翔べなくなった天使

安里紬(小鳥遊絢香)

本編

何も無い、白い世界。


遠く広がり、行き着く場所もわからない。


前後左右、上下さえもわからなくなり、手を伸ばして、ようやく前がわかる。


果てがあるのかすら、わからない。


暑さも寒さも感じず、いかなる匂いもしない。


微かな音も聞こえず、白すぎる世界に目が見えているのかもわからなくなる。


五感すべてが全く意味をなさない世界。


そんな中を一人の少女が、ゆっくり歩いている。


ふらふら、ゆらゆら。


時折、倒れそうになりながら、少しずつ前に進んでいた。


純白のワンピースからは、細くて長い足が出ており、必死になって自らの体を支え、長い両腕は己を守るように体を抱き締めている。


少女に何があったのか。


その背中から生える大きな白い翼は、中程でポッキリと折れ、痛々しい姿となっていた。


愛らしかった笑顔は消え、痛みを堪えているのか、翼を折られたことで絶望しているのか、または、どちらでもあるのか、苦痛に満ちた表情をしている。


ふらりとその華奢な体が揺れ、遂にその場に座り込んだ。


立ち上がろうと、足元に手をついたものの、既に限界を超えていたのだろう。


すぐにガクンと崩れ落ち、横たわってしまった。


少女は人を笑顔にする天使だった。


ただ少女が微笑むだけで、その周囲には色とりどりの花が咲き誇り、瑞々しい香りが人々に幸せを感じさせる。


苦痛を感じている人には寄り添い、その心が温まるまで包み、喜びを感じている人には何倍にもして、歓喜の鐘の音を響かせた。


そんな天使から全てが奪われ、残ったものは折れて輝きを失った翼だけだ。


ある日突然、少女に凶器が飛んできた。


直前まで笑っていた少女がその凶器に気付くはずもなく、いや、もし気が付いたとしても避け方がわからず、結局は貫かれることになっただろう。


その凶器は一度飛んできただけで終わるかと思いきや、一つ、また一つと増えていき、最終的には立派だった翼が折れてしまうほどの攻撃を受けた。


少女は何が起こったのかわからず、混乱の中でようやく感じたことが、折られた翼の強い痛みと、周囲から消えた人の気配だった。


翔ぶことができなくなった少女は、絶望の谷へと落とされ、体が裂けてしまうのではないかと怖くなるような痛みに耐えようとした。


そう、一人で耐えようとしたのだ。


つい先ほどまでの純粋で無垢だった純白の天使は、今やボロボロとなり、深くて暗い谷底へと落ちていく。


翔ぶことも試みた。


だが、完全に折れてしまった翼はいうことを聞かず、もがいても、もがいても、決して動くことはなかった。


そして、目を閉じ、諦めかけた時、不意に全てが無になり、この真っ白な世界へと放り出されていた。


わけがわからなかった。


闇へと落ちていくのだ。これで終わってしまうのだ。




少女が倒れてしまってから、どれほどの時間が経っただろうか。


長くも短くも感じられた時間、少女は身動き一つせず、ただジッと痛みに耐え、悲しみを堪えた。


どうして、こんなことになってしまったのだろう。


どうして、攻撃されてしまったのだろう。


人に嫌な思いにさせてしまったのかもしれない。


良かれと思ってやっていたことが、実際は人を傷つけていたのかもしれない。


でも、いくら振り返っても、少女には具体的な原因がわからなかった。


直前まで少女の前では、確かに人が笑っていたのだ。


楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに。


それにも関わらず、何故こんなことになったのか。


攻撃はどこからが始まりだったか。


どの方向から飛んできたのかもわからない。


ただ、少女がわからなくても、誰かが少女を攻撃して、美しい翼を折ったという事実に変わりはない。折れた翼を自分で治すことはできない。


そもそも治るのかもわからない。


これだけ傷ついているのに、存在が無くなることはない。


それが少女には残酷に思えた。


これほど辛く痛い思いをしているのだから、もういっその事消えてしまいたい。


治らないのだったら、完全に壊してしまってほしい。


少女は心の中で何度もそう願った。


強く願っているつもりなのに、一向に状況は変わらなかった。


背中にある折れた翼の痛みは酷いままだが、だんだん同じ体勢で横になっていることも辛くなってきた。


なるべく痛みが強くならないよう、ゆっくりと起き上がり、今度は膝を抱えて座り込む。


膝に頭を乗せて、ギュッと両腕の力を強めて小さくなった。


少女の肩から、漆黒の艶やか髪がサラサラと零れ落ちる。


音のない世界なのに、今にも聞こえてきそうな美しい髪の流れる音。


真っ直ぐで癖のない髪は、少女の心根そのもののようだった。小さくなりながらも、少女は願った。


壊して。


もう終わりにして。


壊してさえくれたら、もう何も望まないから。


神様。


お願い、神様。


そこにいるのでしょう?


聞こえているのでしょう?


