ポケットの中の殺意

眼鏡Q一郎

ポケットの中の殺意

1994/4/12 Tuesday 

8:14 a.m.


 未未市高白区にあるオフィス街の一画に何台ものパトカーが並び、パトランプが朝の街で瞬いている。早朝の人通りはまだ少なく道路は閑散としている。ビルとビルの間、三メートル程度の幅の路地の前に黄色い規制線が張られ、数名の制服警官が立っている。やがて道の向こうから一台のぼろぼろの2CVがやってくる。今にも壊れそうな車体を震わせ、迷惑な排気ガスをまき散らしながらパトカーの後ろに停まると、中から一人の男がのっそりと姿を現す。

 分厚い胸板に短い手足、目の下に真っ黒い隈のある男は、早朝からの呼び出しに不機嫌そうな表情を隠そうともしない。車からおりるとボンネットに寄りかかりタバコを咥える。火をつけ朝の冷たい空気と一緒に煙を吸い込んだあと、ゆっくりと煙を空に吐き出す。一しきりタバコを吸い終わると携帯灰皿に吸い殻をねじ込み、警官達の方に歩いてくる。未未市警察捜査一課刑事東方日明を一人の制服警官が敬礼して出迎える。

「お早うございます」「人間の起きてる時間じゃねえよ」「どうぞ」と警官が紙コップに入ったコーヒーを手渡す。湯気を顔で受けながら東方はたずねる。「俺が一番乗りか?」「笹井刑事はとっくにお着きです」「お嬢ちゃんは?」「一緒です」「来たばかりか?」「三十分前をそう言うならそうです」「言わないのか?」「普通は」警官の言葉に東方はふんと鼻を鳴らしてコーヒーをすする。「そう言えば彼女、市警察の研修はいつまでです?」唐突にたずねられた東方は眉間にしわを寄せて警官を見る。「知らん、どうして」「うちの若い連中が飲みに誘いたがっていまして」「やめとけ。学生に手を出したら問題になるぞ」「首都警察の研修生ですよね?」「学生にしか見えない。来たばかりの頃は借りてきた猫のように大人しかったのに、最近じゃあ生意気な態度が鼻につく」「生意気、ですか」「笹井の影響だな。俺が取調室でタバコを吸うと顔をしかめている」「そもそも署内は禁煙です」警官の言葉に東方は怪訝そうな表情を浮かべる。「いつからそうなった?」「今年からです」「実は禁煙じゃないってことは?」「ありません」「俺だけが知らなかったのか?」「わかりません」「他に俺だけが知らないことがあるのか?」東方の言葉に警官は手帳を見せると表紙をノックして見せる。事件。「ああ、そうだな」東方はコーヒーを飲み干すと、聞こう、と言う。

「事件発覚は一時間ほど前、この路地の先にあるゴミ捨て場でホームレスが死体を発見しました。ホームレスの叫び声に隣の花屋の従業員が市警察に通報してきたのが七時二十八分。被害者は身元不明の二十代から三十代と思われる男性、左側胸部に刺創が一つあります。それ以外に明らかな外傷はないようです。周囲の出血量は比較的少なく、他所で殺害されたあと、この場所に死体を遺棄された可能性もあると思われます」警官の説明を本当にちゃんと聞いているのか、東方はあくびと共に顔をこする。「目の下、すごい隈ですね」それには答えず、東方は黄色い規制線の向こう側の路地を見る。「この先にゴミ捨て場があるのか?」「はい。近くの弁当屋から売れ残りや余った食材が捨てられるので、ホームレスは朝食にありつこうとしたところだったみたいですね」「食事前で幸運だったな。死体を見ても吐かずにすむ」デリカシーの欠片もない東方の言葉だが、警官は、確かにとさらりと受け流す。

「凶器は判明しているのか?」「現場には残されていませんでした」東方は眠そうに何度か頭を振るとそれから改めて警官に聞く。「本当に署内は禁煙なのか?」東方の言葉を無視して警官は、東方刑事入ります、と胸につけた無線機に言い、黄色い規制線をくぐる。

 路地を数メートル進むと三方がビルに囲まれた開けたスペースが広がっている。ビルの壁面には室外機がずらりと並び、食べ物が腐ったような臭いが漂っている。突き当りには大きなダストボックスが二つ並んでいるが、あふれ落ちたゴミ袋が地面にも散乱している。そのゴミ袋の間から、男の死体が覗いている。

鑑識作業が続けられるのを、少し離れたところから笹井と水沼が眺めている。東方は二人の方に歩いていくなり、何かわかったかと尋ねる。

「遅刻の言い訳からしろよ」笹井が言う隣で、「お早うございます」と水沼が頭を下げる。真っ黒いおかっぱ頭にパンツスーツ、大きなリュックサックを背負った彼女は十五歳にしか見えないなと東方は思う。「お腹痛い」東方の言葉に笹井がああ、と眉をひそめる。「遅刻した理由。何だよ、女性の特権じゃないぞ」そう言うと死体の方へと歩いていく東方の背中に、うっわ最低、と彼女がつぶやき、笹井はやれやれと頭を振る。

 死体は仰向けに倒れている。左胸は黒々と血液に染まり、真っ白な顔は苦しそうに歪んでいる。鑑識官の背中越しに死体を見つめる東方に笹井が言う。

「概要は?」東方はもう聞いた、と答える。「身元不明だって?」東方の言葉に鑑識官がええ、と答える。「現場には財布も携帯も残されていませんでした」「鞄ごと持っていかれたのかな?」と笹井。「どうでしょうね。ズボンのポケットにはこすれた跡と小さな穴、色落ちの形から携帯電話や財布は、普段からポケットに入れていたようにも見えますがね」「物盗りか、」「かもしれませんが腕時計は残していますよ」鑑識官が死体の左手を指差す。たしかに血で汚れた左腕には腕時計が巻かれている。「安物だ。俺でもそんな腕時計は残していく」それから東方は近くの消火栓の上に腰掛けるとふうと息を吐く。

