第11話 テスト勉強に百合を添えて 1

月曜日、教室に着いてから、わたしは真っ先に藍葉さんの席に向かった。いつもはチャイムの鳴る5分前くらいに学校に行っているけれど、今日は一刻も早く藍葉さんに会うために30分前に教室に入った。


そんなに早くに学校に着いたと言うのに、藍葉さんはすでに席に座っている。真面目な藍葉さんは普段通り、一番初めに教室に着いて静かに本を読んでいた。


「えっと、藍葉さん、おはよう……」

恐る恐る小さな声で藍葉さんに朝の挨拶をする。

「おはよう」

藍葉さんはいつも通り抑揚のない声で、わたしの方を見ずに挨拶をしてくれた。


一見不機嫌そうに見えるけれど、これは藍葉さんのいつも通りの姿ではある。きっと、わたしが鳥の着ぐるみでも着て学校に行かない限りは、こちらを向かずに静かな声で挨拶を返すと思う。だから、この状況はいつも通りといえば、いつも通りだけれど、これではまだ怒っているのかどうか判断できなかった。


「ねえ、藍葉さん……。あの……、土曜日はごめんね」

この間は謝ったら怒られてしまったから、また謝っても良いものなのかわからずに不安だったけれど、藍葉さんは顔をあげて、わたしの方を見つめた。無言でジッと見つめられて、緊張してしまう。


しばらくわたしのことを見つめてから、藍葉さんは小さな声を出す。

「友花、結構傷ついた」

「そうだよね……。ごめんね……」

「でも、全体的に見たら楽しかった。だから、もう良いの」

藍葉さんは小さく微笑んだ。

「それは許してくれるってこと?」

「もうあんなことしないでくれるなら」


わたしはホッとしてから、藍葉さんに伝える。

「うん、もうしないよ。海音とも抱きつかないし、藍葉さんにも必要以上にボディタッチとかしないでおくから!」


わたしは百合が苦手な藍葉さんにとって、一番喜んでくれるであろう選択肢を提示したつもりなのだけれど、藍葉さんは目を見開いたままわたしのことを見つめてから、「は?」と普段出さないような苛立った声を出してきた。びっくりして、思わずヒィッと小さな声を出してしまう。


藍葉さんは普段の無感情な声とは違う、ムッとしたような低いトーンの声で尋ねてくる。

「梅川さん、友花が怒っている理由わかってる?」

「わかってるよ……。藍葉さんが女性同士の恋愛とか苦手なのに――」


わたしの言葉の途中で、バンッと大きな音が鳴る。藍葉さんが机を思いっきり叩いて立ち上がる。藍葉さんが珍しく感情むき出しにして、わたしの方に顔を近づけてきた。大きな瞳をさらに目一杯広げている。鼻先はもう触れてしまっていた。ジッと、ただわたしに近づいているだけで、藍葉さんは何も言おうとはしなかった。


「あ、藍葉さん……」とわたしが困惑していると、藍葉さんは小さな声で呟く。

「わかってよ……」

ゆっくりと顔を離してから、また静かに席に座った。どうしよう、藍葉さんが怒っている理由が全然わからなかった。


「ごめんね、藍葉さん、わたし全然わからなくて……」

普段以上に俯いて、わたしに表情を見せない藍葉さんが下を向いたまま首を振った。

「ううん、友花のほうこそいきなり怒ってごめんね……」


声が震えているように聞こえた。怒っているのか、泣いているのかわからないけれど、藍葉さんが何らかの強い感情を表に出したいのを堪えようとしているのはわかった。


「ねえ、なんで怒ってるかって教えてもらえる?」

「怒ってない」

「怒ってたでしょ?」

「もう、今は怒ってない」

「嘘だ」

「怒ってないから!」


藍葉さんが膝の上に置いていた手をギュッと握っている小さく震えているし、机の上にポタリと水滴が落ちた。藍葉さんは多分泣いている。

「怒ってないから、今は一人にさせて」

藍葉さんは震えた声を必死に喉の奥から出していた。


「ごめんね……」

「謝らないで」

わたしは不安だったけれど、自分の席に戻った。藍葉さんは俯いたまま、静かに瞳を手で擦っていた。それにしても、海音の勘はまったく当たっていなかったじゃないか。藍葉さん、めちゃくちゃ怒ってるじゃん……。