いつまで、こんなに辛い思いをしなくてはいけないの。


お願い。


お願いします────。


だがいつしか、そう願っても、叶えられることはないのだと気付き、これまで必死に堪えていた涙が、少女の目から一粒零れた。


そして、次から次へと溢れ始め、少女の周りに少しずつ溜まり始めた。


少女を囲うように存在した、卵の形をした硝子の殻。


その中に清涼な雫が、一滴また一滴と流れる。


流す涙の分だけ、殻の中に溜まる涙も増え、次第に少女の体も浸かり始めた。


美しかった白い翼も涙に浸かっていく。


無色透明で清らかな涙が傷ついた翼を包み、少女からは温もりと痛みを奪い始める。


殻に溜まった涙は、少女からあらゆる苦痛を奪っていった。


痛みも悲しみも、絶望さえも。


そうして、いつの間にか少女の頭までもがすっぽりと覆われ、硝子の殻は涙で一杯になった。


ふわふわと髪が波打ち、白い翼がまるで翔んでいた時のように揺らぐ。


未だに折れたままの翼からは痛みが消えていた。


その代わり、少女の意識も揺らぎ始め、ハッキリしていた思考も霧散してしまう。


自分に何が起こったのかすら、記憶があやふやになっていき、最後には少女の意識まで、涙に溶けて消えた。




何も無い、白い世界。


そこに、硝子の殻に入って蹲っている、翼の折れた少女が一人。


自らが流した涙で、自身を全てから守るために閉じこもっている。


だが、少女しかいなかった世界に、突然、一人の少年が現れた。


少女と歳は同じくらいのその少年は、色彩が極端に少ない。


透き通るような白い肌に、長い銀髪。そして、銀色の瞳も加わると、まるで精巧に作られた人形のようだ。


少女には温もりを感じさせる何かがあったが、少年には温度がない。


その色合いのせいなのか、表情が欠落しているせいか。どちらかはわからないが、酷く冷たいもののようにも見える。


少年は硝子の殻に始めから気付いていたのか、真っ直ぐ迷うことなく近づき、その傍らに膝をついて、両手で殻に触れた。


ゆっくり、そっと、少年は殻を撫で始めた。


その表情は変わらず冷たいのに、手つきは慎重で優しげだ。


少年は中で蹲る少女の様子を気にしているのか、時折、手を止めてじっくり眺めては、また撫でるということを繰り返している。


暫く、少年が撫で続けていると、殻いっぱいに溜まっていた涙が、ふるんと波打ち、少しずつ少しずつ減り始めた。


少年が撫でれば、その分、涙が減って少女の体が顕になっていく。


そうして、折れた翼が現れた時だった。


ビクッと少女の肩が震えたかと思った瞬間、せっかく減ってきていた涙はものすごい勢いで溜まり始め、あっという間に元の状態に戻ってしまった。


思わず手を離していた少年は目を見開いたものの、すぐにまた両手を当てて、撫で始める。


やはり慎重に、優しく。


慌てず、焦らず、ゆっくりと。


その後、涙は減ったり増えたりを繰り返し、少年はそれでも変わらず、ずっと撫で続けた。




どれくらいそうしていたのだろう。


少女の翼が現れ、また元に戻ってしまうのかと思われた時だった。


今まで微動だにしなかった少女の顔が、ゆっくりと上がり、ようやく撫で続ける少年の存在に気付いた。


全身に力が入り、足を抱えている手がその強さのあまり真っ白になる。


怯えるような瞳からは、また一粒涙が落ちた。


他者が恐ろしいと思っているはずの少女であるにも関わらず、何故か少年から目を逸らすことができない。


銀の色彩を持つ美しい少年は、少女と目を合わせたまま、またゆっくりと殻を撫で始めたのだ。


驚き固まったままの少女の目からは、もう涙は流れていない。