「何だよ、二日酔いか?」

 笹井の質問には答えず東方は小さく唇を鳴らす。

「学生しか着ないような量販店の派手なシャツに靴底がすり減った薄汚れたスニーカー、物盗りに襲われたようにはとても見えない」

「まあ、そうだな」

「つまり、物盗りだな」

 笹井と水沼は顔を見合わせる。

「お前、何言っているんだ?」

 東方は何度か大きく瞬きをすると、え、何? と聞き返す。

「薬でもやっているのかよ」笹井は舌打ちをすると、隣に大人しく立っている頭一つは背が低い彼女にたずねる。「犯人は携帯や財布を持ち去っている。物盗りじゃなければ目的は身元を隠すためだ。犯人が被害者の身元を隠す理由はなんだ?」

「えっと、単に捜査を遅らせようとしているのか、あるいは被害者の身元から比較的容易に犯人に辿り着ける、つまり顔見知りの犯行だからですか?」

彼女の答えに笹井はそうだなとうなずく。

「しかも、こんな奥まった路地裏のスペースを知っているということは、犯人はこの辺りの土地勘があるはずだ」

「出血量から考えて、どこかで殺害してからここに運び込んだのでしょうか?」

「多分違う。犯行現場はここだろうな」

「どうしてです?」

「路地に血痕がないということは、車でここまで運び込んだ可能性が高いが、わざわざ手間をかけてこんな場所に死体を遺棄したはずがない」

 笹井の言葉に彼女は考え込む。辺りを見回し、それからあっと小さく声を上げる。「そうか、ここはゴミ捨て場」彼女の視線の先にあるダストボックスには、ゴミの回収日が書かれたプレートが貼られている。「ゴミ回収車が少なくとも週に二度は来ます」

「ゴミ回収車だけじゃない。ここを利用している周囲の店からも毎日ゴミが出るからな。こんな場所に死体を置けば、早ければ数時間で発見される。本気で身元を隠したいなら死体が発見されないのが一番だ。遺棄する場所を選ぶことが出来るなら、もっとふさわしい場所はいくらでもある。東洲区に足を延ばせば廃墟のビルだってそこら中にあるからな」

東洲区。忘れられた街か、と彼女はつぶやく。

「この辺りは人通りが少ないからな。通りからこの場所は見えないし、夜中なら叫び声を上げても誰にも気付かれないだろう。被害者をこの場所に呼び出して、あるいは一緒にこの場所まで来て殺害し、足早に立ち去った。そう考えるのが自然だ」

「ビジネス街ですし、周囲の店も二十一時くらいには閉まるようです。目撃証言は期待でいないでしょうね」制服警官の言葉に、たしかに土地勘はありそうですねと彼女はうなずく。

「スマートなやり口だ。余計なことは一切せず人気のないところで殺害し、携帯電話や財布を持っていった。単純なことだがこれで被害者の身元を割り出すには格段にハードルが上がる。指紋も歯型も、市警察にあるのは犯罪歴のある人間のデータベースだからな」

 たしかにそうだ。彼女は神妙な顔でうなずく。

「自分の隣の部屋の住人の名前や顔を知っているか? 前科のない引きこもりが人口数百万人のこの街にどれだけいると思う。霊安室には身元不明の死体がずらりと並んでいるからな。出稼ぎでこの街に出てきたばかりなら、住所すらないかもしれない」

 厄介だな。笹井はそうつぶやくと死体を見る。

「手口も胸部にナイフで一刺し、かなり手慣れた印象を受ける。過去にも殺人経験があるか、あるいは、殺害方法や殺害場所、殺害後の行動などまで事細かに下準備をしていたのか。いずれにせよ優秀な犯人だ。なかなか尻尾は出さないかもな」

 それから笹井は制服警官に指示を出す。

「ホームレスはもう返していい。花屋の従業員には、このあと話を聞きにいくと伝えてくれ」

 ホトケさんはもう運び出してもいいですかと鑑識官に問われ、ああ、と笹井は答える。カバーが掛けられた死体が運び出される様子を見ながら笹井は彼女に言う。

「セオリー通りに行くなら、まずは被害者の身元を突き止める必要がある。検死で何かわかればいいがな」

 それから笹井は消火栓に座る東方の方を向く。東方は腕組みをしたまま目を閉じてじっと黙り込んでいる。

「おい、寝ているのかよ」

「お前の推理には穴がある」目を閉じたまま、東方が言う。

「ほお?」

「犯人がこの場所を死体遺棄現場にわざわざ選ぶはずがないというのは間違いだ。犯人がここに死体をあえて運び込んだ可能性がある」

「と言うと?」

「ゴミ回収業者に恨みがあって、嫌がらせで死体を置いたんだ」

「なるほど。お前、昨日ちゃんと寝たのか?」

 笹井は呆れたように言うと、それじゃあと二人に言う。

「俺はこれから通報してきた花屋の従業員から話を聞きにいく。二人は監察医務医院に行って、被害者の身元につながるものを探してきてくれ」

 東方はのそりと消火栓から腰を上げると両手で顔を擦る。

「監察医務医院は俺一人でいく」

 東方の言葉を笹井は駄目だと一蹴する。「おもりが必要だろ」

 東方はちらりと彼女を見ると、「もう十五歳だぞ。一人でおつかいに行ける年齢だ」と毒づくが、「違う。お前に必要なんだ」と笹井は呆れたように言い返す。

笹井は彼女に、こいつがさぼらないようにしっかり見張っとけよと言う。わかりましたと彼女は答えると東方の方へと小走りで駆け寄る。不満気な東方に彼女はにっこりと笑って勢いよく頭を下げる。「よろしくお願いします」

 それじゃあ仲良くやってくれ、と笹井は歩き出す。ああ、そうだと振り返り、笹井は東方に言う。「顔を洗え、酷い顔だぞ」

「生まれつきだ」

 言い返す東方を無視して笹井は歩いていく。東方は大きく息を吐くと彼女を見る。おかっぱ頭の小柄な少女は、大きなリュックサックを背負ったままガッツポーズをしてみせる。「一緒に頑張りましょう」

 勘弁してくれよ。東方は空を仰ぐ。ビルとビルの間から真っ青な空が覗いている。ああ、と息を吐いたあと、あきらめたのか東方は歩き出す。ちょっと待って下さい。慌てて彼女がその背中を追いかける。


9:21 a.m.


