第五話:空へ
出来上がった絵も、絵の具も先生も、気が付いたら消えていた。
前も後ろも上も下も真っ暗の中、ただ絵を完成させたという充足感だけが広がっていたから、怖いといった感情も無かった。
ただ、満たされていた。
そして私は、何もかもすべてを思い出していた。
「なぜだ。あんなにも平穏な幸せが、お前の悪夢だったというのに。お前は、どこにも逃げ場の無い、あの幸せの牢獄の中ですべてを失うのではなかったのか!!」
背後から声が聞こえた。
何をそんなに怒っているのだろう。振り向くと、真っ黒な空間の中にぼんやりと、人型のシルエットが見えた。
その人型は、全身が赤黒い炎に包まれていて、表情は見えない。熱くないのだろうかと思ったけど、たぶんこれはMirrorのアバター設定でそう見えているだけだから大丈夫なんだろう。
「Mirrorだと……何を言っているのだお前は。私の姿が見えているとでも言うのか……?」
「そういうあなたは私の心が読めるのね。だったら、ここがどこかくらいは分かっているはずだけれど」
自分でも驚くくらいに静かな私の声に、シルエットは一歩、足を後ろに下げる。認めたくない。認めてなるものか。そんな感情が逆に、私の頭の中にも入りこんでくる。
夢魔。オルロック家。百爪。蒼嵐。黒ノ翼暗殺。計画詳細。
その他にも知りたくなかった情報が、いろいろと。
彼からだけじゃない。この真っ暗な闇から、情報が土砂降りの雨みたいに降ってくる。
「やめろ、私の脳内を覗くな、やめろ!」
「なら、あなたから接続を切れば良い。あ、でも切り方が分からないのかしら。個人に繋がることはしてきても、こんな大規模なネットワークに繋がったことなんて無かったみたいだから」
目の前の彼が――夢魔が覗いていた気になっていたのは、私の頭、夢の中。
でも実際には、彼はこの世界――Mirrorのサーバーにアクセスしてしまった。
彼は自分の能力で私の夢を覗いていたつもりでも、ただのMirrorの中の、アバターの一人として私を、Mirrorの中で眠っていた私の夢を見ていたに過ぎない。
彼はきっと今、自分の身体いれものへの帰り道が分かっていない。
異能はあくまでその一つでしかないけれど、魔法が科学技術に惑わされる日が来るなんて、少なくとも百年前の魔法使いたちに言っても信じてもらえないかもしれない。
魔法を使うための源。第六元素アステル。
魔法使いたちは、遥か昔から、他の人たちとは違う自分たちの力を――もちろん例外はいるけれど、この世界の均衡を保つために使い、管理してきた。
この力を戦時中に軍事転用を決行した時から、魔法と科学技術の、この世界の支配権争いは決していたのか。
いや、手を取り合ってしまったからこそ、優劣や差異などもはや意味を成さなくなってしまったのだろう。
こうして私が、私の知らない知識と感覚で考えを組み立てられるのも、Mirrorで繋がった誰かのアステルを同調させたおかげだ。
異能なんて無くても、人の心の声を聞けるのかもしれない。
異能なんて無くても、人の感情の色が見えるのかもしれない。
異能なんて無くても、念じるだけで物体を燃やすことができるのかもしれない。
異能なんて無くても、傷ついた身体を瞬時に再生することができるのかもしれない。
きっと何でもできてしまう。
そんな場所に、望めばいつだって来ることができる世界に、私たちはいる。
でも――。
「でもそうなってしまったら、私があの絵に懸けた感情も、その先で手に入れられるかもしれない、家族や友だちと過ごす何気ない時間も、交わす言葉も、すべて生まれる前に死んでしまう……!」
与えられるだけじゃダメなんだ。
私が生きて、息をすることができるのは現実の世界だけ。
