第1章 魂を喰らう世界をゆく

第2話 闇の向こう側にいる君

 ――ガラガラガラガラ。


 規則正しい車輪の回転音と一定のリズムを繰り返す振動が体を揺する。単調な刺激が続くとどうしても眠気がこみ上げてくるものだ。


 馬車の旅は、あまり好きにはなれない。


 この世界では動画視聴もできないし、携帯音楽プレイヤーも存在しない。唯一あるのは潰しきれない時間だけといった有様だからだ。


 油断もできない。


 治安のよかった日本とは違い、気を抜くとスリが簡単に懐の中身をかすめとっていく。


 何度か痛い目を見たユージンはあくびをかみ殺しながら、どうにかして眠気を遠ざけようと苦心していた。


 気を紛らわせるために外の景色に目をやる。


 周囲には見渡す限りの草原。


 空は目に痛いほどの青空と、所々に塊となった雲が浮かんでいる。どこまでものどかな景色が広がるだけで、余計に眠気をかき立てられてしまいそうだ。


 道にはアスファルトの舗装などなく、電線や電信柱といったものもない。


 こういう風景を見ていると、ここが現代日本ではないのだと改めて思い知らされる。


(やれやれ、これじゃあ逆効果か……)


 少しでも違う刺激を得られないかと、ユージンは左右に視線をやる。


 馬車は四頭引きの比較的大型のものだ。客車には充分なスペースがあるが、そこには今数人の見知らぬ他人が同乗している。


 元の世界でも19世紀頃のヨーロッパで見られた乗合馬車だ。客が乗る荷台は質素で、元は荷物を積むための場所に無理矢理長椅子を据えて申し訳程度に屋根をつけたといった具合である。


 座席も薄く布があててあるだけなので、長時間の旅で尻と腰はとっくに痛くなっていた。


 元は各地を回って商売をする隊商が、荷の空きスペースを使って人も運び出したのがはじまりらしい。


 お世辞にも豪華な旅とは言えないが、歩いて移動するよりずっと早いし、獣や野盗の危険も少なくなるとあって定番の移動手段となっていた。


 ただこの世界ではそもそも、長距離を移動する用向きがある人間自体まれではあるのだが……。


 特に変わった人間はいない。


 あまりジロジロ他人の顔を眺めて揉め事になると面倒なので適当なところで切り上げる。


 最終的に視線が落ち着いたのは、膝の上に置いていた自分の手の平だった。


 特に意味があっての行為ではない。


 強いて言えば――癖である。


 力仕事などには縁がなかったので、皮は厚くなっておらず、口が悪い者からは女の子の手のようだなどとからかわれることもあった。


 傷一つない手だが、一つだけ例外がある。


 左右の手の平の中心に、揃って刻まれている痣である。


 色は薄く、よく見なければそれと気づくことはないだろう。


 違和感はなく、異物感もない。


 だがそれは、この世界に来てから変わってしまった手だった。


 自分は何一つ変わらないというのに、あの当たり前の生活から決定的に変わってしまった象徴。


 そのことを再確認するように、自然と目がそこに行くのである。


 旅がどこまで続くのか、いつまで続くのか、なにもわからない不安を再確認する儀式でもあった。


「――お客さん方、そろそろですぜ」


 御者が御者台からこちらに注意を促した。その途端、乗合馬車に乗っている乗客の間に緊張感が高まっていく。


 ユージンは再び馬車の外へと視線を走らせた。顔を出し、進行方向を見ると、これまで見てきたのどかな草原には決して存在しなかったものが近づいてくるのが見えた。


 ひと言で表現するなら、黒い壁。


 数メートルはあるだろうそれが、垂直にそそり立っている。馬車はまっすぐにその壁に向かって進んでいた。


 近づいていくと、次に気づくのはそれが尋常な存在ではないということだ。


 遠くから見えたそれは、近くまで来ると向こう側が透けて見えているとわかる。色合いも普通ではない。


 黒いガラスを通したように黒っぽく見えるのでもない。


 単に暗くなっているのではなく、濁った虹色のように、あるいはスマホで写真をいじるときにネガポジ反転を選んだように、色という色が反転したような不気味な姿を見せていたのだ。


 目の前のそれは、一枚の薄い壁ではなく、かなりの広範囲でそれに埋め尽くされているのだ。ここからでは向こうの端を見通すことができなかった。馬車はある程度近づくと、その黒い領域を迂回しながら進んでいく。


