第四話:ズレた時間

「これ以上、この子を苦しめるのは止めましょう」


 VDGを取り外して、塞ぐようにヘッドフォンを付け直して、神楽木彩音は言った。普段、表情や感情が読み取れない分、その辛そうな声色はより感情に訴えかけるものがあった。

 本棚。ベッド。勉強机。洋服箪笥の上に並ぶいくつかのぬいぐるみ。

 ただそれだけなら、五.五畳の、ごく一般的な女子高生の部屋だが、異物がいくつか置かれていた。

 机には部屋に似つかない大型のモニター。それに繋がる、何種類かの特殊機器。線の一つは、ベッドに眠る少女――クロハの頭に装着されている、VDGに繋がっていた。

 電子世界の中で、彼女はここと全く同じ部屋で起きて、寝て、日常を繰り返している。

 残酷な茶番だと、彩音は目を瞑り無音で嘆く。


「まだだよ。ここからだ。を誘き出すには、辛いけれど、クロハには完全に絶望してもらわなければならないんだ」


 答えたのは、彩音の背後で変わらずモニターを見つめる監視者とうや

 彼が求めるのは、少女の絶望。

 この世界への。

 本物や正しさを諦めて、捨てたこの世界への、絶望。

 それがきっとヤツにとって最上のご馳走になる。

 ご馳走に飛びつくその瞬間が、唯一にして最後のチャンスなのだと、確信をしている。


「……分かった。また、同じ一日をあの子は味わうのね」


 罪悪感か、透夜への恨みか。透夜は彼女ではないから、そこに含まれている感情を正確に読み取ることができない。


 エンパシー。


 視認した対象の心の声を聞くことや、力をコントロールできるようになれば記憶の追体験も可能な高レベルのメンタル系の異能。

 神楽木彩音はそんな自分の能力を嫌ってか、常に機関が制作した特性のヘッドフォンを身に付けている。

 力を制御できなかった頃は大変だったそうだ。前向きな感情ならまだしも、周りに渦巻く負の感情があちらこちらから流れてきて、人間不信の時期も長かったという。

 今は薬や訓練の成果もあってか、力を抑えられてきている。一方的に相手の心を聞くのはアンフェアだという理由で、仕事上必要な時以外で力を使う彼女を、透夜は見たことがない。

 けれど、今がその必要な時なのだ。彼女の力無しには、今回の緊急作戦を成し遂げることはできない。

 機関の情報を各犯罪組織に流す内通者の抹消。

 クロハの、機関への呼び戻し。

 始まりは、クロハのメディカルチェック。機器に示される、いつも不気味なほど安静なクロハの精神状態。そのほんのわずかな揺れが引っかかって、透夜は彩音に頼んで、クロハの心を聴いてもらった。


 気弱で、あどけなさの残るクロハ。

 戦闘ミッション時のみ出てきて、無表情に殺戮を行う黒羽。


 クロハが眠っている時は、基本的に黒羽が意識の深いところで起きている。出現のタイミングから見ても、黒羽はクロハの自己防衛人格。それなら、不測の事態に備えて彼女が起きていてもおかしくはない。

 機器の性能上、黒羽の意識が存在することは感知できたのだが、何を感じ、考えているのかまでは彩音に頼らなければ分からなかった。当然、機器には感情の波も表示されない。

 しかしその時は波があった。偶然にも黒羽の声が聴けるならそれで良いと思ったが、彩音がクロハから聴いた声は、そんな幸運なものではなかった。


 ――美味そうだな。


 無表情で無感動な、それでもどこかにクロハらしい優しさのある声ではなく。

 下卑た、欲望にまみれた男の声。

 クロハの中にいる、何者かの声だった。


「ナイトメアの能力者、ね。しかもオルロック家のシュラウム・オルロックときた。悪夢を喰らう‘醜食家’。夢の中に忍び込まれたら最後、‘何か’が起こるまでその存在に気がつけない。今回は彩音の力で偶然にも声が聞けたわけだが、普通なら滅多にないぜ、こんなこと」


 扉を開けて入ってきたのは、赤城敦。普段の眠そうな顔は、今回の異例事態に心なしか嬉しそうに見える。


「彩音さんが聴き取ってくれた情報からして、うちの情報を流していたのはシュラウムで間違いない。おまけにクロハの暗殺まで請け負っていたとなると……いろいろな意味で、機関として彼を見過ごすわけにはいきませんよね」


