終楽章への果てしない道

藤井弘司

第1話

 

 あの人は面積の八割ほどが山また山で覆われているある県の、ほぼ真ん中あたりに位置する山間部の小さな町に住んでいる。


 私はこれまであの人の家を二度訪れたことがある。


 遥か彼方の遠い昔、まだふたりとも二十歳の夏、初めてあの人の家を訪ねたときはちょうど地元の夏祭りの真っ只中で、彼女の両親はお祭り気分が乗じたのだろうか、娘が不意に連れてきた男を訝しげもせずに暖かく迎えてくれた。


 それから二年後、若さなんて何の免罪符にも役にも立たず、結局私たちは別れてしまったのだが、ふたりが別々の社会や人間関係の中で生き、春夏秋冬が一年二年と休む間もなく通り過ぎていき、さらに年月を重ねて三十一歳のとき、私は何の予告もなくあの人に会いに行ったのであった。


 あの人と私は高校三年生のときに知り合って、大阪と岐阜という遠距離のハンデを負いながらも、お互いの気持ちは変わらなかったのに、結局最後は京都の四条大橋の上で鴨川の流れを眺めながら別れた。


 本当にふたりの気持ちが醒めてしまったわけではかったが、若さというものに理由をなすりつけて、さらに大いなるひとつの約束を交わして別れの手を振ったのであった。


「三十年後の今日、そして今のこの時間、午後一時、この場所で会おう」と。


 でも、三十年後にふたりで決めた場所で再会しようなんて約束は、最初からどだい無理に決まっている。


 だから十年も経たないうちに私はなんの前触れもなく彼女に会いに行った。

 三十一歳の八月、別れてからちょうど九年が経っていた。



 仕事がお盆休みに入った初日、当時住んでいた東京の蒲田というところから新幹線など利用せず、あの人と過ごした時間をゆっくり思い起こすために快速列車と普通列車を乗り継ぎ、終点についたら下車してホームで佇み、蕎麦を食べたりコーヒーを飲んだり、そして次の電車に乗る。


 気分にまかせて途中の駅で降りて町歩きなどをし、歩き疲れたらまた電車に乗る。


 その日の電車がなくなったら駅のベンチで夜明けを待ってうつらうつら、翌朝、始発列車がホームに現れたら飛び乗って、しばらくすると列車の窓から朝の陽光が差し込んできて、眠気まなこの私を奮い立たせる。


 それからさらに私鉄に乗り換え一時間半ほど、列車はゆっくりゆっくり標高を重ね、力を込めてグングン進む。

 私があの人に会いにいく手助けをしてくれているかのようだ。


 いくつかの駅に止まり、いくつかの駅を出て、いくつかの谷を越えていくつかの川を渡り、そしてようやくあの人が住む町が見えてきたら胸ときめきこころが踊る。


 いきなり会いに来たことにあの人が怒らないかなと、恐怖に似た不安が一瞬こころを襲うが、窓の外に見える透き通るような川面の渓流の流れを見ていると気持ちが落ち着いた。


 列車はさらに山沿いの緩やかな傾斜線路を登っていくと、やがてようやく着いたあの人が住む町の駅、色褪せた屋根瓦の平屋建ての古い駅は変わっていないことに、私はホッとした。


 駅を出ると、初めてこの町に来たときとほとんど変わらぬ風景、道路の向こうに立っている大きな周辺地図も少し色あせたが前と同じ。


 ところが朝八時前だというのに駅前は大勢の人で溢れていて、お盆休みに帰省で戻ってきた人たちだろうかと思ってみたが、どうやらそうではなく、この町の有名な祭が最も盛り上がる日だったのだ。


 知っていたはずなのに、あの人に会いたい気持ちだけがこころを独占してしまったため、お盆のこの祭りのことをすっかり忘れてしまっていたのだった。


 浴衣姿や普段着姿、短パンにTシャツ姿の若者たちなど、皆一様に下駄を履いてカランコロンと音が鳴り響く駅前を抜けて、緩やかな坂道を歩いていくと川幅が二十メートルにも届かない渓流にあたる。


 この川は列車から見えた川の支流、あの人の家に行くにはこの川沿いの道をずっと登っていけばいいのだ、記憶には自信がある。


 しかし、こんな朝早くからいきなり訪ねて行ってあの人は怒るだろうか、それともあの人はもう実家にはいないかも知れないと思ったりもするが、お盆にはきっといるはずだと自分に言い聞かせながらも様々な不安が再びこころを襲う。


 でも、今更後悔しても仕方がないともう一度納得させてさらに川沿いを歩く。


 天満宮さんを左に見て、チョイと立ち寄り運良くあの人と会えますようにと手を合わせ、少し歩くと今度は国道に突きあたるが、都会のように陸橋など不要、車の往来を確認してゆっくり渡ると畳屋さんの前には人だかり、少し路地を入ったところが踊りの会場となっていて、オールナイトの盆踊りがまだ続いていた。


「あ~ヨイヤな~、ヤットせ~、ヤットな~、ヨイヨイ」


 太鼓と笛の音と櫓の周りで踊る浴衣姿の人々、下駄を鳴らす独特の踊り、カンカンと青空に心地よく響く、朝なのに夕方のような錯覚に陥ったりもするが、三叉路を右に折れると掛け声も下駄の音も遠くなり、高台を見上げると、この街で唯一ある公立高校の運動場が遠くに見えた。


 その方向へ少し歩いて山裾の道を右へ、ずんずんと歩くこと約十五分、駅からだと四十分以上も歩いただろうか、ようやく見えてきたあの人の家、こころに銅鑼の鐘がガーンとひと鳴りした。

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