第三話:夢現

「お姉ちゃん、早く食べないと遅刻するよー!」


 玄関の方から聞こえてきた妹のアゲハの声に、ボーっとしていた思考が呼び戻される。テーブルの上には食パンとベーコンエッグ。目の前の席にはその朝食を牛乳で急いで詰め込むお父さんの姿があった。


「まさか俺まで寝坊するなんて……! ごめんクロハ。今日は二人を学校まで送ってやれないから、歩いて行ってくれるか?」


 申し訳なさそうに言って、お父さんは席から立って洗面台に行く。歯を磨いたらすぐに出発するんだろう。

 テレビで時間を確認すると、朝の七時三十分。いつもならもう荷物を持って出発する時間なのに、今日のわたしはどうやら寝坊してしまったらしく、まだ朝ご飯を食べている途中だ。

 今日は金曜日。この一日が終わったらお休みで、家族みんなでご飯を食べに行く約束をしていたんだっけ。


「クロハ、急がないと。食べられなければせめてヨーグルトくらいはお腹に入れておきなさい。倒れちゃうわよ」

「……うん、そうする」


 お母さんが皿洗いをしながらかけてくれた言葉に返事をして、わたしはのろのろと冷蔵庫に向かう。中にはアゲハのものだろうか、『勝手に食べないで!!』という張り紙がされたプリンがあって、その横に今日の朝ご飯代わりのヨーグルトがあった。


「もう夜の話で悪いけど、今日の晩御飯はどこに食べに行きたい?」

「うーん……」


 ヨーグルトのふたを開けて、スプーンを刺したまましばらく考える。もう出発の時間を五分は過ぎてしまっていて、たぶんアゲハが頬を膨らませながら待っている。


「ハンバーグ、かな。今日はみんなでハンバーグを食べに行こうよ」


 誕生日。妹が同じ高校に入学した時。お母さんとお父さんの結婚記念日。

 お祝い事がある日は、いつもハンバーグを食べに行っていた記憶があって、それはどれも素敵な思い出で。

 特に理由は無いけれど、今日はハンバーグを食べに行きたい気分だった。

 藤村クロハ。

 自分でもちょっとオシャレ過ぎかなと思う名前ではある。

 そんなわたしの住む春谷町という町は、どちらかというと山に近い田舎。家は所謂閑静な住宅街というやつで、朝の登校の時間でもとても静かだ。

 季節は春の中頃。

 天気は晴天で、鶯の鳴き声と遠くから聞こえる車の走行音以外には何も聞こえない。

 わたしはバス停までのこの道を歩くのが好きだ。

 今年からは隣にいるアゲハと一緒に登校できるということもあって、ただ歩いているだけでも足取りは軽くなって、時間がゆったりと流れているような感覚になる。


「お姉ちゃん、新学期もまだ一ヶ月も経ってないのに遅刻なんて私、嫌だからね! ほら、そんなのんびりしてないで走ろうよ!」

「大丈夫だよアゲハ。この時間帯なら歩いても次のバスがあるし、学校にも普通に間に合うんだから」

「え~、でも何かあったら間に合わないじゃん!」

「ふふ、心配性だなぁアゲハは」


 前を速足で歩く妹が何だか初々しくて笑ってしまう。わたしと同じ高校に入りたいと言ってくれた時、アゲハの成績は良いとは言えなかった。でもこの子は頑張って勉強して、合格した。わたしやお母さんも度々勉強を教えていたから、努力の結果だったというのは知っているし、それが本当なんだというのは、登校というこういう何気ないシーンで実感できて嬉しくなる。

 わたしたちがバス停に着いた時に、ちょうどバスが扉を開いたところだった。時間的には余裕かなと思っていたけれど、けっこうギリギリだったみたい。アゲハには、次はもうちょっと早く出ようと文句を言われてしまった。


