赤道の雪

尾津杏奈

赤道の雪

「ニュー・スタンレイのアカシアが好き」とあの人が言った。


 カフェのあるテラスの真ん中から、赤道の空へと伸びる巨大なアカシア。そのアカシアを囲む形で伝言板があって、あらゆる国のあらゆる言葉の伝言が、訪れないかも知れない人を待っている。


 ケニア、ナイロビ。

 一年前、初めてあの人と出会った街。


 ケニアは私が結婚をドタキャンされて、自暴自棄になって飛び込んだ国だった。アフリカなんて世界の果てだと思っていたから。

 灼熱の太陽。どこまでも広がるサバンナ。布を羽織っただけの人々。黒い肌。走り抜けるシマウマの群れ。

 けれど、一歩踏み出したナイロビは、思いの外寒かった。Tシャツではつらすぎると思えるほどに。


「わかっていても来るたびに風邪をひくのよ」そう言って笑ったのもあの人だっけ。


 スーツのサラリーマン。タイトスカートのOL。高層ビル。走る日本車。渋滞のロータリー。西洋人のツアー客がサファリスーツを着込んでホテルの周囲を闊歩する。街には何も変わらない日常があるだけだった。


「ぼんやりしていちゃだめよ」

 突然肩を叩かれて振り向いたそこに、立っていたのがあの人だった。

 架悠かゆ

 たおやかな黒髪。細い手足。背の高い、真珠のように美しい人。だのに、人懐っこい笑顔で私の心を解かしてくれた人。

 だからあのときの涙は、私の胸に積もった雪だったのかもしれない。


 架悠は無言で、私をニュー・スタンレイ・ホテルのカフェテラスに連れて行ってくれた。そしてアカシアの話をしてくれたのだ。

「安宿に泊まるほうが多いのだけれど、今はメイフェアに泊まっているの。市街地からは少し離れているけれど、たっぷりの庭がある、ヨーロッパ式のすてきなホテルよ」

 何も知らない土地で、私は架悠だけが頼りだった。同じ日本人というだけの架悠。でも、架悠と一緒ならば、何があっても大丈夫のように思えたのだ。

 私は薦められるままに架悠とホテルをシェアすることにした。

 

「ヘミングウェイを読んだことある?」

 その日のよるだった。ベッドの上で洗い髪をいじりながら架悠が私に聞いたのは。

「いいえ」と答えた私に向かって、架悠はひとり言のように話し始めた。

「わたしね、キリマンジャロのヌガイエ・ヌガイには、本当に豹の屍が横たわっていると思っていたの。白い表現の上で凍り付いて、永遠に朽ちることのない豹。五千メートルの遙か高みに、なぜ豹がのぼっていったのか。それが知りたくて、わたしはここに来たのよ。一番はじめはね。祈沙きさと同じ。何も知らないまま。

 ……サファリのためアンボセリに行ったときにね、はじめて見たの。雲ひとつかかっていないキリマンジャロを。幾つもの小さな竜巻と、痩せたアカシアの向こうに広がる山裾。ゆるやかにゆるやかに、空から差し伸べられた腕のように。赤道の下で、白い冠をいただく……わたしが豹だったらよかったのに。

 痛みのように透き通ってゆく胸を知ったのはそのときだったわ。理由なんてどうでもよくなったの。だたそこにいきたかった」


 キリマンジャロとはスワヒリ語で『輝ける山』。ヌガイエ・ヌガイとは、マサイの言葉で『神の家』だと教えてくれたのも架悠だった。


 架悠の白い腕を見ながら、私はずっと見たことのないキリマンジャロの氷河のことを考えていた。

 赤道の空から、白い雪が降りてくる。天上の山の痛みとなるために。氷河は山の体を削りながら、やがては熱に溶けるのだ。

 

「わたしはいきたかったの」

 

 太陽はいつも同じ時間に昇る。

 架悠は、空がすっかり明るくなると、私を連れて街へ出てくれた。私たちはテキストブックセンターに入り浸っていた。そこで私は、簡単なスワヒリ語と、人懐っこい笑顔を覚えたのだ。


「東アフリカに来たのなら、海岸に行かなきゃ。ね、知ってる? バスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってたどり着いたときには、西洋からスワヒリにもたらすものはなにもなかったって。その頃のスワヒリの交易範囲は、とっくに東洋にまで及んでいたのですもの」

 真っ直ぐな目で、架悠は東を見つめていた。不自然にもみ消されてしまった植民地時代以前の記憶を拾い集めるように。

 私は海岸行きを決めた。架悠も一緒だと思っていた。当然のように「出発は明後日でいいよね」と言うと、架悠は複雑な顔で笑った。

「わたしはタンザニアに行くのよ。来週ケニアを出るの」

 キリマンジャロはタンザニアにある。ケニアではなく。

 

「ナイロビに戻ってきたら、ニュー・スタンレイに寄ってね」

 