 彩音がクロハの中から聞いた声は、機関に保存されている無数のボイスサンプルの中の一つと一致した。件のシュラウム・オルロックは、以前にも機関のメンタル系抹消者と交戦経験があったのだった。その時は惜しくも逃げられたが、その声紋と、ナイトメアへの対処法を構築することには成功していた。


 シュラウムを始めとするナイトメア、夢魔の能力を持つ異能者たちは、人の夢に干渉する。言い換えれば、アステルを介して、自身の精神の‘波’を他者の眠っている時の精神の‘波’に同調させ、いわゆる精神世界へと侵入する。精神世界に入られてしまえば通常、その精神の宿主しか夢魔と接点を持つことはできないとされていたが、現代ではそれが可能となった。


 眠っている時の意識の‘波’というのは、人がMirrorを覗いている時と同一ということが、数年前の夢魔との交戦で証明されたのだ。


 仮想現実に没入している時と、夢を見ている意識は同じ。


 ならば、夢魔が宿主の精神状態に入り込もうとする時、宿主がMirrorに接続されている状態であれば良い。宿主と同調した夢魔の意識は、Mirrorによって計測が可能で、さらには‘エンパス’によって聴くことが可能なのだから。


「しかし、なかなか怖いですね、エンパシーっていう能力は。こっちはこんなにあっさり情報を抜き出すことはできても、抜き取られている方は一切気が付くことができないんだから。本当、使い手が彩音さんみたいな人で良かったですよ」


 彩音はヘッドフォンで耳を塞いで、目を瞑って、透夜の言葉には答えない。透夜は特に返事を期待したわけでもなかったのか、それからは無言で手元の資料に目を通すことに集中し始めた。


「彩音がここまであからさまに不機嫌なのは珍しいが……まぁ、無理はねぇよ。こんな計画を瞬時に考えちまうあたり、やっぱりお前は人の心みたいなモンが欠けちまってるんだから」


 部屋の重苦しい雰囲気に、赤城が一言ぼそりと呟く。彩音は相変わらず何の反応も示さなかったが、透夜は対照的に笑みを浮かべて赤城へと顔を向ける。


「人の心、ね。そんなもの、偽物ですよ赤城さん。目的が達成できるなら、僕はそんな被り物をいつだって外せます」


 自虐的でもなければ、傷を隠すような誤魔化しでもない、真っ直ぐで純粋な眼差し。冷え切った鋼鉄のように冷めていて、槌で打たれたばかりの刀のように熱い。赤城は、自分に向けられている透夜の笑みに気味悪さを覚えているが、そこまで嫌いではなかった。

 要は仕事を完遂するための計画が上手くいけばそれで良い。

 重要なミッションを、二つ同時に達成しようとする欲張りな計画。

 クロハを脱退させると見せかけ、‘更生者’の家族三人を連れて、春谷という小さな町に送り届けた。


 人の住まなくなった古民家を急きょ改装し、に見せかけた。

 ここまでした理由は、シュラウム以外の敵の目を警戒するため。

 彩音が手に入れた情報の中には、シュラウムが哀川邸に現れたあの二人の人物と何かしらの会話をする映像があったのだという。つまりこの処置は、シュラウムが夢の中で見る映像と、現実世界に住む、協力関係にあるであろう二人が見ている現実を一致させるためのカムフラージュだった。

 その中では次世代型Mirror ―― MirrorⅡにクロハを繋げて、彼女が現実の社会に戻ったのだという錯覚をさせた。


 MirrorとMirrorⅡの違いは二つ。一つは、仮想世界の物体や空気をよりリアルに触れられるようになったこと。触覚、さらに言えば痛覚も、現実世界とほぼ同等のものを、仮想現実の中で感じられる。防衛人格の黒羽も、現実との区別がつかなかったのか、従来のMirrorを接続したときのような暴走を起こすことはなかった。


 同じくMirrorⅡに接続した更生者である藤村家の三人には、仮想現実の世界で本物の家族として振る舞ってもらうことで、クロハが――正確に言えば黒羽が機関に戻るように仕向けてもらった。