「もう友だちはできた?」


 バスがエンジン音を鳴らして走り出す。窓は緑色の山と、ぽつぽつと建つ家々を映し出すスクリーンに早変わりする。


「できたよー、私なら友だち百人はヨユーだって! 明日はご飯を食べに行って、そのままカラオケに行こうって話になってるんだー」


 アゲハは年子の妹だけど、わたしとは正反対に活発で社交的だ。あまり心配はしていなかったが、その言葉を聞けて一層安心できる。

 日が高く昇り始めて、車内を暖かい日だまりが満たす。この時間帯の日が昇る速度は速くて、薄暗い朝はすぐに明るくなる。アゲハはそんなふうに、周りにいる人も明るくしてしまうような子だった。

 窓の景色は変わって、お店や住宅が並ぶ道に入って、学校までたどり着いた。


「さて、今日も一日頑張ろう! それでみんなでハンバーグを食べに行こう」


 これから始まる一日も、たぶん平穏だ。

 いつも通りの日常。

 変わらない、私の平穏な一日。



*****



「この前話してた映画、観た?」

「観た観た! あの漫画が原作のやつでしょ? そういえばクロハと一緒に観に行ったんだよね」

「うん。漫画とは結末が違ったけど、あれはあれですごく楽しめたかな、わたしも」

「なんで私を誘わなかったのよー!」

「だってあんたその日、彼氏とデートだったんでしょ!」


 お弁当の時間。

 わたしはいつも仲良くしているクラスメイトと同じテーブルに座って、先週観た映画の話で盛り上がっていた。

 こうやって好きなものを共有できる友だちを、わたしはあまり多く持っていないけれど、それでもこんな風に話ができる相手がいるというのは幸せなことだと思う。

 学校の勉強は、わたしにはけっこう難しくて付いていくのが精いっぱい。でも一緒に頑張れる友だちがいるから、わたしも勇気をもらって頑張ることができる。


「あー、次の時間は数学か~」

「白城先生、眠くなっちゃうんだよね」

「ほんとほんと! あの人自体も眠そうな顔してるしね!」


 冗談にひとしきりに笑い合って、わたしたちはお弁当を片付け始める。

 次の数学は二次方程式だっけ。白城先生は確かに、こう、聞き心地の良い声をしているから、せめて眠らないようにノートを取らなくちゃ。


 午後の授業が終わって、わたしはそのまま部室に顔を出す。

 所属しているのは美術部。と言っても、メンバー皆で何か作品を出して賞を取ろうだとか、そういうことはしていない。全員で十五人くらいの、けっこう緩めの部活で、メンバーの出入りも自由。毎日足繫く通っているのはわたしと、顧問の神木先生くらいかもしれない。


「こんにちは、藤村さん」

「こんにちは先生!」


 案の定、挨拶をした先生以外に人はいなかった。みんな金曜日は早く帰って遊びたいのかもしれない。わたしも今日は時間があるわけではないけれど、一時間くらいは絵を描く時間に充てたいと思って顔を出したのだ。

 一人本を読んでいた神木先生はまだ二十代前半の若い先生なのだけど、その綺麗な黒髪と雰囲気は、ベテランの大人の女性のような雰囲気があってカッコいい。いつかわたしもあんな風な女の人になれたらなと密かに憧れている。


「今日は晴れているから、綺麗な夕暮れの絵が描けそうね」


 静かだけど、澄んだ先生の声に、わたしは窓の外を見る。カラスがのんびりと間延びした鳴き声を発しながら横切った夕焼けは、綺麗なオレンジ色をしていた。

 その日に何を描くのかは、特に決まっていない。景色を描くこともあるし、漫画のキャラクターを描くこともある。あまりないけれど、友だちにモデルになってもらって人物絵を描いたことも。満足するまで描いて、先生とお話をして帰る。