事件を通報してきた事件現場すぐ横の花屋の店員は、ぐったりとした表情で店の奥の事務所のイスに座っていた。この様子ではとても店は開けられないだろうなと笹井は思う。バイトらしき他の従業員も、開店の準備をするわけでもなく事務所の隅で遠巻きにこちらの様子をうかがっている。

 笹井は店員に通報に至るまでの経緯をもう一度確認する。

「店に出勤してきたのは今朝六時くらいでした。開店の準備をしていたところ、店の裏手から叫び声が聞こえました。慌てて店の外に出ると路地の奥から這うようにホームレスが出てきました」

「ホームレスとはどんな話をしましたか?」

「それが、大声で喚くだけで何と言っているのかよくわからなかったんです。ただ、路地の奥をしきりに指さすので見に行ったら、」

「死体を見つけた」

 そうです。店員はその光景を思い出したのか、青い顔をしてうなずく。

「現場はどの辺りまで近付きました?」

「ちょうど、路地が広くなる手前までです」

「そこまでしか近付いていないのに、死んでいると確認出来たんですか?」

「ホームレスがあのゴミ捨て場を出入りするのは何度か見たことはありますが、ゴミの中で寝ている姿は見たことありませんし、」

「ああ、いえ、別に責めてるつもりはありません。むしろ近付かなくて正解でした。殺人現場には犯人が潜んでいる可能性もありますからね。今回に関しては、死亡推定時刻から考えてその可能性は低そうですが」

「そうですか」

 店員は消え入るような声で答える。

「出勤してきたのが朝の六時ということですが、かなり早い時間ですね」

「花屋では普通です。今朝は大きな葬儀も入っており、七時には従業員総出で準備をする予定でした」

なるほどと笹井はメモ帳をめくる。

「最近、ホームレス、あるいは不審な人物が店の周囲、あるいは路地の周囲をうろついているのを見た覚えがありますか?」

「いいえ。もちろん日中はいろんなお客さんが来られますが、不審人物に心当たりはありません」

「今朝、ホームレスの悲鳴が聞こえた時、店にはあなた一人でしたか?」

「はい」

「悲鳴以外に何か物音や声を聞いていませんか?」

「何も気が付きませんでした。あれを見つけてからはすぐに店に戻って通報しました。それから警察の指示で、店内で一人待機していました。しばらくすると店長が出勤してきました」

「ホームレスは警察が到着した時にはまだ歩道のところにうずくまっていました。逃げ出さずにいてくれたのは助かりましたが、どうやら彼は大通りを下ってすぐの所の高架下のキャンプに住んでいるようですね。これまでに会った覚えはありますか?」

「何度かゴミ漁りに来ているのを見たことがある気がします」

「そうですか。最後の質問です。犯行時刻は真夜中と思われますが、昨夜、最後に店を出たのはどなたでしょうか?」

 店員に呼ばれた店長がやってきて、昨夜二十時にシャッターをおろし帰宅したことを告げる。その時点では不審な物音や人影を見てはいないとのことだった。

「本日、お店はどうなさるんですか?」

 事情聴取を終えた笹井がたずねる。

「配達等の仕事は行いますが、店の方は急遽定休日としました。明日からは通常営業にしたいのですが、問題ありませんか?」

「かまいませんが路地裏はしばらく閉鎖します。市のゴミ収集局に連絡を入れていますので、しばらく回収場所の変更等通達があるはずです。ご迷惑をおかけしますが、ご協力よろしくお願いいたします」

 わかりました、と店長は言う。

「また何か話を聞きにくるかもしれません」

 席を立った笹井が言うと、承知しましたと店長は答える。笹井は、どうもお手間取らせましたと一礼する。

 店を出ると路地の前にはまだパトカーが並んでおり、野次馬も集まってきている。笹井はフラワーショップ山崎をあとにすると、路肩に停めてあった黒いMK-1に乗り込みエンジンをかける。真っ黒い排気ガスを吐き出しながら、古い車はゆっくりと走り出す。


10:31 a.m.


 水沼桐子が首都警察から出向し、未未市警察捜査一課で研修を始めてからすでに二週間が経過していた。次から次に訪れる凶悪犯罪の捜査に、目まぐるしい日々はあっという間に過ぎていく。何もかもが新鮮で、日々、自分が殺人課刑事になっていくのを実感する。

 彼女は助手席から運転席の男を見る。不機嫌そうにむっつりと渋滞した道路を睨みつけている男は、彼女が知る限りこの街で最も優秀な殺人課刑事の一人だが、最も厄介な性格の人物でもある。気難しく自分以上に他人に厳しく口が悪く不躾な男。それでいて知恵の王宮に住む誰よりも頭が切れ誰よりも遠い景色が見えている男。彼女にとって目下一番重要な課題は、彼と信頼関係を築くことだろう。

「運転、代わりましょうか?」

 彼女の言葉に、東方は憮然とした口調で返す。

「免許の取れる年齢なのか?」

 助手席の彼女は失敬なと言わんばかりに背筋を伸ばす。

東方は気難しく口も性格も悪いため、これまでの大抵の新人は畏怖しへりくだった態度をとるが、それが却って彼の神経を逆なでするという悪循環が往々にして起きていた。本能的にそれを察したのか、きちんと自己主張をした方が彼とは上手く付き合えるというのが現時点での彼女の結論で、今のところそれは上手く機能しているように見える。とはいえ、出会って三十秒で彼の左頬を張ったことは、その一線を軽々と越えてしまっているのは言うまでもない。