少女はジッと少年の動きに魅入っていた。


これまで見たことのない色彩を持つ少年。


無表情のまま、淡々と殻を撫で、その度に少女の周りから涙が消えていく。


すっかり顕になった翼は折れているものの、以前よりも痛みが引いてきていた。


目の前にいる少年が何かをしたのだろうか。


そもそも何もなかった世界に、どうして少年は現れることができたのか。


少女は少年についてわからないことばかりなのに、最初の怯えはすぐに消え、不思議と恐怖感を抱くことはなかった。


そして、遂に少女の周りから涙がすっかり消え、残されたのは蹲っている少女と硝子の殻だけ。


その殻を少年は軽く叩いた。


すると、どれだけ涙を溜めてもビクともしなかった殻に、小さな罅ひびが入った。


更に少年はあくまでも優しく叩く。


少しずつ広がる罅。


最後のひと叩きと言わんばかりに、少しだけ強く叩かれた瞬間、音もなくその殻は砕け散った。


少年は動じることなく、少女の背中側に回り、今度は折れた翼を撫で始めた。


殻に触れていた時よりも、更に慎重に、優しく。


柔らかい羽の一本一本を整えるかのように。


時間をかけて撫でられた翼は、いつの間にか元の美しい翼へと戻っていた。


治ると思ってなかったのに、少年は簡単に治してしまった。


殻に閉じこもった少女を簡単に出してしまった。


「……神様?」


少女は呟いた。


それが音となったかはわからない。


ただ、少女の口の中でだけで言葉になったのかもしれない。


そんな少女の問いに、少年は答えることなく、少女の正面に来て座った。


そして、華奢な少女の手をそっと握り締めた。


覗き込むように少年は少女を見つめる。


何も言わず、無表情のまま。


そこで、少女はふと宝物が過ぎった。


「……聖《ひじり》?」


少女は初めて、この世界に来てから、音を聞いた。


自らが発した、よく知る名前。


すると、銀色を持つ少年は初めて口元を緩め、優しく微笑んだ。


「聖凪《せいな》。ここは君の世界じゃない。待っている人たちがいるよ」


凛と澄んだ少年──聖の声が、少女──聖凪の耳に届いた。


「聖凪……?」


「君は聖凪。思い出して。君の近くにいた人を。君を大切に思っている人たちを。君が大切にしてきた人たちを」


「私を大切に……? 私が大切に……?」


聖凪はジッと、自分と同じ字を持つ聖の顔を見たまま、自分の頭の中をぐるぐるとかき混ぜ、いろいろなものを手繰り寄せた。


その瞬間、一気に聖凪の世界が、聖凪の記憶が蘇り、真っ白だった世界に不規則な色彩が入り始めた。


驚いて周囲に目をやった後、目の前の聖を見直すと、いつの間にかいたはずの銀色をした聖の姿はなかった。


握られていた手の感触だけを残して。


ゆっくりと世界が変わっていく。


天使の姿をした聖凪は、可愛らしいピンク色のパジャマ姿へと変わった。


次第に、聖凪の意識が遠のいていく。


ゆらゆらと揺れる体も、思うようにはならなくなっていった。


その感覚になんとなく目を瞑った、次の瞬間、突然聖凪の鼻をいい匂いが掠めた。


何も感じなかった体に、温かくて柔らかいものを感じた。


カタンという小さな音が聞こえた。


恐る恐る目を開くと、そこは聖凪の部屋のベッドの上で、聖凪はそこに寝ている状態だった。


今までの世界は全て夢だったのか。


それとも、こちらが夢なのか。


見たことのない銀色の色彩を持つ少年は、聖凪を殻から出し、翼を治してくれた。


顔は幼馴染の聖だったように思うが、聖はあんな力はないし、何より銀色ではない。


再び、カタンと音がして、そちらを見てみると、食器をテーブルに置いている女性がいた。