 わたしはけっこう、この場所を気に入っている。


「一時間くらいしかいられないので、下書きだけで終わっちゃうかもしれませんけど……」

「どこかへ出かけるの?」

「はい、家族でご飯を食べに行くんです」


 わたしが答えると、先生は口元を上げて微笑む。安心したような、でも切なそうな、不思議な笑みだった。


「そう、良かったわ。あなたはこの現実で、幸せを感じられているのね」

「……? はい。幸せ……なのかもしれないですね」


 幸せかそうでないかと問われたら、幸せだと思う。待ってくれる家族がいて、一緒に頑張れる友だちがいる。没頭できることがあって、憧れる大人の人がいて、お話ができる。

 これが幸せでないとしたら、いったい何なのだろう。


「それなら、私も嬉しい。……キャンバスはいつものところにあるから、好きに使ってね」

「はい、ありがとうございます」


 唐突な質問で上手く答えられたか分からないけれど、わたしの幸せを喜んでくれていることは嬉しかったからお礼だけは伝えた。

 わたしは教室の隅にある戸棚からキャンバスを取って、作業台に載せる。パソコンとペンタブの設備があるみたいだけど、わたしはアナログで描くのが好きだ。絵具の色むらも、描いている時に手に伝わる紙の質感も、デジタルでは味わえないものだから。

 まずは鉛筆で下書き。


「……」


 紙と鉛筆が触れ合う音と、たまに先生が本をめくる音だけが、教室に静かに染み渡る。

 それにしても綺麗な夕焼けだ。下書きだけで終わってしまうのが勿体ない。できればこの色を再現したいから、携帯で写真を撮っておこうか。

 そう思って、カメラのアプリを起動して、夕焼けを画面に収める。


「うーん、なんか、違うかな……」


 カメラで見る夕焼けと肉眼で見るそれは、やっぱり違う。色合いも立体感も、心に迫る感動も何もかも、デジタルとアナログじゃ違う気がする。気がするだけで何が違うのかは具体的に説明できないけれど、なおさらこの一日で描き切れないのが惜しくなる。

 せめて色を再現しておこうと、わたしは三色の絵の具を手に取る。

 シアン、マゼンタ、イエロー。

 基本的にこの三色があれば、ほぼすべての色を再現することができる。最初にこの話を聞いたのは、すぐそばにいる神木先生からだっけ。

 三つの色は、全ての可能性に通じている。組み合わさることですべての色を再現し、入り混じって最終的には漆黒色に染まる。

 でも現実の色――正確に言うと光は、完全に再現することなんかできない。絵の具で再現できない色は、わたしたちが細かく識別していないだけでごまんとある。

 現実の世界には、名前の無い色がたくさんある。

 名前で括った色がすべてで、正しいなんてことはあり得ない。

 だから正確にできなくても、今この一瞬の夕焼けの色は作ってみたい。

 わたしはなるべく急いで、絵の具をパレットに注ぎ足していく。水の量にも注意しなくちゃ、この三色での色の再現はかなり難しい。こうしているうちにも時間が経って、夕焼けは色を段々と変えていく。