 それが架悠から聞いた最後の言葉だった。 私はニュー・スタンレイ・ホテルに行かれなかったのだ。


 海岸地方の都市、モンバサに着いて一ヶ月も経ってから、私は日本に初めて連絡を入れた。受話器の向こうでは、母が冷たく私の元婚約者の危篤を告げた。泣くでもなく、怒るでもなく、淡々と彼の病状を紡いでいった。

 声を上げて泣いたのは何年ぶりだったろう。私はモンバサの目抜き通りにいることさえ忘れていた。

 彼が自分の病気を知ったのは、私と婚約した後だったのだそうだ。


 私は泣き顔のまま、近くのツーリストオフィスに飛び込んだ。その二時間後には、団体客のチャーター便に同乗し、ナイロビの空港に移動した。そしてその日の内に日本の便に飛び乗ったのだ。


 彼が逝った日、雪はいつまでも降り続け、今世紀最大の積雪量を記録した。雪は彼の表情のように美しく、世界を白く抱きしめた。


 冬には日本に戻ると架悠は言っていた。けれど帰っているはずの実家に連絡をしても、一向にその行方はつかめなかった。秋頃から連絡が途絶えているのだと、架悠の家族は力なく言った。

 そんな頃だった。

 母が二度目のアフリカ行きを薦めてくれたのは。きっといい気晴らしになるからと、気兼ねする私の背を押してくれた。


 だから今、私はここにいる。

 ニュー・スタンレイのアカシアの下に。


 昨日のことだった。キリマンジャロのふもとのモシという町に住んでいるという日本人から、こんな話を聞いたのは。

 白人三名のグループがキリマンジャロ登山ツアーに参加していた。彼らが頂上近くのギルマンズ・ピークと呼ばれる場所で日の出を迎えようとしていたときのことだったそうだ。

 まだ太陽の昇る時間でもないのに突然空が明るくなり、雪が降り始めた。そしてどこから現れたのか、白いスリップドレスを着た背の高い黒髪の少女が、裸足で氷原に向かって駆け抜けていくのを見た。ツアーを終え、ふもとに戻った彼らを待っていたのは、彼らの中の誰かの荷物としか考えられなかったが、誰の物でもないひとり分の荷物だったという。


 そして私は夢を見た。


 真白く空は透き通っていた。まぶしいくらいの光を感じるのに、星さえも見渡せるくらいに。空を見上げる目の中に、細かく冷たい痛みが降り続いていた。目の中でそれは溶け、頬を伝って土へと落ちた。

 髪の上に、手のひらの上に、音もなく落ちては溶けてゆく。星と見えたのは、その小さな輝きだったのかもしれない。

 瞬きをした私の体をかすめるように、架悠の顔をした少女が、たおやかな黒髪をなびかせてすり抜けていった。唇は、微笑みの形に歪んでいる。肌と同じくらいに白く透き通るスリップドレスをたなびかせ、はだしの足で踊るように駆け抜けていった。

 白い氷原の上を。

 むき出しの牙のような氷原に向かって。

 少女の体は白へと溶けて、黒髪と、桃色の爪だけがいつまでもゆれていた。いつまでも、いつまでも、いつまでも……


「このアカシアが好きなの」

 ニュー・スタンレイのカフェテラスに来るたびに、架悠はこう言って笑っていた。架悠が今まで別れてきた(と、架悠は言った)国や人のことなんかを、とりとめもなく話しながら。

 そんな架悠を見ていると、胸のなかの波が凪ぎへと変わる。気付かないうちに。


 アカシアの下にある伝言板には、あらゆる国のあらゆる言葉の伝言が、訪れないかもしれない人を待っている。

 私はひとつひとつ確かめるように、メッセージの書かれた紙を見ていった。書きなぐられた名前。愛おしむような文字。恋人から恋人へ。友人から友人へ。親から子へ。未だ生まれぬ、やがて来る誰かへ向けて。すでに過去になってしまった者の、」伝えられなかった言葉。風にさらされ、雨に濡れ、その文字がにじみ消えようとも待ち続けている。

 ただ、ひとりを。

 約束通り、架悠のメッセージもそこにあった。黄色く変色し、名前もにじんで消えたメッセージ。

『祈沙』

 明るい文字でしるされた私の名前。

「祈沙、祈沙」

 呼んでくれたのは……

「祈沙」

 文字にそっと触れてみた。

 近くのテーブルに座り、ウエイターにチャイを一杯注文した。


 架悠のメッセージはまだ伝言板にある。


 私は鞄から手紙を取り出して、架悠のメッセージの下にそっと貼った。


 几帳面な字。

 ふと思ったとき、馴染みのウエイターが私に気付いて手を振った。「やあ、おかえり、おかえり」なんてスワヒリ語で言いながら、私の肩を大げさに叩いた。ウェイターは軽く当たりを見回すと

「今日はきみの友達はどうしたんだい?」

 と、明るく私に聞いた。赤道の太陽にも似た笑顔で。


 ここでは雪は降らない。


   おわり

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