 もちろん、現実というものがいかに偽物で、不安定で、嘘にまみれた世界かということをクロハに再認識させることによって。

 クロハは絶望し、二度と現実世界へは戻らない。

 戻ってくるのは、彼女を守る役目を負った黒羽だけ。


 彩音にはクロハの‘声’を聴くことに集中してもらっていた。次にナイトメアが現れるのは、現実に生きるクロハではなく、意識が一番集中している、仮想現実の中のクロハの夢の中。つまり、ナイトメア――シュラウム・オルロックは、クロハの夢を喰らうために、知らずのうちにMirrorと同じ意識レベルで、自らの意識を表出させざるを得なくなるはずだという仮定の上での作戦だった。


 MirrorⅡの改変点のもう一つは、仮想世界の死と現実世界の死をイコールで結んだこと。現実で死んでしまうような損害が仮想現実上の身体に生じた際、データ化された意識はMirrorによって完全に消去される。残されるのは意識の無い、空っぽの容器にくたいのみとなる。

 Mirrorでは何でもできる。仮想現実の中で自らの異能を発動させることも、現れた夢魔を消滅させることも可能なはずだ。

 今のところ、シュラウムが現れる気配はない。

 しかし、この悪魔的にまで強欲で合理的な作戦が上手くいくことを、透夜は確信していた。

 いや、実際に信じていたのは黒い翼を持つ少女――黒羽のことだったが。

 彼女が、ホスト人格のクロハの危険に、牙を剥かず、爪を立てないはずはない。

 時が来たら必ず、夢魔はその黒い翼に切り刻まれて。

 彼女は機関に戻ってくるだろう。


「彼女は必要なんだ……僕の計画を実行するためには、必ず」


 透夜は黒羽の帰りを待っている。

 帰ってきた時には、こう言ってやるのだ。


 ――きみは必要な人間なんだ。


*****


 初めの頃は真っ白だったキャンパスが、だんだんと夕焼け色に染まってきた。


 ――あと少し。絶対に、完成させてやる。


 無心に、ただそれだけを思って、わたしは筆を動かす。

 あの時のものと同じようで、まったく同じような夕焼けを目の前に、わたしは座って絵を描いている。

 部室には相変わらず、わたしと、静かに本を読む神木先生以外には誰もいない。

 春の嵐が止んで、夏を運んできそうな穏やかで温かい風が、窓の外から遊びに来るだけで、静かな空間だった。


「……」


 世界が不安定で、ぼやけて感じるようになってから、毎朝起きることすらも辛かった。逆に、眠って見る、あの平穏な生活も、わたしには悪夢と同じで。夢も見ず、ずっと眠り続けられたら良いのにと、何度思ったことか。

 空ろな意識で学校に行く中、それでも変わらずに通っていたのは美術部室。描きかけだったあの日の夕焼けを完成させないままなのは、なんだか気持ち悪くて、ふといつもの癖で立ち寄ったのがきっかけだった。

‘なんとなく’で、手に取った筆。描かれていく夕焼け。

 軽い気持ちで始めたそれに、いつの間にかわたしは熱を注ぎ始めていて、完成のために今まで何日もかけてずっと通い続けるまでになってしまっていた。

 絵の具に水を付け足して、色を調整する。塗ること自体は一、二日かければなんとかなる。わたしがここ何日か拘っていたのは、色だった。

 あの日見た、何気ない夕焼けの色。

 天気が良ければ毎日でも見られるような空に、魅入られていると言って良いほどこだわっている。

 あの時の色を正確に覚えているかと言われると、正直自信はない。

 わたしがこれから再現する色は、何日も経った記憶に歪められて、みんなが普遍的に想像するような、なんの面白味も無い姿で終わってしまうかもしれない。

 それでも。

 わたしはわたしが納得できる色で、空を描きたい。


「これも、違う」


 絵の具を変え、筆を変えて、下書き用の紙に色を乗せていく。一見すると全部同じ色で、

 夕焼けの色。でも、わたしの記憶が、心が、意識がそれを良しとしない。

 オレンジ色に染まった紙が一枚、また一枚と、あの時の夕焼けではないと否定されて、捨てられていく。

 これは、わたしの中でなくなってしまった‘本物’を探す行為なのかもしれない。

 でも、改めて自分にそうなのかと訊いてみたら、‘そうではない’と答えるんじゃないだろうか。

 ‘本物’とか‘偽物’とかは、どうでも良い。

 ただわたしは、この絵を完成させたいだけなんだ。


「あっ……」


 予定していたよりも多めに、絵の具を出してしまった。どのくらいの量の水で薄めれば、あの色に近づけるのだろう。

 細筆を取って、水入れの中にほんの少しだけ筆先を入れる。筆は今まで吸った何パターンもの夕焼け色のミックスを水の中に放出して、透明色を、名前の付けようがないオレンジ色のような、何色かに染めていく。