機関での戦いの日々を黒羽に任せて逃げるのは違うんだ。
クロハとして、不幸に胡坐をかいて、いざ出されたままの幸せのレールに乗った途端に、これは違うと我儘に選り好みするのも違うんだ。
自分の翼で飛ばなくちゃ、意味が無いんだ。
飛びたい。
そう思った瞬間、真っ黒な空間は音を立てて割れた。
悲鳴にも歓声にも似た、奇妙な音だったけれど、なぜか心地良い。
割れた向こうには青空と、無数に舞う黒い羽。
私の背中には大きな黒い翼が生えていて、右手には翼と同じ色に染まった太刀が収まっていた。
何でもできる世界。
今だけは頼らせて欲しい。
「ありがとう、黒羽……」
自然に漏れ出た‘私’への感謝の言葉。
目の前で困惑している黒炎のシルエットは、私と、私を拾ってくれた恩人たちに、きっと酷いことをしようとしている。
彼らにも彼らなりの言い分があるのかもしれない。でもそれが、私が大好きだった人たちを傷つけて良い理由にはならない。
「く、来るな、来るなぁ!!」
悲痛な叫び。きっと彼は、ここがMirrorの中で、自分も同じように何でもできるということが、頭から抜け落ちてしまっている。
そんな彼にこうして刃を振るって、恐怖を植え付けることもすでに矛盾しているから、自分を正当化するのもこれで最後にしたい。
全力で羽ばたいて、全力で太刀を振るう。
空気と骨肉を断つ、やけにリアルな音が綺麗に重なった。
――強制ログアウトが実行されます。
機械的な音声とともに、青空は再び色を失くしていく。
今度は黒ではなく、灰色。
褪せて、褪せて、最後には真っ白に、何もかもが消えてしまう。
「さようなら。そしてこれからもよろしく、
私は自分に離別の言葉を送る。
でもきっと消えるわけではない。
今まで戦ってきてくれた黒羽も。
幸せから逃げ続けた臆病なクロハも。
きっと私が連れ出して、広い空で、一つの翼で飛べるようにしてみせるから。
*****
「はぁ……はぁっ……!」
荒い息を吐いて、初老の男は椅子の背もたれに全体重をかける。
目玉だけを動かして周りを見渡せば、四方八方真っ白な白い壁。能力の使用に集中するため、身を隠すために手配した六畳のアパートの一室。
木の質感、体内から聞こえる心音、息を吸って吐く、この感覚。
そうだ、やっと自分は戻ってこれた。
男――シュラウム・オルロックは、家柄のせいもあり、科学技術などという魔法を真っ向から挑発するような技術は好まず、たとえ仕事になろうともVDGやMirrorなど触れようともしてこなかった。
だから分からなかったのだ。あれが少女の夢の中ではなく、人間が作った電子の世界だったなんて。
いまだに理由が掴めない。いつから、なぜ自分はMirrorに迷い込んだのか。いつも能力を使うように、少女の夢の中に入っていっただけだったのに。
「なんにせよ、私の作戦は失敗か……。だが、あのくノ一が手はず通りに進めていれば何も問題は無い」
蒼嵐から招き入れた忍には、万が一の時に少女、クロハ本人を暗殺するように指示を出してある。
あの甘美なご馳走を逃したのは痛いが、最終的にミッションを遂行できればそれで良い。
「エム、すぐにこの場所から撤退するぞ。機関の人間に居場所を突き止められているかもしれないからな」
扉の向こうにいるはずのエムから答えは返ってこなかった。焦りと苛立ちからもう一度名前を呼ぶが、自分の声が何もない部屋に響くだけだった。
彼の任務は護衛だから、何があっても離れるなと言い含めておいたはずなのに。
「……待て。私は本当に、そんな指示を出したか?」
考え得る最悪な可能性が脳裏を過って、シュラウムは思わずひとり言を漏らす。
まず、どこからがMirror内での出来事――つまり、現実では起こらなかった出来事なのだ?
