕のバイトの心配だった。
「今日、バイトは休めたの?」
「いや、運送屋はもうやめたんだ。今度は早朝の弁当屋にした。朝五時から三時間、週に四日のバイトだけど、一時限目の講義を取っている日は休みにしてもらったから大丈夫だよ」
僕たちは京都駅から四条河原町まで市電で行き、四条大橋から鴨川の川原に下りて川の流れと反対方向へゆっくりと歩いた。
優里は四月一日から梶浦病院という医療法人の総合病院で働くことになっていた。
「不安はあるけど、同じ高校からあとふたり一緒だから大丈夫。それに私、前から看護婦になりたかったから」
いつの間にか僕の右手の指先に軽く左手の指を絡めて、ややうつむき加減に歩きながら、自分に言い聞かせるように優里は言った。
優里は郡上八幡の実家を出て以来、これまで年に一度か二度しか帰省していないと言った。
岐阜市から郡上八幡までは列車で二時間ほどだから日帰りも可能なのだが、ついつい足が遠のいてしまうらしい。
父は地元の林業組合に勤めているが、身体があまり丈夫でないために仕事をよく休み、家で酒を飲んでいる日が多かったこと、そんな父に文句も言わず従順な母の姿を幼少時から見てきたこと、そして父は暴力こそ振るうことはなかったが、母に指図ばかりしていたことなどを僕に話をしてくれた。
「母はね、父に気遣ってばかりいるのよ。見ていて可哀想になるくらいだけど、夫婦のことだから、同情するような気持ちにはならいの」
優里は寂しそうに言った。
郡上八幡の自宅から通える高校に進学することも不可能ではなかったが、家の負担が増えてしまう事情から両親と離れて暮らしたいと担任に相談したところ、岐阜市内に働きながら学べる高校があると教えてくれたという。
優里は田舎のことや家族のことを話すと、必ずそのあとで視線を落として唇をつぐんだ。
きっと両親のことや経済的なこと、自分の進路などに悩み続けていたのだろう。
そんな優里に何か力になりたかったが、僕自身は自分のことで精一杯という不甲斐ない状態だった。
「優里ちゃんも僕も一番上だし、家の事情にも似たところがあるような気がするよ」
優里も僕も故郷のことを考えると心が痛むが、目的のためには仕方のないことだと思った。
優里は定時制高校の四年間はあっという間だったと言った。
高校で学んだ時間よりも、紡績工場で働いていた時間の方が圧倒的に多かったような気がするとも言った。
「クラスメイトに職場の同僚がたくさんいたので辛いとは感じなかったけど、本当に自分のやりたい仕事と希望することが学べるのはこれからだと思うの」
「優里ちゃんはこれからも働きながら学ぶのだから大変だと思うけど、辛いことがあったら手紙にそのことを書こう。そしてこれからは会う日をもっと作ろう」
「手紙には書くわ。会える日がもっと増えればもちろん嬉しい。でも浩一さんは学校とバイトとで忙しいから、そんなに度々は会えないでしょ?」
「そんなことはないよ。何かあればすべて放り出してでも優里ちゃんのもとに駆けつけるつもりだよ。大丈夫」
「私、浩一さんにそんなふうに思ってもらって、すごく嬉しい」
優里は僕の手を強く握った。
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