 ――これだ。

 煙が漂うように、水の中に落ちていく色。

 そこにわたしは、あの日の夕焼け空を見た。


 細筆の先を、出し過ぎた絵の具に少しずつ触れさせていく。

 ほんの少しのズレで、再現できなくなってしまいそうだけど。

 勢いに任せて、わたしは真っ白なキャンパスに筆を走らせた。

 走らせて、滑らせて、ただ描き続けた。


 ――。


「あぁ、これが……」


 目の前にあったのは、あの時に先生と見た、何気ない夕焼け空。

 他の人から見たら、何の変哲もないオレンジ色の空。

 わたしが求めて、描いた空に名前はない。

 でも名前を付けられるとしたら、それはたった一人、わたしだけ。

 気づくとわたしの頬には熱いものが流れてきていた。


 わたしがわたしのままルビを入力…嬉し泣きをするなんて、いつ以来なんだろう。


 現実でもMirrorでも、本物でも偽物でも変わらない、高揚感と充実感。

 この感覚が、わたしをわたしとして確立させてくれるもの。


 ――わたしは、幸せだよ。


 心でそう叫んだ瞬間、世界はガラスのように綺麗な、崩壊の音を立て始めた。



*****



 初めからこうすれば良かったのだと、何の警戒も無しに歩く女子高生の背中を見ながら、忍装束の女――みなとは思った。

 右手には苦無を一本握りしめ、いつでも投擲できるようにしてある。

 たった一本、その背中に、心臓に突き刺してしまえば彼女は絶命する。わざわざ異能を使う必要もない。異能犯罪者組織‘蒼嵐’のメンバーとして暗殺を請け負ったことも何回かあるが、これほど楽な仕事はない。


「黒ノ翼と恐れられた異能者も、記憶を失い、能力も抑えられたとなれば、タダの人間の女。下手なトラブルが起こる前に、さっさと消しとけば良かったのよ」


 黒ノ翼、クロハ。

 これまでに数々の異能犯罪者を‘抹消’してきた悪魔。

 彼女を消すタイミングは、今を逃すともうないのかもしれない。

 雇い主――オルロック家でも‘醜食家’の二つ名で通っているシュラウム・オルロックの情報によると、彼女の中で熟成されてきた‘悪夢’が、霧が晴れたかのように跡形も無く消えてしまったのだという。

 もともと、クロハの中に出来上がった悪夢をシュラウムが喰らうことで、精神を壊し、自分とエムの二人がとどめを刺すという作戦だったのに。

 真正面からでは確実に勝てないクロハを倒すのには良いかもしれないと、‘百爪’、‘蒼嵐’、‘オルロック家’で立てた、かつてない異例の共同作戦が、主導的立場であったオルロック家のミスで狂うとは失笑もできないほど呆れてしまう。


「ふぅ……」


 かと言って、自分もミスはできない。

 あの哀川雅希を一太刀のもとで葬り去ったのを、この目で見たのだ。あの時は様子見をするだけのつもりだったからすぐさま撤退したが、今回は自分が最後までやらなければならない。

 何かのはずみで記憶と力を取り戻し、刃や爪を向けられるかもしれない。

 そうなる前に、私が一太刀であの少女の命を刈り取るのだ。

 ‘蒼嵐’の名に懸けて。


「さようなら、黒ノ翼。あなたがこの空を羽ばたくことは、もうないでしょう」


 湊は翼をもがれた少女の背中に囁く。

 恐怖を振りまく爪も牙も翼も、もうこの可憐な少女には必要ないのだ。

 鉄の刃に音は無く、言葉と想いとともにクロハに吸い込まれていく。

 夕日で伸びる少女の影に沿って、苦無は一直線に目標へ飛んでいく。


「おっと、オレを忘れてもらっちゃ困るぜ」


 少女と苦無の間に飛び込んできたのは、炎と声。

 コツン、とわざとらしく足音を立てて、空気を熱し、苦無を燃やしながら、一人の男が降り立った。


「緋村……零次……!」


 こんな登場の仕方に加えて、その獅子のように立てた金色の髪を見間違えるはずがない。

 異能管理機関アーク。ターゲットの少女が所属していた機関のメンバーの一人。

 自然発火能力。パイロキネシスの能力者。

 しかし、なぜ彼がここにいるのか、湊には分からない。

 夢魔からの報告によれば、彼女の学校に侵入していたらしいメンバーは、教師に扮した赤城敦と神楽木彩音の二名だけだったはず。

 なぜ緋村が、このタイミングで?