シュラウムの認識では、およそ二か月前に機関の末端の人間の夢に入り込んだことがすべての始まりだった。
そこから徐々に情報を盗み出し、クロハに近づいた。最終的にクロハの夢に入れたのは、哀川邸への襲撃前夜。茶色い癖ッ毛の、抹消者のメンテナンス技師らしき男が、クロハのメディカルチェックを行った時だ。
その後はほぼ彼女の夢に常駐し、必要な時だけ現実に戻り、雇った二人に指示を出していた。
もしクロハの夢に入った途端にMirrorに囚われていたとしたら、自分は現実の世界に戻れていたのだろうか。
今もまだ、Mirrorの中に囚われていないという保証はどこにあるというのだろうか?
「ここは、どこだ……」
側頭部に手を伸ばし、そこにあってほしくないものを外そうとする。触れたのは毛髪の無くなった自分の地肌で、冷たい黒い機械ではなかった。
しかし安心などできなかった。
現に、居るはずだった護衛の姿が見当たらないのだ。
「……ッ!」
椅子を蹴飛ばして、逃げるように扉へ向かう。
鍵は掛かっていなかった。まだエムが命令を無視して時間を潰しに行ったという可能性も存在するということだ。
扉を開ける。春の涼しい風が身体に飛び込んできて、ここが現実世界なんだと安心させてくれているような錯覚すら起こった。
人々の話し声。車の走行音。開店準備を始めた居酒屋のにおい。
そして。
――。
その中に微かに混ざったのは、自分の額に穴が空く音だった。
何が起きたのか、何をされたのかは分からなかった。
ただ重力に従うまま、夢魔シュラウム・オルロックは、自身の頭部から噴き出た血だまりに身体を沈める。
ばたり、と音を立て、沈みきった時にはもはや意識は無かった。
ここが現実なのか、それとも電子の世界なのか。
それすらも確認できないまま、彼の身体は光の粒子となって消え去っていった。
「現実ですよ、紛れもなく」
ビルの屋上で寝そべって、スコープを覗き込みながら、有明涼佳は言った。
「普通、感情の色なんてみんな同じなんですけどね。異能者だけはちょっと特殊な色が混ざるんですよ。哀川邸で見かけたあなたの護衛の人も例に洩れず。あふれかえる同じような色の中で、たった一つの色を見つけるのは難しくありませんでした。彼が居る場所に、忍びの女性と、あなたがいた。あなたが外に出てきてくれたタイミングで引き金を引く。たったそれだけの仕事を、私はしただけです」
自分の身長ほどのスナイパーライフル。その引き金から指を離し、涼佳は長めの独り言を終える。
言葉を受け取るべき男がいた場所には、もはや血だまりすらも残っていない。
春の、少し強めの風。
それがどれだけ強くなろうと、涼佳の言葉が男に運ばれることはなくなってしまった。
「本当、現実感が無いですよね」
口元をつり上げて、涼佳は笑う。この笑みはきっと、透夜も含めてまだ誰にも見せたことがないかもしれない。
そんなことを思いつつ、涼佳は今回のミッションの終わりを、静かに確信した。
*****
それは、いつかの記憶。
「私は戦い続けなければいけないんだ」
荒地には死体が散らばっていた。
手足を千切られ、腹は裂かれ、五体満足で転がっているものを探す方が難しいほど、悲惨な状況だった。
阿鼻叫喚の祭りの後。
そんな祭りの開催者が、ぽつりとそんなことを言った。
普段、表情も感情も乏しく、自分から声を発さない彼女の言葉だったから、彼は耳を澄ませて聞こうとした。
「でもね、それは世界の平和を守るためだとか、そんな理由じゃないんだ」
どうして。
ただ一言、彼は訊ねる。
彼女が彼女として会話を交わしてくれることなど、この先いつ訪れるか分かったものではない。
戦うためだけの生物兵器。
殺戮するためだけの黒ノ翼。
このままでは、彼女の人間らしさを知ることもないまま、永遠にお別れすることだってこの先十分にあり得るのだから。