 不意に、小さな鳥が黒い領域の中へと飛び込んでいった。


 一本の木が生えているから、そこに止まろうとしたのだろうか。


 しかし鳥は、目指した場所にたどり着く前にビクリと体を痙攣させてそのまま地面に落下する。


 そこは、色が違って見えるだけではなく、生物にとって有害で領域内で、小鳥ではなくたとえ人間であっても、生きていける生物はいないとされていた。


 一方で、植物には影響がないらしく、今もユージンの視線の先では周囲に吹く風を受けて生い茂る草原が波打っている。


 鳥が命を落とした様子を見ても、乗合馬車の中に驚きの声は出ない。


 ただ荷台はにわかに緊張感が満ち、御者も警戒しているようだったがそれだけだ。この現象の異常性、そして危険性は、ここの人々にとっては既知のものなのである。


(ここでもこれか……)


 ユージンも“これ”のことは知っていた。


 最初、それはただの黒い柱程度のものだったそうだ。


 正体は不明。


 好奇心に負けて、それに触れようとした人間は利き腕を失った。物理的な外傷は一切なかったというのに最初の被害者の腕は、誰がどう手を尽くしても死ぬまで動くことはなかったという。


 原因はわからなかった。


 次いで別の場所にも同じような物体が出現した。


 今度の被害者は運悪く、全身で踏み入れてしまった。最初の柱よりも大きかったことも災いした。


 その人物は魂を失ったように意識を失い、そのまま衰弱死する。


 以来、黒い何かは大陸のあちらこちらに出現し、徐々に広がりを見せるようになる。まるで生き物に対して恨みを抱いているかのようなおぞましい存在。


 人々はこの物体を、『魂喰領域こんじきりょういき』と呼ぶようになった。


 この世界に住まう人々は、生き物の命を奪う黒い影に苛まれ、怯えながら生き続けているのである。


 魂喰領域は、ほんのわずかずつではあるが広がりつつある。


 今はまだ限られた場所にしか出現しておらず、危険な場所を避けて生きていけばいいだけの存在だが、いつか、それこそ数百年ののちには人が住まう場所を奪われてしまうのではないかと危惧するものも少なからず存在していた。


「南のデルルモアではとうとう街が飲み込まれたとか……」


「どこもかしこも……」


「この先どうなるのやら」


 馬車の中で、誰かと誰かが囁き合っている。


 別に大声を出したから襲いかかってくるわけではない。


 恐ろしくても、そこが魔物とは違うところだ。


 だが、細心の注意を払って生活していてもふとしたことで犠牲者が出る。たとえば夜、この世界では街灯など大都市にしか用意されていないため、月齢によっては真っ暗になってしまう。


 そうした中、やむ得ぬ急用で出かけた者が知らずに危険な場所に踏み込んでしまう事故が起こっている。


 魔物とは違って退治して解決するようなこともできない。魂喰領域こそ、この世界の人々が直面している、最大の敵と言っていいのだ。


 その不気味な恐ろしさのために近くを通ることになれば思わず声を潜めてしまうのも自然なことだろう。


「救世主が現れるという話はどうなったんだ?」


「教会の言い伝えか?」


 乗客の話は続いている。緊張感を忘れるためだろう。


 だが先程までとは違い、ユージンの耳は「救世主」という単語を捉えていた。


 ここまでの旅路でも、何度も耳にした単語。


 誰もその正体を知らず、しかしまことしやかにささやかれる存在。


 だがユージンは、己の耳にまとわりつくその単語を、軽く頭を振っていずこかへと追いやった。


 その直後、ガタン、と車輪が大きな石でも踏んだのか馬車が大きく揺れる。


 予定していた進路から外れ、魂喰領域へと吸い寄せられるように近づいていく。


「うわぁっ!?」


 途端に馬車の中に飛び交う悲鳴。


 自動車と違って自由自在に動くわけではない馬車は、このまま死の領域に飛び込むかと思わせる挙動を取るが、間一髪というところで御者がどうにか立て直して元の道へと戻ることができた。


「こ、こんな近くを通る必要があるのか?」


 誰かが文句を言う。


「しかし、道を作るには大変な労力が必要だからな」


「ま、まあ、仕方ないか……」


 身近に潜んでいた危険が牙を剥きそうになり、乗客の誰もがアドレナリンの関係か殺気立つ中、ユージンだけは違った。


 目の前に広がる死の空間。


 その揺らぎの向こう側に、何者かの姿を幻視する。


(あんたはまだ、そこにいるのかい……?)


 誰に投げかけたのか、ユージン自身にも判然としない問いは、明確な形を取る前に消え失せるのだった。

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