「不思議そうな顔してるねぇ、くノ一ちゃん。あっちゃんやあやねぇがいれば、オレがいたって不思議じゃねーだろ? おっと、その前にクロハちゃんを逃がさねーとな。ほら、逃げな。オレのことなんてもう覚えていないだろうけどよ……」


 苛立ちすら起きない爽やかな笑顔を残して、緋村はクロハに逃げるように促す。彼女の顔は戸惑いと恐怖が隠されることなく浮かんでいた。

 彼女はもう一般人で、それが当たり前の反応だ。

 およそ機関の更生者とやらに記憶を消されたのだろうが、なんとも情けない。

 こんな奴に、今まで恐怖しなければならなかったなんて。


「ちっ、血気盛んだね、くノ一ちゃん。いや、確か湊とかいう名前だったかな? ‘蒼嵐’との交戦データの中にあんたの情報が入っていたよ。リクエファクション――身体の液状化があんたの能力だ。そりゃオレとの能力も相性最悪だよな……っと!」


 ぺらぺらと出てくる彼の言葉を無視して、湊は逃げるクロハの背中に苦無をもう一本投擲していた。当然のごとく見切られ、緋村の振るったナイフに、その進路を断たれる。

 すぐに少女の小さな背中は見えなくなってしまった。

 ターゲットを追わねばならない。この男の話はどうせ時間稼ぎだろうから、耳に入れる必要など存在しない。

 湊は逸る感情を、その一歩に込める。


「オレの話には興味なさそうだな。……でも、そうやって現実を見ないから足元を掬われるんだぜ?」


 そんな言葉に、意味は無い。

 湊は能力を解放し、一気に緋村との距離を詰める。

 自らの身体を液状化させ、体内で循環させることによる疑似ジェット噴射。

 超高速で放たれる水は、鉄よりも固く、物体を切断する。

 緋村から放たれた炎など、もはや熱さすら感じない。


「不利と分かっていて、なぜ私の前に姿を現せたのかしら。現実が見えていないのは貴方の方です、緋村零次」


 弾丸のように、水になった湊は緋村を貫通する。

 湊の声はもう、おそらく風穴の空いてしまった緋村には聞こえていない。


「エム、聞こえますか。たった今機関の緋村と戦闘になり、殺しました。しかしターゲットを取り逃がしたので、夢魔の能力で彼女の現在地を把握できませんか」

 まずは連絡だ。液状化を解いて、すぐに連絡機を取り出す。


 エムには現実での戦闘能力を持たないシュラウムの護衛をさせているが、今回のような緊急事態には外に出てもらわなければならない。


「緋村だとぉ? 赤城ならともかくなんであいつが……。ちょっと待ってろ、確認する」


 苛立ちを隠そうともしなかったが、やりべきことは素早くこなす。‘百爪’のメンバーの粗暴なイメージとは少し離れたエムの振る舞いに、湊は好印象を持っていた。

 彼から‘百爪’とのコネクションを作ることができれば、‘蒼嵐’も今以上に安定した闇商売が可能になる。

 声が遠ざかり、意味を成さない雑音がガサガサと聞こえてくる連絡機に耳を済ませながら、湊は一人、少し未来を見た。


「……起きているヤツの意識を追うのは難しいができないことはないらしい。すぐ知らせるから、お前はとりあえず藤村家に向かえ。逃げるならまずはそこだろう」


 エムの言葉に、湊はクロハが逃げていった方角を見る。

 先にあるのは彼女の自宅へと続くバスが停まる場所。帰路を狙ったのだから、当然と言えば当然だ。

 まずは自宅。普通ならその通りなのだが、シュラウムから伝え聴くクロハからして、そこが第一の逃げ場になるだろうか。

 幸せな家族や友人との生活を、悪夢に見るようなあの少女が。

 だが確率が高いのも確かだ。動かないよりは、多少の確率に掛けた方が良い。


「いや、待て。おいおいなんだ、こんなところで迷子かよ?」


 電話の向こうで、エムの愉快そうな声が聞こえる。

 それは電話相手の自分に向けたものではなく、同じ空間にいる誰かに向けた言葉のようだった。


「今、俺らの隠れ家の真横を突っ走るお嬢ちゃんの姿が、窓から見えた。すぐに追って、俺がミンチにしてやるから待ってな!」


 それだけ言い残して、エムとの通話はぷつりと途絶えた。

 なんという偶然か、見つかったのならそれでいい。唯一の懸念はもう一人の戦闘メンバーである赤城敦がエムの邪魔をすることだが、相性はエムの方が有利。まとめて消すことができるだろう。