 今日、この日にわたしが見た夕焼け色。

 結局この作業に没頭してしまって、下書きも大枠を描き終えたところで時間が着てしまった。

 その間、先生は何も言わずに見守っていてくれたのだった。


*****


「なんだか、つい一か月前もここでハンバーグを食べなかったか?」


 お店の扉を開いて、お父さんはわたしたちに振り向いて笑いながら言う。確かに、一か月前はアゲハの入学祝いで、同じお店にハンバーグを食べに行ったのだった。


「どこに行くか考えなくて楽じゃない。このお店、美味しいし」


 お母さんの言葉に、わたしはお父さんと一緒に頷く。

 お店は若干混んでいたけど、席は空いていた。

 ただ週末というだけで、特別な記念日というわけではないけれど、このお店に来るとなんだか心が弾む。


「ま、俺も不満は無いから良いんだけどな。さて、みんな何食べたい?」


 今日は空いているようで、すぐに席に着けた。メニューを開いて、見慣れたページに止まる。ここのチーズハンバーグはお気に入りで、いつも迷わずこれを頼むことにしている。


「アゲハは何にする?」

「え、あー……うん。デミグラスハンバーグにしようかな……?」


 メニューを眺めるアゲハに、お母さんが声をかける。

 なぜか疑問形で答えたアゲハに、わたしは違和感を覚える。お母さんの声に、まるで電源を入れられた機械のような反応もそうなのだけど。

 いつもはわたしと同じチーズハンバーグを頼むアゲハが、違うものを頼んだ。

 ただそれだけのことなのに、何かが胸の奥で引っかかったような感覚がした。

 ハンバーグは美味しかった。お母さんとお父さんとアゲハと、他愛のない話をして笑ったから、何でもない今日という日がとても楽しい日になった。


 先生の言う通り、わたしは幸せだ。

 でも、どうしてだろう。

 わたしの中に、何か自分がとんでもなく間違ったことをしているんじゃないかという気持ちが渦を巻いている。

 わたしは。

 わたしは、こんなに幸せで良いのだろうか。



*****



 冬の夜は冷たくて張りつめているけれど、春の夜はただただみんなが眠っているだけの静かな時間。朝には気持ちよく鳴いていた鶯も、どこかで丸くなっているのだろう。

 もちろん家族も寝静まっていて、家の中も音一つない。

 トイレに起きたわたしは、なるべく音を立てないように自分の部屋から廊下に出る。ドリンクバーだからと言って、少し飲み過ぎてしまったかもしれない。

 時間は深夜二時。

 お店から帰ってすぐ寝てしまったから、変な時間に起きてしまったみたい。


「……ん? アゲハ、起きてるのかな」


 階段を降りようとしたわたしは、視界に光を感じて振り返る。

 わたしの隣の、アゲハの部屋。その扉の隙間から、微かに光が漏れているように見えた。

 光と言っても、部屋の電気が点いているというほど明るくはない。ヘッドフォンか何かでテレビを観ているか、パソコンでも点けているのだろうか。

 いくら明日がお休みと言っても、この時間まで起きているのは健康にもお肌にも良くない。ここは姉として注意しなくちゃ。


「アゲハ、起きてる? そろそろ寝た方が良いよ」


 声を潜めて言うけれど、返事は返ってこない。寝落ちというやつだろうか。ならせめて電気だけでも消そうとわたしはドアノブを回して、扉を押す。


「アゲハ……?」


 そこにいたのは、椅子に座った妹。

 ただしその頭には、見慣れない黒い機械が填まっていた。

 いや、見慣れていないはずはない。

 それは今の時代、どの家庭も、どの個人も一台は持っている機器。

 この‘社会’の常識となっているモノ。

 が、決して受け入れられなかった世界。


