第3話

       * * *


 京都市内には古い歴史を有する大学が、街の大きさなど無関係にいくつも存在している。


 街や道路が碁盤の目に整列された市内の東寄りに、その規則正しさを倣うかのように、概ね北から南へ鴨川が流れ落ちている。


 盆地である京の夏は蒸し暑く、学生たちは水嵩の少ない鴨川に足を浸し、上流の広い河川敷で憩い、下流の川縁に雀のように並んで座り寛ぐ。


 学生運動というひとつの過激な舞台が本当にこの街中で繰り広げられたのだろうか、その気配さえも感じなくなったころ、私は一時期京都に住んだ。


 残念ながら、当時の私は貧しくて、重苦しい呻き声をあげるような日々で、未来の夢に包まれた楽しい学園物語などとは程遠い大学生活だった。

 そんな暮らしの中で、私はある女性と交際していた。


 彼女と四条大橋からの風景を眺め、鴨川縁で寛ぐ幸せそうな学生たちの姿を見て、私たちも同じように肩を並べて川縁を歩き、本当はいつまでもどこまでもふたりで歩き続けたかったのだが、意に叶わず、わずか三年程で別れた。


 まだサラリーマンが仕事を終える時刻には早く、学生たちや仕込みの買い物に忙しい飲食店関係の人々が行き交う繁華街を抜けて、私は四条大橋の中央付近に着いた。


 ここからの眺めは、三十年前とほとんど変わっていない。


 昔は鴨川の東側を川沿いに走っていた京阪電車が地下に潜ってしまったが、橋の西側にある中華料理の東華菜館ビルや四条交番の裏側にある風流な桟敷レストランも、東側にある南座も以前と同じだ。


 時の経過とともに、川沿いの建物がいくつか建て替わったが、概して昔と大きな変化は見受けられない。


 経済の発展は首都圏だけではなく地方においても、街を形成するものが次々と新しくなり、とりわけその都市の玄関口は駅ビルやロータリーが新しくなったり区画整理などが必然的に行われるもので、何十年も変わらないほうがおかしいのだ。


 京都も例外ではなく、京都駅は近代建築物と様変わりし、駅前のバスターミナルだけが今もなお名残りを感じるものの、路面電車は軌道もろとも跡形もなく消え去ってしまった。


 私は今の住処としている東京から新幹線で京都に着いた。

 すっかり変わってしまった駅ビルの三階あたりから北側を眺めてみると、「あのころ」と景観や町並みがそれほど変化していない。


 私はこの三十年間、一度も京都を訪れなかったわけではなく、むしろ仕事関係では頻繁に来ていた。


 ただ、「あの日」以来何度訪れても京都を特別視せず、感慨深くなる気持ちを意識的に打ち消していた。

 まるで小説を最後まで書き終えるまで、最初から読み返すことを避けるかのように。


 私は「あの日」、今から三十年前の七月二十五日、ここでひとつの小さな約束をある女性と交わしていた。


 三十年後にここで再会しようと、思えば青臭いというか若気の至りというか、そのころは純粋なこころを持っていたのだろう。

 気の長いなどという言葉では到底足りるはずもない遥か彼方の約束を交わしたのだ。


 だが、三十年なんて先のことを憶えていることさえ至難の業だ。


 私は約束を交わして別れてから、わずか九年後のお盆の時期に、どうにも我慢が出来ずにあの人の実家を訪ねた。


 当時は仕事や家族との暮らしに追われながらもあの人のことが忘れられず、あれこれ考えた挙句決断をして、お盆なら会えるかもしれないと思い、岐阜の郡上八幡にある彼女の実家を訪ねたのであった。