「みんなに化け物だ、必要ない存在なんだと言われ続けた自分あの子を、かわいそうだと思ってしまったから。私が生まれて、こうやってあの子の代わりに戦っている。誰も助けてくれなかった自分を、自分で助けようとした。そんな悲しすぎる過程の中で生まれたのが、私なんだ」
そんなことすら、もはや他人事のように言うしかないのか。
彼女はあの子と、完全に別人として向き合うしかないのか。
そんな自分との向き合い方は、きっと間違っている。
「キミに拾われて良かったと思ってる。良く笑うようになったろ、あの子。それで良いんだ。あの子がこれ以上辛い思いをしないように、戦い続けるのが私の役目」
自分に暗示をかけるように、少年のような低い声で、誰に語るでもなく同じ言葉を繰り返す。
黒い翼とかぎ爪。機関から託された、異能殺しの刃。
これまで約二年間、戦闘ミッションの度に不満も言わずに出てきては、ひたすら殺し続けた彼女の、独り言。
辛くないはずが無いのだ。
彼女を救い出したい。彼女を黒羽ではなく、一人の‘クロハ’という少女として、呼び戻したい。
彼女を救う方法はないのか。
ひたすら頭を働かせた彼は、やがて悪魔的な発想に至る。
この時点で透夜は、二人の‘クロハ’のうち、黒羽を選んでしまった。
自分の信念に反するそんな感情が生まれるほど、透夜が彼女に見た意志の光は眩しかった。
だからこそ、なのかもしれない。
彼女を救い出す方法をひねり出すことにすべてを集中させていたから、きっと彼女の一番小さい声は彼の耳に届かなかった。
――でも、いずれこの翼は返さないといけないとも思ってる。一緒に飛びたいんだ。***と、一緒に。
誰も知り得なかった名前とともに零れた、彼女の初めての願望。
ささやかな、でも彼女にとって本物の願いは、誰にも届くことはなかった。
*****
「きみは、誰だ?」
目を覚まして、ベッドから起き上がった少女を目にした透夜の第一声が、それだった。
彼女の表情に、その瞳に、クロハも黒羽も見つけることはできなかった。
「クロハ。あなたが付けてくれた名前を、私はこれからも名乗るつもりだよ」
口調はどちらかと言うと黒羽に近い。けれど、そこに彼女のような、すべてを俯瞰したような、動きの少ない表情は読み取れない。
憑き物が取れたかのような、清々しい顔。
異能者には決して見られない、希望に満ちた瞳。
諦めの末に得たものなら、少しは影があっただろうに。今の彼女からはそういった闇は見受けられない。
「きみの中には、何人いる?」
その質問は透夜にとって、答え合わせに等しかった。
今回の荒治療で彼女はたった一人の人間に、あるべき彼女として戻ることができたのだろうか。
「言ったでしょ。私はクロハ。たった一人の、クロハだよ」
正解なのか不正解なのか、全く分からない。彼女を現実世界で直接呼び戻すという役割があったから、透夜は彼女が戻ってくる直前にMirrorで起こったことを知らない。
世界に絶望しきったクロハは、黒羽に現実世界を任せてもう出てこない。出てくるのは、彼女を守る黒羽のみ。そんな筋書き通りにはならなかったということだろうか。
「そう、か。でも戻ってきてくれて良かった。さぁ、機関に帰ろう。みんなも待ってるからさ」
目の前の少女が黒羽でなくとも、やることは変わらない。彼女さえ戻ってくれば、透夜にとって支障はないのだから。
「私は、悪魔にはならないから」
「……!」
差し伸べた手が止まった。
悪魔。
その単語は、まだ世那の前ですら口にしたことのない、透夜の頭の中に秘めた言葉であるはずなのに。
どんな作戦指示を出す時よりも、心臓の鼓動が速く鳴り、身体が急激に酸素を欲しがり始めた。