「……」


 違和感に気づいたのは、安堵の息を吐こうかと空気を吸った直後だった。

 クロハが、隠れ家のすぐ真横を突っ走っていった?

 隠れ家は、クロハが走っていった方向とは真逆の位置にあった。

 湊と緋村の戦闘時間はおよそ十分。それまでの間に、あの何の力も持たなくなった少女がそこまでたどり着けるものなのか?


 異能に身を置いていた湊の思考が、正常を考えることによって判断能力に遅れを生じさせる。


「だから言ったんだ。現実を見なきゃ足元掬われるってな」


 思考を消し飛ばしたのは、冷徹な声と、熱く紅い刃だった。



*****



 頭に振り下ろせば終わりなのだ。

 ハードネット。皮膚、筋肉、骨の硬質化。

 エムのこの能力さえあれば、並みの人間――になってしまったこの少女など、ひとたまりもない。

 少なくとも、いくら肉を断っても骨を砕いても再生して立ち直ってくるどこぞの男とは違って、この腕を振り下ろしさえすれば、目の前で怯える少女は見るも無残な肉塊に変形して、ミッションは達成される。

なのに、なかなかすばしっこい。

今も振り下ろそうとする直前で、クロハは兎のように駆け出していった。


「なぁ、お嬢ちゃん。そろそろ終わりにしようや。そうやって逃げ回っても苦しいだけだぜ?」


 ターゲット――クロハは街のあらゆる隠れ場所、抜け道を知っているのか、道を曲がるたびにその姿を消してしまう。


 夕暮れ時の時間帯。

 人通りもこれから多くなり、下手をすれば女子高生を追いかける不審者として通報される可能性はかなり高い。

 この社会の住人は、分かりやすい正しさには敏感に飛びつくから。

 近づいてきた人間諸共粉々にすれば済む話ではあるが、なるべく騒ぎを起こしたくはない。


「家へ帰ろうぜお嬢ちゃん。お母さんと妹が、心配して帰りを待ってるんじゃねーのか?」


 シャッターの降りた商店街。付近で唯一開いているパン屋を、クロハは左に曲がった。

 まっすぐ行けば自宅へと続くバス停だったのに。

 あるいはパン屋に逃げ込むことも考えられたのに。

 あくまで逃げ続けるというのか。

 逃げ続けたところでどうにもならないというのに。


「このまま生きられたかもしれないお嬢ちゃんを殺すのは俺も心苦しいよ。でもな、お前は生きてちゃいけない人間なんだ。この社会でもそうだが、はぐれ者の俺たちにとっても、ただ邪魔な存在でね」


 一心不乱に逃げるクロハに対して、エムの足取りは緩やかだった。

 力の無い少女を絶対的な力を持って追いかける嗜虐的な快感と余裕からか。

 逆に、機関の更生者に異能を抑えられているとはいえ、いつ暴発するか分からないクロハの能力への緊張と恐怖からか。

 奇妙で心地よい感覚を胸に、エムはクロハと同じ角を曲がる。

 細い裏路地。

 通行止めの柵に背を預け、クロハは肩で息をしていた。


「ここでチェックメイトだ」


 穏やかな心のまま、拳を硬質化させる。

 駆け出して、狙うのは彼女の脳天のみ。

 憐れだ。

 憐れだと思うから、一瞬で思考と命を奪ってやる。


「恨むなら、お前を異端として貶めたこの社会を、世界を恨むんだなぁ!」


 誰かへの懺悔か言い訳か、言葉と共に名の通り鉄拳を迷いなく突き出す。

 異能者が異能者としてこの世界で生き抜くには、もはや抜け殻のような社会の住人たちの望む通り、彼らの‘悪者’として振る舞うしかない。

 しかし目の前の少女は、悪者として振る舞うことすら許されなかった。

 この子はただ、危険すぎるから。

 エムにできることは、その役目が自分に回ってこなかったことに心底安心しながら、彼女を消す以外にない。

 せめてその最期を焼き付けようと、サングラスの奥の瞳を逸らさずに開く。


 ――お前があの子の存在価値を、勝手に決めんじゃねーよ。


 聴こえたのはここにはいないはずの男の声。

 見開いた目に入ってきたのは真っ赤な炎。

 感じたのは、全身を蝕む灼熱と激痛。


「う、あぁ……ああああああぁぁああ?!?!!」


 この獣の咆哮のような声は、自分のモノなのか?


