第8話:Room8

 Room8。精神を痛めたもう一つの理由には就職後の生き辛さがあった。学生時代に力を入れたことと言えばマルクスとフロイトの読破しか挙がらないあたしのか細い琴線に触れたのは出版業界で、十三社落とされた末に耳馴染みの薄い医学系の出版社に入社した。営業も開発も能力不足な虫けらは地味な校閲作業に昼夜を追われ、面白さの欠片も無い専門書のボキャブラリーに顔を埋める日々を送った。始めは可愛がってくれた上司も鱗の剝がれ続ける審美眼を見切って以来態度を悪くし、無能のレッテルを貼り付けた社員証で通勤するようになった。威勢良く踏み出した一歩は転落の始まり、足並み揃えた努力や研鑽は気持ちの悪いロマンだと眺めるだけ。「あなたの人生も色々あったのね。道理で動きが物悲しい」訊かれたので厭々自分語りをすると徐に袖が捲られ、医者が眼を狭めたその裏側を撫でるように彼女は呟く。「如月はあたしの声、聴こえる?」一転して生物学的観点から質問を送れば「空気の振動は伝わるし『声』という語彙は検索出来るけど、その実態がイマイチ理解出来ない」と返され、Bifidobacteriumの綴りは分かれど腸内細菌学への知見は何も無いあたしと同じようなものだと思った。それは冗談として、彼女の話し振りが分からないのは瞼に収まる二つが原因か、他の数多とある眼球も同様なのか、あるいは無意識的に映像表現を捨象した生き方に希望を見出したのか。まだサンプルが少ないのではっきりとした事実は掴めない。「それでも弥生のことが気になる」前々回の通訳を経てから彼女は隣の部屋に対する羨望を露わとした。壁際に凭れる彼女がどのような表情を浮かべるのか、あたしには分からなかった。

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