「私にMirrorを介して繋がっていた人たちの考えていることが、頭の中に入ってきたの。どういう仕組みなのか分からないけど、その中にあなたの考えていることもあった。とっても壮大で理想的だけど、私はそのために悪魔になりたいとは思えない」
「……はっ」
思わず笑いが漏れる。
すべて、知られてしまったのか。
そう。機関に身を置いているのも、彼女をこうして必死に取り戻そうとしているのも、すべて透夜の願望を実現させるための過程に過ぎない。
彼女を悪魔にすること。
絶対的で、誰が見ても頷く‘正しさ’を、この世界にもたらすため。
「この世界は、たった一つの正常と、それ以外のたくさんの異常で出来ている。きみもそう思わないかい、クロハ? この世界に幅を利かせている‘正しさ’とやらは、この世界すべての人たちを守るには弱すぎて、小さすぎる。正しさに適合できる者は良いが、それ以外の、例えばきみたちのような異能者は、必ずその枠から外れて、異端者の烙印を押されて弾劾される。彼らの多くは道を踏み外し、断罪される。偏見や憎しみが募って、負のサイクルは途切れることなく大きくなるばかりだ」
それは一番クロハが分かっていたし、監視者である透夜は嫌というほどそういった異能者を見て、助け、時には葬ってきた。
哀川だって、もう少し早ければ助けられたかもしれなかったのだ。
あそこまで絶望することなく、どこかで全く違う生き方をしていたに違いない。
「神は死に、大きな物語が消失した今、技術が進んでMirrorが、限りなく現実に近い電子世界の仮想現実を作り上げた。誰もが自分だけの正しさを抱え込んで離さず、否定する者は許さず、大小を問わず争いは絶えない。現実世界で、実際に僕らが理想とすべき正しさは、もう意味を成さなくなってしまっている。それどころか、時代に合わない古い在り方のまま僕らを縛り付けている」
人は暴力ではなく話し合いで問題を解決していける。
愛は世界を救う。
家族は特別な絆で結ばれている。
努力は必ず報われる。
人を殺してはいけない。
そんな正しさの縛りは、Mirrorに潜ることで無意味になってしまう。あそこは罰の手も届かない、何かもが許されてしまう空間なのだ。
自由を知ってしまった人たちは、今さら既存の正しさには縛られようとしない。
平気な顔で嘘を吐き、生きるべき現実を事務的に処理していく。
「今の正しさらしきものには、力が足りない。人々が見上げるべき正しさや理想を、新しく作り直さなければいけないんだ。それができるのは、異能者を置いて他にはいないと思っている」
力を持たない人たちに比べれば、彼らは確かに化け物に見えてしまうだろう。けれど自分たちとは全く違う、理解を超える力を持った存在を認知させることにより、社会にいる人たちへ新しい価値観を、認識を生じさせることができるのではないだろうか。
「正しさの死体に寄り添って夢を見る傲慢な人たちの目を覚ましてやるんだ。だからこそクロハ――きみに悪魔の役割を演じてほしかった」
シナリオは単純なものだ。
黒い翼を生やし、鋭い爪で人々を襲う恐ろしい悪魔。ソレは人々の傲慢さが生み出した怪物で。
怪物を倒すために異能者たちが力を合わせる。彼らは人々が、互いに手を取り合って困難に立ち向かえるという希望の象徴。
怪物に立ち向かうヒーロー。
この世界には人知れず怪物がいて、人間たちは手を取り合って彼らに対抗し、生き延びなければならない。
そんな単純なシナリオが、今の社会でなら神話並みに受け継がれていくだろう。
その時に、今までになかった新しい正しさの火種が生まれる。
火種はすぐに燃え広がらなくても良い。
長い時間と議論と争いが生まれるかもしれない。
それでも、この世界に新しい、誰も異を唱えることのない、一人の犠牲も出ない‘正しさ’を生み出すことができたのなら、透夜の悲願は達成したと言える。