聖凪はこの人をよく知っている。


大好きな人。


「お母さん」


「聖凪……!」


すごい勢いで顔を上げた母は、慌てて聖凪の元へ駆け寄り、その勢いが嘘だったかのように、ゆっくりと手を伸ばしてきた。


「お母さん」


「聖凪……わかるの?」


「え?」


「お母さんが、わかる?」


「当たり前じゃない。何言ってるの?」


母が変なことを言う、と聖凪は小さく笑った。


だが、母は笑わず、代わりにポロポロと涙を流し始めた。


「お母さん? どうしたの?」


「あなた、ずっと寝たまま、起きなかったのよ」


「……え?」


「聖凪。あなたは、少し前から学校で嫌な思いをしていたらしいの。ある日、怪我をさせられて、病院に運ばれたのよ。幸い酷い怪我ではなかったのだけど……あなたは眠ったままになった」


聖凪は『怪我』と聞いて、すぐに折れた翼を思い出した。


「精神的なショックを受けたんだろうって、お医者さんに言われたわ。今、聖凪は心の傷を治そうとしているんじゃないかって」


その言葉に、殻に閉じこもった自分を思い出した。


「もう、大丈夫」


そう。


根拠はないけれど、聖凪はもう心の深い傷は治ったと感じていた。


全てが消えたわけではないだろう。


それでも、もう大丈夫だと言っていい。


そんな気がした。


あの聖に似た少年が治してくれた翼は、きっと聖凪の心そのものだったのだ。


「今まで、ありがとう。心配かけて、ごめんなさい」


期間はわからないが、母の様子から、決して短い期間ではなかったのだろうと予想がつく。


「いいのよ。あなたが大丈夫だと言ってくれるのなら、お母さんは嬉しいわ」


「あの、それで、聖は……?」


「聖くんは毎日来てくれてるのよ。多分、今日ももうすぐ」


母が言いかけたそのタイミングで、部屋のドアがノックされた。


「ほら、来てくれた」


クスッと笑った母の頬は涙で濡れていたけど、表情はとても穏やかで、聖凪は気付かれないようにホッと息を吐いた。


母が開けてくれたドアから、聖がひょっこりと顔を出し、大きく目を見開いた。


「聖、ありがとう」


ごめん、じゃなくて、ありがとう。


「……聖凪」


「助けてくれて、治してくれて、ありがとう」


「……は? お前、何言ってんの?」


怪訝な表情をしながらも、聖は聖凪の近くまで来て、近くにあった椅子に座った。


聖凪はそれを見ながら、また笑った。


そうだ。


聖はあんなに穏やかな言葉遣いじゃない。


少し乱暴な男の子っぽい話し方だ。


「何でもない」


「変なやつ」


「でも、ありがとう」


毎日来てくれていたのなら、とても心配してくれていたのだろう。


「別に。俺、何もしてねぇし」


ふいっとそっぽを向いた聖の耳は真っ赤になっている。


「たくさんの人に、お礼言わなくちゃ」


「そうだな。みんな、待ってるぞ。さっさと元気になって、戻ってこい」


「うん、そうだね」


寝たままだった体は、確かに思うようには動かない。


今度は体の方を戻していかなくては、元の生活には戻れないだろう。


問題だって、恐らく解決したわけではないだろう。


でも、今なら冷静に向き合えるはずだ。


「神様、ありがとう」


「は?」


「何でもない」


銀色の色彩を持つ美しい少年。


聖の姿をした神様。


それは聖凪の心が作り出した夢の世界だったのかもしれない。


だが、心の傷が軽くなっているのも事実。


あれは、きっと────。




*終*


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