 あれ。背筋を伸ばした彼女は、中央線の高架下に並ぶいくつものテントや粗末な小屋があることに気付く。

「このあたりもずいぶん増えたな」

 東方の言葉に彼女もうなずく。

「再開発の夢の跡、ですね」

「東洲区には企業やテナントが撤去した廃墟のビルが墓標みたいに並んでいるからな。多くの店が閉店を余儀なくされたが、失業者への補填も十分にされていない」

「こうやって高白区にまでホームレスがあふれ出してきているんですね」

「おかげで死体を見つけてくれて感謝はしているが、」東方はそう言うと小さく唇を鳴らす。「あの高架下もそのうち整備され、彼等はまた行き場をなくす」

 それはそうかもしれない。

 東方はそれから、運転席側の窓を半分ほど開けるとタバコを咥えて火をつける。外に向かって大きく煙を吐き出すと、助手席の彼女は顔をしかめたまま東方に言う。「普通、吸ってもいいかって聞きません?」「吸ってもいいか?」「どうぞ」「本音は?」「出来ればやめて下さい」東方はふんと鼻を鳴らすと灰皿に吸い殻をねじ入れる。

 ようやく渋滞を抜けると二人を乗せた車は、未未市警察監察医務医院の敷地内へと入る。駐車場に車を停めると、コンクリートの建物に向かって二人は歩いていく。入口の警備員に二人は警察手帳を提示し、エレベーターで地下の解剖室に下りる。

 かつかつと音を響かせながらリノリウムの廊下を歩き、突き当りの横開きの重い扉に手をかける。ぐっと力を込めて扉を開くと、部屋の内側から冷気が漏れ出てきて、彼女は思わずぶるっと体を震わす。独特な臭いが漂う解剖室には、部屋の中央に銀色の解剖台があり、壁には死体を安置するロッカーがびっしりと並んでいる。解剖台の上には死体が横たわり、緑色の術着を着た解剖医がそばに立っている。

「先生、何かわかったかい?」

 東方が白い息を吐きながら言う。

「二十代から三十代の男性。死亡推定時刻は昨夜二十三時過ぎ。死因は鋭利な刃物による心損傷。左の第六肋間から左肺下葉を貫き、左心室に達している。心裂傷によるタンポナーデでほぼ即死だっただろうな。刺された左肺は虚脱し、ナイフを抜いたあとの血液は左胸腔内に大量に溜っていた。現場に出血がそれほど多くなかった理由はそれだろうな。移動させればむしろ胸腔内の血液は外に流れ出ただろうから、死体発見現場を犯行現場と考えてまず間違いないだろう」

 そう言うと、監察医は遺体にカバーをかけ手袋をゴミ箱に投げ入れる。白衣に袖を通すと、解剖室の奥にある机に着く。書類に何やら書き込みながら、背後に近付いてきた二人の刑事に監察医はたずねる。

「あの車、お前のか?」

 そう言って机の前にいくつか並んでいるモニターの一つを顎で指す。画面には観察医務医院の駐車場が写っている。

「ずいぶん古い車に乗っているんだな」

「俺の趣味じゃねえよ。クラシックカーなんて聞こえはいいが、廃車寸前のポンコツが覆面パトカーなんて、こっちはいい迷惑だ」

 そう答えながら東方は机の上のモニターを覗き込む。監察医務医院の防犯カメラの映像が並び、そのうちのいくつかには院内で働くスタッフの様子が映っている。

「穴蔵に籠って覗きか? おたくの趣味もどうかと思うがな」

「私が生きている人間に興味があることが、そんなに意外か?」

 そう言うと、監察医はくるりとイスごと振り返り、検死記録報告書を刑事達に向かって突き出す。東方の顔を見た監察医は怪訝そうに眉をひそめる。

「酷い顔だな。寝起きか?」

 東方はそれには答えず、仕事の話をしようと言い報告書をめくる。

「前科はないらしく指紋はヒットしなかった。歯に特徴的な治療痕もなし。争った形跡や抵抗した形跡はなし。右手の爪に線維が付着していたが、犯人の衣服かどうか断定は出来ない」