「理想のために、私に死ねと?」
「何も本当に死ぬ必要はない。きみの身の安全は機関が、僕が保証するさ」
クロハには演じてもらえれば良いだけだ。
絶望と傲慢の象徴、際限のない暴力を。
「そんなことをして、新しい正しさを作ったところで世界は変わるかな」
「すぐには変わらない。でもいずれ、長い時間をかけて人間は変われる。その状況を、きっかけを作ってやらなければいけないんだ」
透夜の返答に、クロハは口を閉じて考える。
自分の中のクロハと黒羽に問いかけ、話し合う。
正常と異常。正しさと、それ以外。
黒羽が戦い続け、クロハが逃げ続けた言葉。
「繰り返されるだけだよ。どれだけ強い正しさを作っても、その中に入れない人は出てくる。それに、そんな暴力による支配みたいなやり方で、そんな強引な正しさをただ受け取って従い続けるだけの世界に、幸せはあるのかな?」
ずっと、正しさという枠に入れなかった。枠が大きくなって、自分がその中に入れたことを想像しても、境界線の向こうにはいつかの自分と同じ絶望を背負った誰かの姿が見えた。
そして、知ってしまった。あの平凡な日常。確かに穏やかで、幸せと言えるかもしれなかった時間。同時に感じた、檻に閉じ込められているかのような閉塞感と、もどかしさ。
「もう人間は自分たちを管理できない状態なんだ。一つの正しさが定まれば、みんなそれに向かって足並みを揃えていける。その中には異能者も一緒だ。この世界のすべての人が、同じ理想を見て進んでいける。それを幸せと言わずに何と呼ぶのさ!」
興奮気味の透夜の言葉に、もう素直に頷くことはできない。
彼女は機関の黒羽ではなく、一人のクロハだから。
「私は、あなたからは受け取らない。悪魔にも、なりたくはない」
与えられるだけじゃダメなんだ。
耳触りの良い‘絶対的な正しさ’なんて言葉も、いずれ想像もできないようなきっかけで崩れ落ちて、今のように堕落する。
その時に代わりの正しさを再定義できる人がいなかったら、それこそ本当の終わりだ。
常に問い続けて、戦わなければいけないんだ。
その時に応じた適切な答えを、無数に溢れ返る選択肢の中から考え抜いて、選び取らなければならない世界なんだ。
そこには願望が必要だ。あれをしたい。こうなりたい。目的地が無ければ、羽ばたくこともできない。
「私が良いと思ったように飛んで、この力を使っていく。だから、あなたからは受け取らない」
もう一度、強く否定する。自分クロハの意志で。答えは揺るがない。
絶望の中から救ってくれた透夜には感謝してもしきれない。
けれど、ここから先は私の人生だ。
「きみのその判断基準は、何から、どこから構成されているものなのかな?」
気づいてほしかった。そんな感情すら、この社会に作られたものなのだと。
本物なんて、正しさなんて、この世界には存在しないのだと。
「紛れもなく、私自身からだよ。この力があれば、泣いている子の元にすぐ飛んでいける。この爪で悪い奴らをやっつけることができる。しばらくは正義の味方にでもなってやるつもりだよ」
そう笑顔で言える彼女が、魔法使いの青年には羨ましくて、やっぱり眩しかった。
自分の異能を、人とは違う部分を、誇らしげに言葉にできる少女が。
黒い羽が舞って、一陣の風が吹いて窓を激しく揺らす。
文字列がびっしりと埋め込まれた紙が、それに追いつこうと何枚も風に乗って部屋中を暴れ回る。
中身はテキストとして書き出された、彼女の在りし日の悪夢、日常。
けれど一枚たりとも、窓の外、晴れた青空の下に出ることはなかった。
さよならなど無く、一瞬で。
透夜の黒い悪魔は、清々しい空の青に溶け込んでいってしまった。
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