「私に会う決断をしたのなら、あとは容易いものよ」


 そのとき突然訪ねたにもかかわらず、あの人は平然と言った。


 あとは容易いってどういうことなんだろうと、その日彼女と別れてからしばらく考え続けたが、やがてそんな感情も再び日常生活の中に埋没してしまったのだ。


 そして再び二十一年が経過した。

 二十一年だ。


 その間、私たちはもちろん会わなかったし連絡も取り合わなかった。約束の日を忘れていた期間さえあった。


 明日が最初の約束の日から三十年後の七月二十五日なのだ。


 約束が果たされる可能性は極めて低いと思うだけに、私はとりたてての感慨は持っていない。

「確かめる」という気持ちだけで約束どおりここにやって来た。


 祇園祭が数日前に終わり、多くの観光客を吐き出したあとの京都の町は、お盆休みの観光客を迎えるまでのつかの間の普段着生活に戻ったかの印象を受けた。


 鴨川のほとりには、日陰の面積が大きくなるにしたがって夕涼みに訪れる若いカップルや学生たちが増えていった。


 私があの人と会っていたころの京都も、四条大橋から眺める鴨川縁は学生たちを中心としたカップルであふれていた。


 当時、私たちは離れたところに暮らしていて、数ヶ月に一度、この京都で会うことだけが生きる糧のようだった。


 会うと必ずこの四条大橋まで来て、鴨川のせせらぎを聞きながら川縁を歩いた。

 そこには私たちと同じような多くの若者たちがいた。


 私たちは会うたびに鴨川の流れのように静かに歩くだけで、おそらく幸せを感じていた。

 だがその幸せは様々な出来事があって、「別れ」というどこにでもある結末となってしまった。


 三十年は長い。


 仕事に追われ、結婚をして子供をもうけ、家庭を築きかけては崩壊し、再構築をする。長い年月の間には様々な出来事がある。

 誰もがきっとそうなのだろう。


 彼女もまた別れてから、恋愛と結婚を経て、子供を産み家庭を築き、そして夫や子供のことでそれなりに苦労をして、今はその苦労も懐かしい思い出となって穏やかで幸せな暮らしを送っているに違いない。


 夕涼みをする大勢のカップルたちを眺めながら、私はそうあって欲しいと願った。


 三十年を経て、途中一度だけほんの僅かな時間だけ再会したが、最初に交わした約束の日なんて、おそらく彼女は憶えてはいないだろう。


 二十一年間、ただの一度も連絡を取り合わなかったことからもそれは明白である。

 おそらく明日は来ないだろう。


 それでいい。来ないことは幸せな暮らしの裏づけでもあるわけだから、私は本当にそれを確かめたいだけなのだ。


     * * *



 長峰優里と知り合ったのは、もうはるか昔のことで記憶さえ薄くなってしまっている。


 確か、高度経済成長期が終わって、ニクソンショックからオイルショックと連続のショックが世の中を襲い、経済安定期へ突入するまでの混沌としていた時代だったはずだ。


 その当時、僕は愛媛県今治市に住む高校三年生で優里は岐阜県岐阜市内の定時制高校三年生だった。


 関西方面の大学を目指していた僕は、ある受験雑誌に「人間の生きる価値」というテーマという重苦しい論文に投稿して、それが思いがけず一席に選ばれたことが彼女と知り合うきっかけとなった。


 個人情報なんて言葉も存在しなかった時代だから、受験雑誌には「小野寺浩一」の氏名のほか、在学する高校名、それに自宅住所までが掲載されたため、論文への賛同の手紙や否定的なものも含め、数十通の手紙が全国の受験生からたちまち届いた。


 でも僕が返事を出したのはただひとり、大学受験生ではなく働きながら学ぶ定時制高校に通っていた長峰優里だけだった。


 そんな彼女がなぜ受験雑誌を読んだのかは分からないが、「あなたの考えに共鳴しました。大学に進まれてさらに社会人になっても、生きる希望をなくしている人々を励ますような仕事をされることを期待しています」と手紙には書かれていた。


 ふたりの文通がはじまった。優里からの手紙が届くと、僕は翌日には返事を書いて送った。

 彼女も同じだったようで、手紙を送った日から四日後には返事が届いた。


 受験生という無味乾燥な日常で、優里からの手紙は僕のこころを奮い立たせ、限りない勇気を与えてくれるのであった。

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