「凶器の特定は?」

「刃渡りは十五センチ程度の片刃の刃物。包丁程幅は広くない。かなり深く刺している。余程手馴れているか、くそ度胸があるのか」

「被害者に病歴は?」

「手術痕や明らかな内臓疾患はなし」

「薬物は?」

「ルーチンの簡易検査では、採血、尿からも毒物は検出されていない。詳細な結果を待つ必要があるが、常習的な薬物使用歴はなさそうだ。退屈な死体だな」

 退屈な死体? 彼女は監察医の言葉に眉をひそめる。それに気付いた監察医は東方にたずねる。「ずいぶんとかわいらしいお供を連れているじゃないか?」

「見学の学生だ」

「首都警察から来た研修生の水沼です」彼女は東方の言葉を即座に否定する。

「どっちでもいい。それよりいい知らせはないのかよ」

 東方の質問に、監察医はそう急くなと机の上にあった何枚かの写真を彼女に手渡す。

「何ですか、これ。変ったタトゥーですね」

 写真には中心に目玉がある渦巻き状の模様が刻まれている。

「被害者の左肩にあった」

「最近の若者の趣味はわからんが、探す価値はあると思うぞ」

「タトゥーショップ、ですか。でもこれ、どこかで見たことある気が、」

 彼女は難しい顔をして唇を尖らせる。

その横で、東方が検死記録を見ながら言う。

「ここ、胃の内容物だが、」

「ああ、胃には魚とカボチャの残渣物が残されていた」

「固形の状態とあるな」

「消化の進行の程度から考えて、被害者は殺害された二時間以内に食事をとっている」

「死亡推定時刻が二十三時ということは、二十一時頃、ということか」

「他に残されていたのはパイ生地にパプリカ。見当もつかない、最後の晩餐は何だったんだ?」

 あっと声を上げると彼女が言う。「ニジマスとカボチャのパイだ」

 そうだろうなと監察医はうなずく。

「そんな料理は知らん。聞いたこともないし美味そうにも聞こえない」

「地中海料理、高級料理だぞ。内容物からは特徴的な香辛料の香りもした」

 嗅いだのかよ、と東方は顔をしかめる。

「ですが、地中海料理だとすると出しているレストランは限られますよね」

 彼女の言葉に監察医はそうだなと同意する。

「血中アルコール濃度も高値で、一緒に飲酒もしている」

「被害者は金を持っているようには見えない。高級店でワイン片手にそんないかがわしい料理を一人で楽しむ趣味がないのなら、犯人と一緒に食事をとったかもな」

「だとすると店を絞るのはそれほど難しくないかもしれませんね」彼女が鞄の中から未未市の情報誌を取り出す。使い込まれているのか、ページの角は折れ、表紙は傷だらけになっている。「公共交通機関の駅には監視カメラがありますし、タクシーを使えば運転手が覚えているかもしれません。酔わせていい気分にさせて現場に連れ込んで殺害したのであれば、徒歩で移動していたはずです。車ならむしろ、あんな路地でおりたら相手に警戒されますからね。近道と言って連れ込む方が安全です。現場から徒歩圏内にあり、防犯カメラが設置されていないような老舗の高級店、その中で地中海料理を出す店となると、」そう言いながら彼女はページを必死にめくるがなかなか答えは得られない。

「そんな物、持ち歩くなよ」東方が呆れたように言う。

「現場付近でニジマスとカボチャのパイを出す店は三軒しかない」

 監察医の言葉に、彼女は思わず顔を上げる。

「この街に何十年住んでいると思っているんだ? あとでリストを送る」

「おたく外食するのか? 死体は一緒にメシを食ってくれないだろう」

「笑えるな。用が済んだのならさっさと帰れ」

 東方の手からファイルをひったくると、監察医はくるりと背を向ける。

東方は彼女と目を合わせると肩をすくめてみせ、それから揃って踵を返す。部屋を出て行こうとしてふと足を止める。

「まさかあんた、レストランで学生相手に死体の話とかしてないよな」

「ワインと法医学、学生には人気がある」

「もしレストランから犯人がわかれば、次は俺もその講義を受けるよ」

 それじゃあな先生、と東方は解剖室を出る。

何がワインと法医学だ。生きている人間と一緒にいるのは落ち着かないといつも言ってるくせに。


4:50 p.m.


 市警察捜査一課課長室に三人の刑事は出頭する。

「捜査の進展を聞こう」

 捜査一課の全知全能の神たる小柄な男が、机の向こうから三人を睨みつけている。禿げ上がった額に後ろに撫で付けた灰色の髪の毛、鷲鼻と窪んだ眼窩の奥から鋭い相貌で三人を射抜いている。

「検死結果によるとあのゴミ捨て場が犯行現場と思われます。犯行時刻は二十三時前後ですが、聞き込みから特に収穫はなし。あの辺りはオフィス街で監視カメラもそれほど多くありませんからね。一応、現場周囲一キロの監視カメラを当たりましたが、死亡推定時刻の前後で被害者らしき人物は確認出来ませんでした。死亡推定時刻には周囲の多くの店がすでに閉まっています。目撃証言は期待出来ないでしょうね」

 笹井の言葉に課長はうなずく。

「被害者の身元はわかったのか?」

 はい、と水沼は背筋を正してメモ帳をめくる。

「被害者の肩にあったタトゥーですが、五年程前に流行ったゲームのキャラクターでした。ゲームのファンサイトで、未未市在住で肩にキャラクターのタトゥーのある人物に心当たりがないか聞いたところ、掲示板のハンドルネームがわかりました。過去の発言から未未市内のタトゥーショップが判明。タトゥーショップで確認し、カルテから被害者の身元が判明しました。被害者は山崎正彦、三十二歳。定職はなくアルバイト生活だったようです。かなり金には困っていたようで、いくつかのカード会社の返済が滞っています。件のタトゥーショップの支払いも残っています」

「金銭的困窮の原因は?」

 課長は腕組みをしたままたずねる。

「家族とは疎遠だったらしく、唯一、年の離れた兄と連絡が取れました。被害者が未未市に転入してきたのは十年前、再開発の際に仕事を求めて出てきたようです。家族の話では、再開発計画が中断され、仕事を失ってからは定職にはつかずフリーター生活を続けていたようです。再開発バブルが終わったあとは一転、求人は減り家賃は高騰、きっかけはわかりませんが、借金のために借金を繰り返し、雪だるま状に膨れ上がったというところだと思われます。手を出している消費者金融の内のいくつかは、かなり強引な取り立てで過去にも問題になっている会社です。今回の事件も金銭トラブルの可能性は否定出来ません」

 彼女の説明になるほど、と課長はうなずく。

「事件当日の、被害者の足取りは掴めているのか?」

 いいえ、と笹井は渋い顔をする。「カードはすでに止められていますし、金を引き落とした記録も事件一週間前が最後です。メトロカードも利用していませんし、今のところ、事件当日の足取りは不明です」

「レストランの件はどうなった?」

 課長がちらりと東方を見る。壁にもたれかかった東方は腕組みをして目を閉じ、むっつりと黙り込んでいる。

「聞いているのか、東方?」

 聞いていますよ、と不機嫌そうに東方は目を閉じたまま言う。

「該当するレストランは三軒。胃の内容物の状態から死亡二時間前までの間に食事をした可能性が高く、現在、その時間帯の店内の防犯カメラを確認中です。ただし、三軒中、防犯カメラを設置しているのは一軒のみ。あとの二軒は地道に聞き込みをするしかないでしょうね。現金を使用しているでしょうし、時間がかかりそうです」

