いつか来る『明日』のために
木村竜史
後編
レポートを書く時間を捻出するのが難しいほど、過酷で慌ただしい研究の日々は過ぎていくけれど、『壮大な未来に貢献できる』というやりがいが疲労感を遠くのほうへ追いやっていく。幸いなことに技術大国日本――世界最新鋭の技術が大量に使われたこの場所では、仮設住宅に備え付けられたベッドでさえも最新のもので、地下の実家の小さなものに比べると寝心地は雲泥の差だ。
……それでもあのゴワゴワした毛布の感触が、たまに恋しくなるのだけれど。
急ぎ足で歩く。複雑な構造をしているこの研究棟は、あまりにも広大で、あまりにも不親切だった。ここでは何千もの研究チームが日夜問わず様々なプロジェクトを進めている。居住区から私が所属するラボへと向かうのも一苦労だ。
地上と同じように地に足を付けて歩けるけれど、やっぱり土地勘だけはそうはいかなかった。まるで迷宮のような道程を歩いて歩いて歩いて、時折迷って間違えて。どうにかこうにか進んでいるうちに、いつの間にかここの構造もそれなりに理解できるようになっていた。
「うーん、パパっと行けたら楽なんだけどなぁ」
愚痴に似た呟きは、吐息と一緒に空調に乗ってどこかへ飛んでいく。
昔の人たちは昇ってくるお日様の光で目が覚めて、沈んでいくお日様と、夜空に光る星たちを眺めていたらしい。ここに来るまでは、ただの知識でしかなかったこと。道に点在している窓を覗き込むと、太陽の光を反射して煌めく星々が私の水晶体へと吸い込まれていく。
音も聞こえない真っ暗な闇の中できらりきらりと光る数多の星粒を見ていると、醒めない夢の中を漂っているようだ。出来ることならば、こうしてずっと窓を眺めていたくなる。足元の地球から重力を振り切ってここまでやってきたことを忘れそうになるくらいに、目の前で光り輝くたくさんの星は美しかった。
「うーん、あぶないあぶない」
時間を忘れて見入ってしまった。首を大きく振り、意識を切り替える。思ったより時間を取られてしまったようだ。このままでは遅刻してしまうかもしれない。嫌な予感を胸の中に押し込みながら、小走りでラボへと向かう。慣れというものは素晴らしいことで、複雑で乱雑な道程はもう身体に染み付いていた。今では目を瞑っても目的地に辿り着ける。
「すみません、遅れました!」
肩で息をしながらラボに飛び込み、お腹から声を上げる。遅刻してきた私を咎めるたくさんの眼……は存在せず、主任の進藤さんが驚いた顔でこちらを見ていただけだった。まるで熊のように大柄な彼が、目を見開き口を半開きにしている表情は、カートゥーンのキャラクターのようだ。
「え、規定の時間まではまだ余裕があるようだけれど」
「あれ⁉︎」
どうやら時間を間違えていたようだ。慌てて腕のデバイスを確認してみると、確かに集合時間の三十分前を示していた。
なんだ、くたびれ儲けかぁ。遅刻しないでよかった、という安堵の気持ちと疲労感が同時にやってくるが、どうにかこうにか蓋をする。早く来たならば来たで、やることはたくさんあるのだから。
準備をしているとすぐに集合時間になっていた。いつの間にかラボには私を含めた十二人の研究員が揃っていた。各々が端末を開いてデータを打ち込んだり、植物のサンプルを用いて実験を行ったりしている。
火星や金星などの過酷な環境下での実験は、思ったよりうまく進んでいない。過去の地球に比べると、大気や土壌の成分にまだかなりの差があるようだ。スペースプラントが齎す改良された土壌ですらも、私たちが求める水準をまだ満たしていない。あの完全な人工で造られた植物ならともかく、おばあちゃんが生きていた時代の植物は、過酷な環境に耐えることは難しい。
だからといって、諦めるわけにはいかない。私はこの場に研究者として立っている。人類の未来を背負ってここにいるのだ。
スペースプラントをさらに改良するのか。あちらの環境を植物に合わせるのか。それとも植物のDNA側にアプローチをかけ、あちらの環境に合わせるのか。はたまた別の方法を模索するのか。試行と実験と改良と評価の繰り返し。なかなか出ない結果もあり、私の脳の容量が急速に埋まっていく。
まるで積み上がるブロックピースだ。急速に膨れ上がり、頭の中が破裂寸前だ。それでも、思考は止めない。止めてはいけない。
「頑張らないと、頑張らないと……!」
焦りは視界を狭くする。わかっているはずだった。それでも、それに気づかないまま世界がだんだん細くなっていく。
「――とさん」
頭を動かせ。画期的なアイデアを思い浮かべるんだ。私の次の世代の為に。未来のために。
目は端末から動かない。指はデータを入力し続けている。数字と言語が奏でる不協和音が内臓を激しく揺らしていく。外界と途絶させられたような感覚は、ある意味で研究に没頭できるような気がしてきた。
この調子ならいつか――
「山本さん」
意識は急速にラボへと引っ張り戻される。慌てて顔を上げると、いつもと少し違う笑顔の進藤さんがいた。目を細め、口角は上がっているけれど……どこか『圧』を感じるような、不思議な表情だった。
もしかして、怒ってる……?
