第5話:Room5

 Room5。変わり始めた景色の中には一人の女性が立っていた。その顔には何処か見覚えがあるがゆらゆらと揺れるだけで再会の喜びは伺えず、如月とやらが可視化した訳ではなさそうだ。あたしに気付くと語彙や複雑性に欠ける身振り手振りを繰り出し、こんな時の為にお互い手話を学ぶべきだったという後悔は先に立たずコミュニケーションが難航する。口話的な挨拶は辛うじて共有出来たが、暫く観察した所によればこの子は声を出すことも聴き取ることも出来ないらしい。勿論彼女の声域とあたしの可聴域の周波数が合わないだけかもしれないが第三者評価が無いので検証は難しい……と思ったがいや、視えないだけで他にも居るかもしれないと前回の件を反省したが、如月を含めて手に取れる他者は存在しなかった。空間の冷たさは中学生のラベリングを貼られてからも同様で、ウェディングドレスより白い鞏膜と結婚式のスピーチに混入する下らない洒落に対する視線より鋭い苦笑が制服の襟を刺した。この頃のあたしはまさか配偶者控除の当事者になるとは夢にも思わず、大学からは土着の宗教を棄て東京に移り住み、ただ孤独に自然豊かな学舎を歩いていたいと思った。回想の時間を利用してアイデアを浮かべた彼女は指を突き出し、「皐」と「さつき」の二語を鏡文字で器用に描いた。続いて表出する「アタシの名前」の字形から彼女の名前はさつきと言うらしく、文字通り文字の文明力に畏れ入るあたしに差し出した握手は飄々と通過する。皐は視えるが聴こえず触れない、そんな認知的断絶の前に会話は途絶え「じゃあ失礼します」また会えるだろうと振った手で問題を棚上げにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る