 課長はふむとうなずくと、これからどうすると笹井にたずねる。

「犯人は被害者の身元を隠そうとしています。知り合いの可能性が高いと考えられますが、被害者の交友関係は現時点では不明。携帯電話も残されていませんからね。被害者の自宅を見てきますよ」

「いいだろう。行ってこい」

 三人が部屋から出て行こうとしたところ、課長が東方を呼び止める。何です? 足を止めた東方に課長は言う。

「シャワーでも浴びてこい。シャツを変えて髭を剃れ。今度私の部屋で居眠りをしたら叩き出すぞ」

「次からはばれないように気を付けます」

「出て行け」

 課長室から出て扉を閉めると、追い出されたのは今日二度目だなと東方は思う。


5:21 p.m.


 三人の刑事を乗せたおんぼろの2CVはダウンストリートを下り古い団地の前で止まる。車をおりた三人は、遠くから工事現場の作業音が聞こえてくるのを聞きながら中庭を通り、B棟に入る。エントランスにある501号室の郵便受けに手書きで山崎と書かれたシールが貼られている。郵便物が何通も突っ込まれたままになっているが、そのうちの何通かは金融業者からの催促状に見える。エレベーターはなさそうだな、住所を書いたメモを片手に三人は階段を上がる。五階まで上がると、大家が扉の前に立っている。鍵を開けてもらい三人はぎいぎいと音を立てる錆が浮いた金属の扉を開く。「終わったら鍵は一階のポストに入れておいて下さい」そう言うと大家はそそくさと立ち去る。警察になるべく関わりたくない人間はどこにでもいるものだ。

扉を開けてすぐの所が小さな台所になっていて、奥にある引き戸の先に薄暗い部屋が見える。三人は手袋をつけると室内に入り電灯をつける。薄暗い部屋に汗やカビのような臭いが漂っている。台所の床にはいくつものゴミ袋が並び、流しには空になった弁当やカップ麺の容器が積み重なっている。

「これが同じ人間の住む部屋かよ」

 笹井は思わず顔をしかめ、それから彼女に言う。

「俺の親父の格言を知っているか?」

 いいえ、と首を振る彼女の代わりに東方が答える。

「部屋が散らかっている奴は頭の中も散らかっている」

「子供の頃から聞かされていると影響されるよな。だから俺の部屋には髪の毛一本、落ちていない」

「お前の親父が間違えているとは言わないが、例外はある」

「どこに?」

「俺の家」

 そのやりとりを聞いていた彼女が難しい顔をしてたずねる。

「それ、どっちの例外なんですか? 部屋の方と、頭の方」

 言ったあとすぐに自分の失言に気付いた彼女は思わず、あ、いえ、そんなつもりはと必死に取り繕うが、東方は無言で奥の部屋へと消えてしまう。まあ気にするなと笹井は彼女に言う。

 台所の奥には六畳ほどの部屋がある。こたつ机とテレビだけの殺風景な部屋の床には、染みがところどころに浮かんだ灰色のカーペットが敷かれている。机の上には雑誌や空のペットボトルが並び、灰皿代わりのマグカップには吸い殻が何本も突っ込んである。東方は、残り僅かになったタバコの箱を手にすると、安物だなとつぶやく。

続いて東方は部屋の隅の備え付けのクローゼットを開ける。服はハンガーにもかけずにそのまま無造作に押し込まれている。服の山に紙袋が埋まっているのを見つけ、手に取り中を覗き込む。中にはズボンが一本無造作に入れられている。不審に思い取り出すが、特に変わった様子はない。

「どうしてこの一着だけ、」

 東方は手にしたズボンに顔を近付け匂いを嗅ぐ。何かに気付いてポケットを探ろうとしたところで、自分を呼ぶ声がする。顔を上げると、隣の部屋から彼女が呼んでいる。

 台所にいた笹井と一緒に隣の部屋に入る。どうしたんだ、一体? そうたずねたまま、東方は足を止める。カーテンが閉められ小さな天井の白熱灯だけで照らされた薄暗い部屋に異様な光景が広がっている。

「何だ、これ、」

 笹井が小さくうめき声を上げる。東方は唇を鳴らすと、それからゆっくりと部屋に入る。壁一面にたくさんの写真やメモが貼られている。写真はすべて、

「同じ女性の写真か?」笹井の言葉に、そう見えますと彼女は答える。

「どの写真もレンズに気付いていない。隠し撮りだな」と東方がつぶやく。

「まるでストーカーです」

 それから彼女は棚の上に置かれているカメラを手にする。

「これで撮ったんじゃないでしょうか。デジタルじゃなくてフィルムですね」

「現像店のレシートがあるな」

 東方がゴミ箱に放り込まれている写真が入っていただろう袋を拾い上げる。

「同じ女性の写真がここにもありますよ」

 彼女が床に置かれた靴箱の中に無造作に詰められた写真を手に取る。写真の裏にはマジックペンで日付と場所が書かれている。

「きれいな人ですが、一体誰でしょうか?」

「誰かはわからないが、彼女をストーキングしていてトラブルになり、それで殺された可能性が出てきたな」

「女性の恋人、あるいは、女性自身に殺された?」

 彼女はそうぶつやく。部屋の中には禍々しい空気が充満している。息が詰まりそうな不快感の中で、東方は欠伸を噛み殺すと両手で顔を覆う。

「彼女を探そう」


9:12 p.m.