 柵を破ったまま間抜けに刺さって炎上しているこの棒状のモノが、自分の腕で。


「どう、なっている! この熱さは、全身が、燃えているのか……?」

「その通りだよ強面のおっさん。いや、エムさんよ」


 苦し紛れのひとり言に応えたのは聞き覚えのある声。

 声がした背後には、変わらず制服姿の少女が立っていた。

 ただし、不敵な笑みを浮かべて。


「硬質化と言っても、完全に無敵になれるわけじゃない。真正面から来る打撃にはめっぽう強いかもしれないが、やろうと思えば対象を燃やし尽くすまで消えないんだぜ? あくまで生身の人間のあんたには、耐えられないはずだ」


 そんな当たり前のことは知っていた。

 だからこそ哀川の屋敷では、湊に彼の相手をさせたのだ。


「お前は、湊と戦闘して、死んだと報告を受けた、はずだぞ……」


 喉と肺が焼けて、上手く声を出すことができないが、訊かずにはいられなかった。

 蘇生か? それとも湊が倒したというのはダミーか?


「あんたもできれば美少女に最期を看取ってほしかったかもしれないがな……」


 そう言って少女は答える代わりに、右手を自身の顔に覆い隠すように持ってくる。

 次に出てきた顔は、同じ笑みが張り付いたままの、異能者の顔。

 パイロキネシス使い、緋村零次。


「ただの変装だよ。機関お得意のおもちゃを使っただけだ」

「俺は、そんなおもちゃに殺されるのかァ!!」


 刺さったままの右腕を引き抜き、潰す勢いで緋村に振り下ろす。

 轟音と共に地面を割ったのみで、彼は軽く身をひるがえして無傷だった。


「その通り。あんたは元々、‘百爪’の危険人物として抹消許可が出ていた。遅かれ早かれだったぜ、たぶんな」

「ふざ……け……るな……」


 そんな理由で、俺の人生を奪うのか。

 口に出しかけて、自分も同じことをしてきたのだと、走馬灯のように巡る記憶を眺めて思う。

 自分はこの社会の異端者だから、悪者だから、この窃盗や強姦や殺人、悪逆非道の数々は正しいのだと、理由を付けていた。


「おまえ……も……おな、じ、なのか……」


 お前がこの非道を決行できる理由はなんだ。

 正義の味方だからか。

 異能管理機関アーク。

 お前たちに管理される謂れなど、どこにも――。

 もう一度殴りかかろうとして、エムは自分の右腕が失われていることに気づく。

 鋼鉄のように硬度を誇ったあの腕が、もう炭になって、ボロボロに砕けてしまっている。

 最期に映ったのは制服姿の男の顔。

 自分を燃やす炎の揺らめきの中。意識が途切れる一瞬前に見えたそこには、イラつくあの不敵な笑みは、どこにも浮かんでいなかった気がした。



*****



「あんたらの誰もが、現実を見ていなかったって話なんだよ」


 身動きの取れないまま、その気怠そうな声だけが耳に届く。

 湊の首筋には、紅い光刃――機関の武器である灼刃Ⅱ型が密着し、肌をじりじりと焼いていた。

 一瞬でも動けば、声の主は迷わずこの刃を一閃するだろう。

 非情の仕事人。

 それが男の数ある異名の一つなのだから。


「なぜ、あなたがここにいるのです。報告ではあなたはまだ学校にいるはずで……」


 視界を動かし、湊の質問は止まる。

 男の衣服の腹の部分には大きな穴が空いていた。彼が奇抜なファッションセンスの持ち主でなければ、これはついさっき、湊が空けたもの。

 よくみれば服装も、さっき殺めた緋村と全く同じ。

 ただその顔だけが別人――赤城敦のものだった。

 異能、無限再生の持ち主。


「疑問ばかりが浮かびますね。私を倒すだけなら、わざわざ変装などという面倒なことをしなくても良さそうなものを」


 腹を食い破ったのが緋村ではなく赤城なら、彼が生きていることに納得がいく。どんな傷も、彼には意味が無いから。

 でもなぜ、彼は緋村の姿で現れたのだ。


