第4話

 

 長峰優里は岐阜県郡上八幡の中学校を卒業後、大手紡績会社の岐阜工場へ勤めていた。


 昼間は工場で働き、夜は同社が工場敷地内に併設している高校に通っていた。


 岐阜は当時、紡績・繊維産業が盛んな都市で、市内には紡績工場が何ヶ所もあった。

 県内や他県からの女子を採用し、定時制高校を併設して女子工員の確保を図っていたのである。


 優里からの手紙は週に一度は届き、二日以内にはその返事を書いていたので、毎週一度手紙を受け取りそして返事を出すということが、無味乾燥な暮らしの励みになった。


 僕にとっては返事を出したあとの彼女からの手紙が待ち遠しくて、学校から帰ると母親に手紙が来ていないかを訪ねる日々が続いた。


 あとで分かったことだが、優里も僕と同じような気持ちだったらしく、彼女の場合は寮に帰ると郵便ポストを覗くのが日課で、届いていないと小さなため息を吐く日々だったと言っていた。


 僕は手紙に受験勉強の空しさと学校や両親への愚痴を書き、優里は工場での立ち仕事の辛さや実家の両親や妹への心配事などを几帳面な字で語りかけていた。


 でも、僕のように愚痴に該当するような言葉は、彼女の手紙の文面には見当たらなかった。


 僕の家は父が病弱で仕事を転々としたことが大きな原因で貧しく、しかも三人同胞の一番上だったので、本来は高校を卒業して弟や妹のために働くべきだったかもしれないが大学進学にこだわった。


 同級生たちが推薦入学という方法で簡単に合格を得ていた中、自分が経済的理由で進学を断念しなければならないことに納得がいかず、自力で大学へ行こうと考えた。


 受験料も馬鹿にならないので大阪の北摂に所在する私立大学に絞り、入試の前日に今治を発ち、東予からフェリーで大阪南港に渡り着いた。


 受験は戦争だ、周りが皆敵だと思う闘争心を顔に表しながら問題を解いた。

 そして大学紛争の影響で合格発表は郵送のみだったが、法学部の合格通知が届いた。


 普段気難しい父は大喜びし、入学金と前期の授業料を苦労して捻出してくれ、心配性の母は家を出ていく私を前に右往左往して涙した。


 弟や妹たちも漠然とした不安顔を見せていたが、いつまでも家族が一緒に暮らすことはできないと思った。


 そして三月末、再び東予からフェリーで大阪に向かう私のカバンの中には合格を喜んでくれた優里からの手紙が入っていた。



 刺激的な大学生活がはじまった。

 文化部のサークルに籍を置いてみたが、学業とアルバイトとの両立が難しく、少し経つと部活どころではなくなり、大学内にいる時間よりもバイトに割く時間のほうが大きく上回った。


 そしてあっという間に夏休みになり、変わらず優里との文通を続けていた僕は、いよいよ彼女に会いに行こうと考えた。


 倉庫会社で一ヶ月あまりほぼ休みなく働き、お盆が明けたころにキスリングを背負って優里に会うため岐阜へ向かった。


 早朝、大阪駅から東海道本線に乗り、京都から琵琶湖の東を上り、米原で乗り換えて岐阜へ、いきなり訪ねて行くので優里の仕事や休みの予定も分からないが、訪ねてみて会えなければあらためて行けばいいのだと思った。


 十九歳の僕は「今、自分はもしかして、生まれて初めて小さな自由というものを得ているのかも知れない」と思った。


 車窓から見える琵琶湖の広大さに驚き、伊吹山の美しさや関が原の田園風景や農家の家並みに感嘆していると、意外に早く昼前には岐阜駅に着いた。


 駅構内にある小さな書店で岐阜市内の地図を急いで開き、店員の目を気にしながら優里が働く紡績工場の位置と、その工場に最も近いバス停を確認した。


 駅の北側のバスターミナルからバスに乗り込む、目に入る景色はまるで異国のようだ、こころがときめき愉快な気持ちにさえなる。


 どれくらいバスに乗っていたのだろう、長かったのか短い時間だったのか分からないまま、地図で確認していたバス停に到着、キスリングを背負って真新しい住宅街を少し歩くと突然目の前に巨大な紡績工場が現れた。


 工場は色褪せた灰色の高い塀で囲まれていて、塀の周りを細い水路が流れていた。

 広大な敷地内に三角錐に似た屋根の長方形の工場や鉄筋の建物が何棟も並んでいた。


 正門はバス通りに面していて、水路に渡された短い石橋を越えると左側に守衛室があった。

 僕はためらいなく訪ねた。


「長峰優里・・・ナガミネユリねえ、ちょっと待ってね。えっと・・・今就労中だな。休憩時間があるからね、あと一時間ほどしてからもう一度来てもらえるかな。本当なら仕事中の急な面会は規則でお断りなのだが、せっかく遠くから来たのだから会って帰りなさい」


 大阪から来たことを伝えると、年配の係員が特別に許可をしてくれた。

 僕はいったん工場の外に出た。


 紡績工場は広大で、高い塀に沿ってどこまでも僕は歩いた。

 中の様子は外から全く見えない。


 どうしてこんなに高い塀が必要なのだろう。

 有刺鉄線こそ張られていないが、この延々と続く高い塀はまるで刑務所のようだった。


 工場で働く女子工員たちが脱走するとでもいうのか。

 優里がこの中で働いていることを思うと、僕は少し腹立たしくなった。

 紡績工場を半周ほど回ってから工場の南側をさらに下って行った。


 するとそこはひとかたまりの小さな住宅街になっていて、家並を抜けると今度は田園風景が続いていた。


 今治の僕の実家の裏庭からの風景に似た、はるか彼方までの広大な田園風景に僕はしばらく目を奪われ佇んだ。


 この季節は、蒸し暑く寝苦しい夜を蛙の合唱が妙に心地良くしてくれる。

 優里も同じように合唱を聞きながら寝苦しい夏の夜の夢を見ているのだろうか。


 少し遠くへ足を運びすぎたため、工場の守衛室を再度訪れたのが指示された二時半を少し過ぎてしまった。

 慌てて守衛室の小さなガラスを叩いた。

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