刑事部屋は夜でも煌々と蛍光灯がともり、報告書を書くキーボードを叩く音があちこちで聞こえている。東方は刑事部屋の隅、コーヒーメーカーが置かれた一画でソファに仰向けに横たわり目を閉じている。

 自分の机で何やら電話をかけていた水沼はありがとうございましたと受話器を置くと、メモを片手にソファの方へとやってくる。コーヒーテーブルを挟んで東方の反対側のソファに腰を下ろすと彼女は言う。

「被害者の部屋にあった固定電話の電話帳から友人の何人かと連絡が取れました」

 東方はじっとしたまま応えない。気にせず彼女は話を続ける。

「被害者は友人からも借金があったようで、周囲の人間とは疎遠気味だったようです。半年前まで交際相手がいましたが、こちらも金銭トラブルが原因で別れたそうです。交際相手の名前は前田由紀子、市内の旅行代理店で働いています。しかもその勤務先は、犯行現場からわずか三ブロックしか離れていません」

 東方がソファの上で両目を開く。

「現場は元恋人の職場付近か」

「友人の話ではいい別れ方ではなかったようです。借金のある男との金銭トラブルで別れたとなれば、別れを切り出したのは元恋人の方のはずです。未練があれば、元恋人のストーカーになっても不思議はありません」

「旅行代理店に勤めていると言ったな」

「はい。壁の写真の女性もビジネススーツ姿です。あの女性が元恋人でしょうか」

「かもな」

「現場が元恋人の職場の付近というのも偶然とは思えません。ストーカーになってしまった山崎が仕事終わりの彼女を待ち伏せ、あの場所で揉み合いになった」

「ナイフは刃渡り十五センチ以上、護身用に持つようなサイズじゃない。とすると、山崎が元恋人を脅すため、あるいは殺害するために用意していたナイフを奪い取って殺害したことになる」

「女性の力でも犯行は可能ですよ」

「結論に飛び付き過ぎだ。死亡推定時刻は二十三時頃、帰宅するのは遅過ぎる。そんな時間まで元恋人は何をしていた?」

「レストランで食事、なわけないですよね。ストーカーと一緒に高級レストランにわざわざ」

「しかもかなり手慣れている。しっかりと準備をした計画的殺人あるいは殺人自体に慣れているかだ。もし元恋人が犯人なら、とんでもない相手を山崎正彦は襲ったことになるな」

 東方は小さく唇を鳴らすと、それで、元恋人とは連絡が取れたのかとたずねる。

「本人の携帯にはつながりませんでした。職場に確認したところ、本日は出張に出ているそうです。明日、出張から戻ったあとは休日とのことでしたので、明日の午後、自宅に伺うと伝えてもらっています」

「出張中ということは、昨夜はアリバイがあるのか?」

「いえ、今朝出発したみたいです。昨夜はこの街にいたようですね」

 ふうんと言い、東方はごろりと彼女に背を向ける。

「あと、先程鑑識から連絡がありましたが、山崎正彦の部屋から押収したカメラから採取された指紋は山崎本人の物だけでした。カメラの中の現像されていないフィルムには、件の女性の写真に混じって山崎自身の部屋の写真もあり、カメラの持ち主も写真の撮影者も山崎正彦で間違いないと思います。寝てるなら寝てるって言って下さいね」

 東方は彼女に背中を向けたまま、寝てる、と一言答える。ふうん、と一度考え込んだあと、彼女は膝の上で頬杖をつき、お腹治りました、とたずねる。

 答えない東方を残して彼女は立ち上がる。

「わたし、これから山崎正彦の元恋人についてちょっと調べてみます。実は山崎の友人の話でちょっときな臭い情報もあったので」

 背中を向けたままの東方に一礼し、彼女は踵を返して歩いていく。しばらくして東方はむくりと体を起こすと、ソファから立ち上がり一人歩いていく。ちょうど部屋から出てきた捜査一課長と目が合うと、課長は小さくうなずく。東方は首を振ると、ふうと息を吐き、刑事部屋の横にある取調室に向かって歩いていく。


**********


 時を同じくして笹井は高白区の分署にいた。分署の刑事に案内された資料室で捜査資料をめくる。資料に収められている写真を手にすると眉間にしわを寄せため息をつく。

「厄介なことになってきたな」

 それぞれの夜が更けていく。


1994/4/13 Wednesday 

8:10 a.m.


 刑事部屋の一画でコーヒーを淹れながら水沼桐子は考える。

 昨日、山崎正彦の部屋で見た異様な光景、壁一面に貼られた女性の隠し撮り写真。あの時に抱いた強烈な違和感の正体は何だったのだろうか。その違和感が解消される前に自然とストーカーという言葉が口をついて出たが、実のところすんなりとそれを受け入れられていない自分がいる。あの写真、どこか変だ。

 山崎正彦が元恋人と別れたのは半年前。未練が募り、恋人につきまとう。新しい男の影はないか、そうやって尾行し隠し撮りをしていたのだろうか。あるいは半年の間に別の女性に夢中になり、隠し撮りをしているのだろうか。だが壁に貼られただけでなく、箱にも一杯写真が詰め込まれていた。その量を考えると、かなりの執着心が感じ取れる。狂信的なストーカー。彼女は個人的な経験を思い出し、嫌悪感が沸き上がる。振り払うように熱いコーヒーを喉に流し込んだところで、刑事部屋に笹井がやってくる。

「お早うございます」

「東方は?」

「まだ見ていません」

 そう答えると同時に、刑事部屋の奥からのっそりと人影が現れる。背広を小脇に抱えた男はそのままソファにどっかりと腰を下ろす。取調室の方からやってきた東方に彼女は不思議そうな顔をしたまま、お早うございますと挨拶する。東方はネクタイを締めながら、難しい顔をしている笹井にたずねる。

「朝っぱらから辛気臭い顔をして、どうした?」

「変な話になってきたぞ。あの女性の正体がわかった。今回の山崎正彦殺害事件とあの写真の女性は関係ない。彼女はもうすでに死んでいる」

「いつ死んだんですか?」彼女が驚いたように聞き返す。東方も眉をひそめて笹井を見る。

「二週間前だ」と笹井は答える。

「誰が出張に出ているって?」東方が彼女に言う。

「それじゃああの写真は前田由紀子ではないんですね」

「誰?」

「あ、はい。山崎正彦の元恋人です。でも彼女は今も生きています。誰なんですか、あの写真の女性?」

 笹井は持っていたファイルを東方に手渡す。

「山崎正彦の部屋の写真の女性は中島梢三十四歳。高白区の証券会社に勤めていた。写真はビジネススーツの物ばかりだったが、社員証を着けているものがあった。そこから会社にあたり、写真を確認して身元が割れた」

「どうして死んだんだ?」

 東方の言葉に笹井が意味ありげに口元を歪める。

「殺しだよ」

 えっ、と彼女が思わず声を上げる。


10:21 a.m.