「ミラー……」


 Mirror。

 アゲハが黒い機械――VDGを通して見ている仮想現実。


「仮想なんかじゃないよ」


 いつの間にか、アゲハが首だけをこっちに向けていた。

 パジャマ姿にそのままメカニカルなゴーグルを乗せた姿は、どこかのホラー映画に出てきそうで不気味だった。


「仮想なんかじゃ、ない。この中の世界はね。私にとって本物なんだよ。ここが、ここだけが、私の本当の世界……」


 アゲハの表情は見えない。

 でも、震えた声と上がった口角からは、アゲハの恍惚とした表情が薄く見える気がした。

 本物。

 本当の世界。

 その言葉は、わたしが。わたしじゃない‘私’が、心から強く求めたモノじゃなかったっけ。

 アゲハにはわたしが見えているのだろうか。

 彼女が見るバーチャル空間の中には、わたしの存在はあるのだろうか。

 家族は。最近仲良くなったという友だちは。

 寄りかかろうとした何かが、徐々に、でも確かに消えていく感覚。

 寂しい。悲しい。嫌だ、置いて行かないで。

 それでも。

 それでも、こうなったことをどこかで安心しているわたしがいる。

 そんなわたしを、どこかで見つめる‘私’もまた、確かに存在していた。



*****



 その日から、確かにわたしの世界は色を変えてしまった。

 あれほどまでにはっきり輪郭を持っていたのに、今はぼやけていて、判然としない。

 みんな、現実の世界を生きているようで、生きていないのだ。

 意識はいつも他の場所にある。現実から抜けて、仮想の電子の世界へ行きたがっている。みんなの顔がそんなふうに見えて、みんなの声がそんなふうに聞こえるのだ。


「……おはよう」

「おはよう、お姉ちゃん」


 アゲハは普通に挨拶したのかもしれない。それとも、今日は特別にテンションが低いだけかもしれない。

 一見いつも通りなアゲハの顔と声に、わたしは言い様の無い影のようなものを感じた。

 影ではなく壁かもしれないし、仮面かもしれない。

 とにかく今まで何の疑いも持たなかったすべてが、嘘に、演技に見える。

 お母さんの気遣いも、お父さんの優しさも。


「行ってきます」


 わたしはそう言って足早に家を出る。楽しかったアゲハとの登校も、今日は無言だ。バスに乗ってからも、ただ窓を通して移り変わる景色を凝視していただけだった。

 月曜日の朝。

 一週間と一日の始まり。

 でもそれが終わればみんな、VDGを覗いて電子の世界へ旅立ってしまうのだ。

 Mirrorはそういう場所だ。情報と思惑でパンクした世界から逃げるために現代人が生み出した電子的な楽園。

 あの場所を本当の世界と感じるのは、たぶんアゲハだけじゃない。

 そのことをわたしは知っていたのに、なぜ今まで忘れていたのだろう。

 わたしは今まで、Mirrorに触れて、その世界を覗いたことはなかったのだろうか。

 この世界でわたしは、異端なんじゃないのだろうか。


「……」


 午前の授業が終わり、友だちとの会話を上の空でやり過ごす。

 その映画の話、先週もしたよね?

 午後の授業も真剣にやったつもりだけど、正直あまり頭に入っていない。

 白城先生が鋭い目でわたしを見ていたような気がして少し怖かった。


「……藤村さん?」


 すべて演技なんだと思っていたから尚更、神木先生の静かで、でも本気で気にかけてくれているようなその声に驚いた。

 授業が全部終わってから飛び込んだ美術部室。相変わらずわたしと先生しかいなかった。作業台にはわたしが先週描きかけた夕焼けの絵がぽつりとおいてあって、やっぱりその後も誰も来ていないことが分かった。


