第2話
あの人の家は緩やかな坂道を上がったところに玄関が見えるのだ。
前に訪ねたときの記憶では、あの人の家へ通じる坂道の左側には、川を挟んで向かい側に山のいただきが見え、右側が狭い棚田になっていた。
門などはなく、いきなり見えた広いコンクリートの庭には、農機具が無造作に放置されていて、玄関が堂々と開け放たれていたことに、まだ二十歳だった私は驚いたものだった。
あのとき、あの人と一緒に玄関に足を踏み入れると、広い土間の奥にある台所から出てきた母が「よう来たね、遠慮せんと上がんなさい」と言った。
何の前触れもなく娘が連れてきたどこの馬の骨とも分からない私を、訝し気な表情も見せずに迎えてくれて、奥の広い畳の部屋に通された。
その部屋にいたあの人の父親が「駅から歩いて来なさったかね?暑いでしょう、扇風機が要るね」と、隣の部屋から少し埃をかぶった年季の入った扇風機を持ってきてくれたことを思い出す。
その日から十一年ほどが経った。
緊張と不安とが交差する気持ちで坂を上がっていき、やがて玄関が見えてくると、私は過去の情景を瞬時で思い起こすことが出来た。
そして、昔と何ひとつ変わっていない光景がそこにあった。
前と違っていたのは、玄関前の庭で、何とちょうどあの人が大きなあくびをしながら柔軟体操をしていたということだった。
時刻は午前八時四十五分。
「やあ、元気?ご機嫌いかが?」
などと声をかけると、あの人は天に向かって突き上げた両手をそのままにこちらを振り向き、「あれっ、浩一さん?」と大きな瞳をクルクル回して驚いた。
「本当に浩一さんなの?ええっ、本当に?信じられない。いったいこんな朝早くにどこからやってきたの?」
あの人は少しかすれた声で叫ぶように言い、それから空に突き上げた手をヒラヒラとたなびかせながら踊るように私のもとに駆け寄ってきた。
「本当に浩一さんよね?」
あの人はまだ両手を突き上げたまま私の顔をジッと見て、もう一度念を押すように言うのだった。
「うん、連絡もしないでごめん。お盆なら実家に帰ってるかなって思ってね。どうしても会いたくなったんだ。三十年なんて待てるはずがないよ」
私は背負ったリュックをようやくを降ろして、あの人の瞳を覗くようにして言った。
「私だって、ずっと心配だったんだから。私、今治の浩一さんの実家に手紙を出したのよ。でも返事がないし、本当に三十年なんて・・・」
あの人は涙混じりに言って急に怒り出し、それから両手で私の胸を何度も叩いた。
「親父は病気でずっと入院していて、母親は妹の家に住んでいるからね、悪かったよ。会いたくてたまらなかったんだけど、決断がなかなかつかなかったんだ」
「でも、決断したのね?」
「あれこれ考えすぎて、どうにもならなかったから、君に会いに行こうと決断するしかなかったんだ」
するとあの人は、「私に会いに来る決断ができたのなら、あとは容易いものよ。大丈夫」なんて言うのだった。
「あとは容易いって、でもこの先どうしようかなんて、僕はちっとも考えていないんだよ」
「そんなこと、これからよ」と、あの人は僕の手を取って言い、「さあ、入って」と開け放たれた玄関に私を引っ張った。
あの人は九年前に京都四条大橋で別れたときと、服装以外は何ひとつ変わっていなかった。
内側に軽くカールされた首までの髪形も同じだ。
色白の細い体躯に不釣り合いな胸のふくらみも変わっていなかった。
「ご両親がいるんじゃないの?」
「あの人たちはお祭りに行ってるから」
「こんな朝早くから?」
「ううん、夜中に出たのよ。お父さんは役員だから。でも、そんなことどうでもいいじゃない。それより今どこで何してるの?」
あの人は私を部屋にあげて、「暑いでしょ、今エアコン入れるから」と言い、それからいったん土間におりて台所の方に消え、しばらくしてからよく冷えた麦茶とグラスを二つお盆に乗せて戻ってきた。
「さっき、今どこで何してるのって訊いたけど、取り消すことにするね。約束の日までまだあと二十一年もあるんだから、お互いの今のことは話さないでおかない?」
あの人はグラスに麦茶を注いで、それを私の前に置きながら言った。
「そうしたほうがいいなら僕は従うけど、さっきあとは容易いものって言った意味は?」
「それはね、こうして会いに来てくれる決断をしたのだから、約束の日までまた我慢が出来なかったら、今の季節、この祭りの季節ね、そのときに来てくれたら会えるよってことを言ったの」
「それでいいの?」
「もちろんじゃない。私が我慢できなかったら浩一さんの実家に行くかも知れないわ。だから、今治の妹さんのおうちの住所をあとで教えてね」
「分かった」と私はあの人の提案に同意し、現在のふたりの住所地や連絡先は、お互いに知らないままにしておこうということに決めた。
あの人はそれで耐えられるのだろうけど、私は胸が張り裂けそうなほど辛い気持ちに襲われた。
でもそれが約束なのだ。
エアコンの効いた涼しい部屋で、私たちは麦茶を飲みながら言葉を交わした。
でも別れてからのお互いの状況については触れずに、そして訊かずに小一時間が経過した。
この町の祭りはまだ終わらない。九月にクライマックスを迎えるのだ。
「じゃあ行くよ」
「本当にありがとう。私、平静を装っているけど、死にそうなくらい嬉しくて、そして嬉しさと同じくらい辛いのよ。分かる?」
「分かるよ、僕だって同じだ」
私とあの人は玄関の前できつく抱き合った。
そして一度だけ軽くキスをした。深くキスをするともうあとには戻れなくなるような気がしたからだった。
私は緩やかな坂を降りていった。途中一度だけ振り返ると、あの人は細い手を激しく振っていた。
身体の奥の方から何か熱いものが飛び出してきそうな感覚を抑えながら、私は坂を下り、祭囃子が次第に大きく聞こえる町中へと降りていった。
それから私とあの人は会わなかった。
毎年、あの人の生まれ育った町の祭りの季節がやってくると、私は居ても立ってもいられないこともあったが、そのときそのときの生活に忙殺されて日々が過ぎた。
そして年月をかさねていくと、約束の日がいつだったかも気にしなくなってしまい、やがては日常に埋没してしまったのであった。
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