胃袋が少しだけ小さくなる。自覚はないけれど、もしかしたら長いこと彼の言葉を無視していたのかもしれない。
「あのね山本さん、ちょっと肩肘張りすぎ」
だけど、僅かに萎縮している私に向けられた言葉は、想像と少し違うものだった。わざとらしく肩を竦めながら、優しげに言葉を続けていく。
「宇宙は広いんだ。もうちょっとのんびりやってもバチは当たらないと思うな」
「え、でも――」
まさかそんなことを言われるとは思わなかった。ここは日本の、世界の最先端だ。どんな瞬間も成果を、結果を優先させるべき。そう考えていたし、周りのみんなもそうだと思っていた。私のような新人は、人の倍は頑張らなければならない。そうしなければ、凡人の私はすぐに取り残されてしまうのだから。
「もうすぐ結果は出るさ。焦らずにいこう」
肩に乗せられた手の熱が、微かに伝わっていく。優しい温もりは、暫く触れていない父の掌を想起させた。
「進藤さんはのんびりし過ぎなんですよ」
隣の席に座る厚い唇をした同僚の女性――南さんのボヤキにも似た呟きで、ラボ全体が笑い声に包まれる。つられて笑っているうちに、本当に肩の力が少しだけ抜けていることに気付く。
「そうそう、そんな感じ。凝り固まってると良いアイデアは出ないよぉ」
普段から笑顔を絶やさない進藤さんだが、今まで彼が歩んできた数々の功績は非常に輝かしいものだ。植物工学の第一人者であり、スペースプラントの開発の主要メンバーの一人である。この国どころか、世界……宇宙有数の頭脳の持ち主。そんな彼が率いるメンバーに選ばれたことに、尚更プレッシャーを感じていたのかもしれない。
「まぁ、ゆっくりやろうよ。あとでコーヒーを煎れよう。秘蔵のオーガニックのやつ」
そう言いながら自席に戻る進藤さんの背中は、とても広くて、大きいものだった。頼りがいのある背中とは、きっとこういうものなのだろう。
「ありがとうございます、お砂糖たっぷり入れてくださいね」
主任にこのような返答が出来たのは、思ったよりも余裕が出てきたのかもしれない。今にも切れそうな程に張り詰めていた心の糸が、解れていた。
誰にも聞こえないように、小さく息を吸って、吐く。冷静に考えてみれば、確かに私に出来ることなんて、広すぎる宇宙からしてみれば余りにも小さいものだ。
だけど、小さくても。進んでいかなければならない。焦らず、着実に。少しずつ、一歩ずつ。
「よーし」
輝かしい未来はまだまだ遠いのかもしれない。それでも、いつか必ず、確実にやってくる。
エントランスをちらりと見る。もう地球上で芽吹くことのない姫金魚草の花が空調の風で揺れていた。
いつか来る『明日』のために 木村竜史 @tanukiss
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