第2話 新生活への華やか珈琲
メニューを運ぶ店長に、ポカンと口を開けたままのお客。
「あ、あの! し、写真撮って良いですか!!」
「構いませんよ?」
お客は、スマホ片手に店長とツーショットの写真をバシバシと何枚も撮る。
「分かる」
「美香子と同じだ」
そう、美香子達も、初めて店長を見た時には、同じように写真を撮りまくった。
「そして、そこからの……」
美香子がニヤリと笑う。
次のお客のリアクションも、同じ轍を踏んだ美香子には容易に想像できる。
「あれ? なんで??」
スマホで撮った写真を見返して、お客が焦っている。
写真を見なくても分かる。
店長は、猫の姿では写っていないのだ。
黒髪の人間の男性の姿で写っているはずだ。
美香子と幸広も何度も見比べて我が目を疑った。
肉眼では、黒猫にしか見えない店長は、写真や鏡では、人間の男性の姿。当然、ネットに店長の猫姿をアップすることは出来ないし、鏡にも写真にも映らない。
本当は猫なのか、人間なのか。
それは、誰も知らないのだ。
「それで……何をご注文なさいますか?」
「あ、ええっと!」
店長に促されて慌ててメニューに客は目を落とすが、たくさんの珈琲の名前に客は狼狽える。
「ブ、ブレンドはないのですか?」
「残念ながら当店では、ストレートの珈琲豆を、そのまま楽しんでいただくためにご用意しておりません」
とりあえずの逃げ道のブレンドを封じられて、お客はますます狼狽える。
コロンビアのスプレモ、パプアニューギニアのトロピカルマウンテン、ブラジルのイパネマ、バリの神山。そうメニューに書かれているのを見ても、どんな味のどういう珈琲豆なのか、検討もつかない。
「大丈夫ですよ、お客様。お決まりでないならば、お客様のお好みをお伺いして、お勧めさせていただくことは出来ます」
店長は、黒猫の顔で優しく微笑む。
メニューにも、確かに「迷われた場合は、ご相談ください」と書かれている。
「じゃあ店長店お勧めをお願いいたします」
「はい。では、本日は、なぜ当店へお越しになられましたか?」
「はい?」
客の声が、店長の意外な問いに裏返る。
「お勧めするためには、お客様のご事情をお伺いして、今のお客様の求める物を知る必要があります」
店長は言う。
悲しい時、嬉しい時、悩んでいる時、どんな珈琲豆が相応しいかは、その時々によって変わるのだと。
「ええと、今日は、仕事の関係で引っ越ししてきたばかりなので、辺りを偵察がてら散歩していたら、この店を見つけて! 珈琲は元々好きなので、美味しそうな香りに誘われて来ました」
成人……二十代前半と思われる男性。
転勤、転職を機に引越ししてきたというところだろうか。
幸広は、数年前のことを思い出す。
自分が今の仕事に就いた直後のことを。
三ヶ月程度の研修を終えて、それぞれの部署に配属されて。
幸広の場合、親元からも通える職場であったが、社会人になったからには、親にあれこれ言われる生活からも卒業したくて一人暮らしを始めた。
何もかもにワクワクしていたが、たった数ヶ月で家事が面倒になって。様子を見に来た親に、部屋が汚いと文句を言われて。
あの客が、どんな生活をこれからするのかは分からないが、きっと新しい街への期待と不安で浮き足立っているところだろう。
「そうですか。ありがとうございます」
店長は、ニコリと笑うとメニューを閉じた。
メニューを持ってカウンター奥に店長は下がり、早速、ゴリゴリと珈琲豆を挽く音がする。
「なんだろうね?」
「さぁ……定番のブラジル?」
「意外と癖のある豆とかかもよ?」
癖のある……まさかのコピルアクはないだろう。
コピルアク。それは、ジャコウ猫の体内で熟成させるという希少で高価な珈琲豆。
待てよ、店長が珈琲豆を飲んでトイレで……いやいや、そんな自家製コピルアクは、ダメだろう。
勝手に色々と想像して幸広は、フフッと笑う。
いやいや、無いから。
メニューにもコピルアクは載っていない。
それに、新規の客にそんな癖のある高価な豆を出せば、財布諸共色々とぶっ飛んでしまう。
「どうぞ」
しばらく経って、新規客の前にカップが置かれる。コピルアクでは無さそうだ。
「これは、お店からの引越し祝いです」
珈琲の横には、クッキーが数枚載った皿。
サービスということだろう。
客が珈琲に口をつける。
「うわぁ。華やかですね」
客の目が輝く。
「はい」
「それにスパイシーだ。ハーブでも入っているのですか?」
「いいえ、そのスパイシーさが、このマンデリンの特徴です」
「「マンデリン!」」
客と店長のやり取りを聞いていた幸広と美香子の声が重なる。
なるほどね。
華やかな新生活に、にぎやかな味わいのマンデリンはぴったりかもしれない。
「私も飲みたくなっちゃった! 店長、良い?」
「ええ、構いませんよ」
店長は、満足そうに尻尾を揺らした。
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