「質問ばかりだな、めんどくせぇ。んー、なぜかって訊かれたらそりゃ、面白そうだからだろう。お前らがそうやって驚く顔を見るのが好きなんだよ。俺も、うちの監視者も」


 監視者。音無透夜。

 正当な魔法使いの血筋を引くあの青年が前線に出ることは滅多にないが、黒ノ翼を始めとする機関のメンバーを巧妙に使うその手腕は、闇社会でも認知されつつあった。

 驚く顔が見たかった。そんな理由では、決して無いだろう。


「ま、零次が相手だと思って油断したところを確実に倒せればと思ったんだが、あんた本気で殺しに来るんだもんな。おかげで十秒くらい気絶しちまってたよ」


 口角は上がっていたが、声にあまり抑揚はない。

 灼刃と肌の距離がゼロ以下になり、血が流れる。


「あんたとエムの雇い主。それと目的と居場所を言いな。俺は少なくとも零次よりは手加減ができる。少しだけ長くこの世界で息をさせてやれるからよ」


 どの道この殺意からは逃れられない。

 ならばここで、この男を仕留める他はない。


「くっ……!」


 湊は自身の身体を再び液状化させ、密着していた赤城の腕へと浸透させる。

 赤城敦を倒す方法は、彼の意識の在りかである脳を一撃で破壊すること。

 どんなに強大な力を持った異能者をも殺せそうなそんなやり方ですら、ただ‘倒す’だけにとどまり、殺すことはできない。彼に対しては、数十分ほど意識を失わせるくらいにしか役立たない。

 だが今は殺されずに体勢を立て直すことが優先だ。まだターゲットは無力な女子高生。

 彼女を消しさえすれば、目的は達成なのだから。

 水になった湊の一部が、腕を伝って、肩へ――目指すは耳、鼻、口、開きっぱなしの脳への入り口。


「俺、世界で一番嫌な死に方って、溺死だと思うんだよな」


 そんな呑気な声と言葉に、湊は凍り付く。


比喩ではなく、物理的に。


 


 鳴ったのはトリガーが引かれる音。

 赤城の右腕も含めて、彼に触れていた液状の身体が冷えて、蝕むように冷たい固形物と化していく。

 同時に噴出していたのは、真っ赤な血液。


 赤城が左手に握る灼刃が綺麗な弧を描いて、彼の右腕を根元から切断したためだと、凍えて、消え入る意識の中で判断できた。


零蝕ゼロ・ショック。……俺は世那みたいなネーミングセンスは無ぇが、たったいま名前が付いた新武器だ。弾丸に貫かれた対象は、三秒後に完全冷凍の後に絶命するんだとよ怖ぇなぁ……って、もう聞こえてないか」


 かすかに聞こえていたし、切断された右腕――液状化した自分の身体の中に入りこんでしまっている――に握られていた銃のようなものも、見えていた。

 機関は異能者を殺すための武器を開発し、抹消者が実行する。

 異能犯罪者を抹消し、この世界の秩序を保つために。

 こんな世界を維持して何になるというのか。

 分かり合いも対話の場もなかったこの世界で、自分たちは犯罪者になるしか道が無かっただけだというのに。


 ――殺されちまうから、機関にいるんだよ。


 冷たい結晶と化したくノ一の瞳に、もう光は無かった。

 それでも赤城は、その怨恨と諦観だけが残された彼女の表情に、そんな言葉を投げかけることでしか、応えることができない。

 何度も耳に、目にした、同じ異能者からの恨み節を、同じように返していく。


「理想に夢を見ちまったから、あんたらは負けるし、殺されちまうんだ」


 赤城が見るのは、時に異能犯罪者を殺め、機関のメンバーと戯言を交わし合う変わり映えの無い、波の無い日常。

 それがどんなに残酷だろうと、今の世界に適応して生きていく。

 赤城の肩口から噴出する鮮血が、降り注ぐ雨のように、氷の彫像を赤黒く染めていく。

 やがて切なくも、綺麗な音を立てて、異能者がまた一人、消滅した。

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