その日は一日中、授業が手につかなかった。このまま藍葉さんに怒られたままなのは嫌だけれど、かといってわたしには藍葉さんが怒っている理由がさっぱりわからなくなってしまっていた。


藍葉さんが怒っている理由を考えていたら、あっという間に1日が終わってしまった。藍葉さんとは朝に話してから一度も話せていないから、わたしは一人でずっと藍葉さんの怒っている理由について考えてしまっていた。


このまま藍葉さんに嫌われたままになってしまうのだろうかと、かなり強く心配したけれど、放課後になると藍葉さんは何事もなかったかのように、わたしの席のところまでやってきていた。


あれ? 怒っているのではないのだろうか、と不思議に思う。一体何の用だろうかと思っていると、藍葉さんはいつものように静かに「帰ろ」と声をかけてきた。とりあえず、今日もいつも通り一緒には帰ってくれるらしくてホッとした。


駅までは15分ほどの道のりだから、そんなに距離はないけれど、藍葉さんと一緒にいられてホッとする。何を話そうかと思って、悩みながら、いつものように早足で歩く。まだ怒っているのだろうか。


「ねえ、藍葉さん、まだ怒ってる?」

「怒ってないから!」

藍葉さんがまた普段とは違い感情をむき出しにしてくる。まだ怒っていることは確定っぽいから、わたしは慌てて話題を変えた。とりあえず無難な話をすることにした。


「ねえ、もうすぐテストだね」

わたしが尋ねると、藍葉さんは、何事も無かったかのように、うん、と小さく頷いた。怒っているみたいだけれど、わたしとの会話は嫌じゃないみたいで、普段以上に藍葉さんの感情が読めなかった。


「勉強してる?」

藍葉さんは首を横に振った。

「特別な勉強はしてない。いつもの授業の復習だけ」

毎日継続的に勉強しているのか。


「やっぱり藍葉さんは偉いね」

「別に偉くない。普通」

「そっか」


また静かになったのはいつものこと。わたしと藍葉さんは少し話してはしばらく静かになって、またどちらかがポツリと思い出したように話しだす。お互いに何も話さない時間が長いのに、藍葉さんと一緒にいる時間が心地良かった。やっぱりわたしは藍葉さんのこと大好きだな……。なんとかして、藍葉さんの機嫌を直してもらう方法を考えたかった。


「あのさ、藍葉さん。もし良かったらでいいんだけど……。この後、勉強教えてもらえない……?」

「え?」と藍葉さんがわたしの言葉が信じられなかったと言いたそうに、首を傾げて尋ねる。それもそうだろう。わたしは藍葉さんのこと怒らせたまま、今一緒にいるのだし、そこからさらに勉強を教えてほしいなんて言われるとは思わなかったのだろう。


「あ、ごめんね。い、嫌だったら良いんだ。一人で勉強するから……」

慌てて取り繕っているわたしの方を見て、藍葉さんは首を横に振った。

「ううん、嫌じゃない。一緒に勉強する」


とりあえず、藍葉さんが乗ってくれてホッとしたけれど、どこでしようかな、なんて思っていると、藍葉さんが提案してくれる。

「うちでやる?」

「え!?」

思っても見なかったチャンス。わたしは藍葉さんの家に行けるらしい。思いっきり頷くと、藍葉さんがほんの少しだけ微笑んだ。


「今日は駅からも一緒だ」

藍葉さんが嬉しそうに言うから、わたしも微笑んで頷く。普段は最寄駅が逆方向だからここで別れるけれど、今日は藍葉さんと一緒に改札口を通った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る