「ずいぶん疲れた顔しているけれど……。何かあったの?」

「先生……」


 絞り出した声は泣きそうだった。

 その声の安心感か、先生の頭に黒い機械が乗っていなかったからか。


「先生は、本物ですか……? この世界に、いますか?」


 でもその安心もつかの間、訊かずにはいられなかった。

 自分でも訳の分からない質問だ。先生も同じようで、怪訝な顔をしてわたしの顔をのぞき込む。


「何があったのかは分からないけれど……今日もここは誰も来ないから。落ち着くまでここに居ても良いわよ」


 その言葉に身体の力が抜けて、わたしは椅子にぼすんと音を立てて座った。今は本物とか偽物とかどうでも良い。

 ただその言葉に寄り添っていたかった。


「藤村さんは、Mirrorを覗いたことはないの?」

「あったのかもしれないけれど、覚えていないんです。小学校の低学年の頃にはあったものなのに、付けた記憶が無いんです……なんで、なんだろう」


 わたしは先生に、この三日間ほど心と視界を埋め尽くした、どうしようもない感覚を吐き出した。

 先生は静かに聞いてくれたけど、わたしの記憶の空白は埋まらない。


 ――ここが、ここだけが、私の本当の世界……。


 アゲハの言葉。

 何を言っていたのだろう。

 世界なんて、今生きている‘ここ’にしかないというのに。

 でも今のわたしには‘ここ’でさえもあやふやな場所になりつつある。

 何か、この世界が本物であることの証拠が欲しい。切実に。


「……先生、この部屋でMirrorを見られる機材ってありますか?」


 思いついたのは、比較。

 一度、作られた‘偽物’を見ることで何か変わるかも。

 本物を証明するには、‘ありえないもの’を見てこの現実が確かなものだと思うしかないんじゃないか。


「……VDGもタブレットも、あるにはあるわ。授業で使うこともあるから。だけど、藤村さん……」


 先生は言い淀む。

 なんでそこで止まってしまうの。わたしは早くこの言い知れない浮遊感から抜け出したくて、息が荒くなるのを感じる。


「でも、Mirrorを使う前に、あなたに考えてもらわなくちゃいけないことがあるわ、藤村さん。いえ、クロハ」


 先生の声のトーンが、少しだけ下がった。わたしを名前で呼んだその声が、なぜだかとても懐かしい。


「あなたはMirrorに何を求めるの? 正しさ? それとも……幸せ?」


 先生の問いかけを、わたしはよく理解することができない。

 わたしの苦しみは、この浮遊感。拠り所を失くしてしまって、何を基準にしたら良いか分からない捉えどころのない膨大な不安。

 だったら、答えは決まっているじゃないか。


 ――わたしが求めるのは。


 VDGを着けたわたしは、その中に広がる電子の世界を見渡す。

 何でもできる世界。

 何をしても、誰にも咎められることのない世界。

 誰も、自分を偽らなくて良い世界。


 ――あぁ、


*****


 ――こんな平穏な世界がこの子の悪夢だなんて、本当にかわいそうに。


 目の前のご馳走を前に、夢魔は一欠けらの憐憫を感じる。

 ここまではそうそう無い。

 けれど、そのうえでここまでもめったに見たことがなかった。

 人の夢に干渉し、それを‘喰らう’ことで活力とする異能。

 それは‘夢魔’や‘ナイトメア’と呼ばれ、まだ魔術が盛んだった時代は人ならざるものとして認識されていた。

 しかし実際のところその多くは異能の一つ。アステルを介して、人の手で編み出された魔法や呪術と呼ばれる術の一つ。

 そして少女の夢を覗く男も‘夢魔’と呼ばれる異能者の一人。

 彼の好物は悪夢だ。宿主が絶望の淵に立たされるようなとっておきの悪夢を喰らうために、異能犯罪者組織である‘オルロック家’に身を置いている。

 今回は長く‘オルロック家’にいた夢魔でさえも、驚くことばかりだ。自分の名を指名されて請け負ったこの仕事の内容もさることながら、‘獲物’の夢の内容があまりにも予想とかけ離れている。

 家族との何気ない会話。

 学校の友人とのやりとり。

 部室で一人、もくもくとキャンパスに向かっている時の精神。

 どれもこれも、表面だけを見れば‘良い夢’のはずなのに。

 味、は、今まで喰らったどんな夢よりも悪夢的で、甘美な味がしたのだ。


 ――かわいそうに。本当にかわいそうに。


 夢魔は哀れみながら嗤う。

 少しつまみ食いをしただけで痺れるほどの味なのだ。

 もう少し、もう少しだけこの夢を熟成させよう。

 そうして肥大した果実に、一思いに噛り付く快感はきっと計り知れない。

 喰らい尽せば彼女は死んで。

 快感と目的を同時に達成することができるのだ。

 だから、まだ、それまでは。


*****


 目を覚ました時に、わたしはつい今まで体験していたこと夢であったことを理解した。

 朝起きて、学校に行って、友だちと話して、勉強して、部室に籠って、家族と夜ご飯を食べる。


 そんな平穏な時間の、夢だった。


 神木先生に頼んで、Mirrorを覗かせてもらったその日の夜の夢。

 ただただ平凡だったはずなのに、起き上がったわたしの身体は汗でびっしょり濡れていた。

 冷や汗。怖くて、苦しいことに遭遇した時にかく汗のせいで、身体が芯まで冷え切ってしまっている気がする。

 現実が不安定だという感覚は、Mirrorを覗いた後も特に治ることもなく、むしろ確信に変わりつつあった。

 わたしが今生きているこの世界は、歩いている道路は、通っている学校は、喋っている友だちは、実は偽物なんじゃないか。


 かと言って、やっぱりMirrorだって偽物だ。なんでもできる、偽らなくて良い世界は、確かに最初は魅力的に見えた。ここを居場所にできたら、どんなに良いだろう。最初の三日間くらいは、わたしも周りのみんなと同じように呆然と現実を生きて、Mirrorに縋るような生活を続けていたのだと思う。

 けれど作り物の世界であることに変わりはないのだと、何の前触れもなく目が覚めてしまった。

 現実もMirrorも作り物。眠るときに見る夢は、悪夢的な後味を残すいつかの平穏な時間。

 そんな日が一週間続いて、わたしの中には暗い感情が積もり積もって、さらに現実の世界への視点をぼやけさせていったようだった。

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