 未未市高白区のビジネス街の一画に、不釣り合いなぼろぼろの2CVが停まっている。三人の刑事は車をおり歩道に立っている。

「この先の32丁目の路地で、中島梢は強盗殺人にあった」

「通り魔、ですか?」

 彼女の問いに、笹井はうなずく。三人は大通りから左に曲がり、裏通りに入る。

「時間は二十二時過ぎ、地下鉄の最終電車に間に合わなくなるといつもの通勤ルートから外れ、近道を通っていたところを襲われた。この辺りは銀行や証券会社が集まる金融街だからな。夜間には車もほとんど走っていないし、裏道に一本入れば人通りもほとんどない。しかも当日は雨が降っていたらしく目撃証言はなし。塾帰りの高校生が通りかかって発見した時にはすでに息がなかった。衣服の乱れや争った形跡があり、襲われて抵抗したようだが、腹部を何度も刺されて殺害されていた。通勤に使われるバッグが奪われたことから、通り魔による強盗殺人と判断された」

 東方は捜査資料を読みながら、無言で周囲を見回している。

「外資系証券会社の社員で高級ブランドスーツを着た女性がこんな裏通りを歩いていたら格好の餌食ですね」

「だが盗られていない」

 笹井の言葉に彼女がええっ、と聞き返す。

「捜査資料によると腕時計に指輪など金目の物が残されていた。もちろん屋外だからいつ誰に見られるかもわからないし、端からバッグだけをひったくろうとしていたのかもしれない。だがバッグを奪うのが目的なら、一度刺しただけで相手は無抵抗になっていたはずだ。それなのに実際には五回も刺している」

「顔を見られたから確実に殺害しようとしたんじゃありませんか?」

「かもしれない。だがそれにしても五回も刺すのは過剰だ」

「まさか単なる物盗りではなく、最初から殺害するつもりだった?」

 笹井はうなずくと大通りの方を向く。

「この道は中島梢のいつもの通勤路じゃない。ということはここで中島梢を待ちかまえていたわけではない」

彼女ははっとして笹井を見る。「まさか、犯人は中島梢をつけていて、ひと気のないところに入ったところで襲い掛かった」

「そう考えると、それにぴったりと合う犯人像の人間がいるよな」

「中島梢の、ストーカー?」

「当時の捜査記録に山崎正彦の名前は一度も上がっていない。中島梢自身もストーカー被害を周囲に訴えたことはなかったらしい。捜査は三週間行われたが犯人はおろか容疑者も挙がらず、未解決のまま事実上捜査は凍結している」

「山崎正彦が中島梢を殺害したんですか?」

「そしてその二週間後に、今度は山崎正彦自身が誰かに殺害された」

 笹井は捜査資料を手にして立ち尽くしている東方を見る。

「どうした、何か気になることがあるのか?」

 笹井の問いに、東方は二人の方へとやってきて無言で捜査資料を渡す。

「大島と杉本だ」

「ああ?」

「見てみろ。中島梢強盗殺人事件。初動捜査にうちも噛んでる。まったく、あいつらちゃんと捜査したのかよ」

 東方の指摘通り、捜査資料には市警察捜査一課の大島班の二人の刑事の名前が記載されている。やれやれと笹井は首を振る。

「市警察に戻ろう」


12:35 a.m.


「大島班は今、例の押し込み強盗の捜査で出ていますよ。新しい目撃証言が出たとこで」

 刑事部屋に戻った三人に制服警官が告げる。何だよ、と笹井は舌打ちをする。

「そう言えば午後から用事があるんだったな?」

「はい。山崎正彦の元恋人に会う約束になっています」と彼女が答える。

「それじゃあそっちは二人で仲良くやってくれ。俺はこいつらに話を聞いてくる」

 笹井は警官からMK-1の鍵を受け取ると刑事部屋を出ていく。

「約束は二時だったか、俺達も出るか」

 彼女は警官から2CVの鍵を受け取ると、ああ、そういえばと言う。

「昨夜、前田由紀子の同僚と連絡が取れ、話が聞けました。実は三週間前、ダウンストリートのカフェで前田由紀子は山崎正彦と思われる男性と揉めていたそうです」

「別れているんじゃなかったのか?」

「はい。ですが山崎は前田由紀子に借金が残っているらしく、返済について話していたみたいですね。それで揉めたらしく大声で怒鳴り合った挙句、山崎正彦が暴力を振るったという目撃証言もあります」

 ああ、と東方が眉間にしわを寄せたところ、制服警官が水沼の元にやってくる。

「ファックスが届いていますよ」制服警官から受け取った彼女はやっぱりとつぶやく。

「これを見て下さい。前田由紀子は山崎正彦に会った日、かかりつけのクリニックを顔面の打撲で受診しています。階段から落ちたと病院側には説明したようですね」

「どうやってクリニックを見つけたんだ?」

「前田由紀子の同僚から、彼女が過去にも怪我で仕事を休んだことがあったと聞きました。病院に送っていったことがあるらしく、クリニックを聞き出し照会をかけたんです。過去の怪我の理由も山崎正彦に暴力を受けていた可能性はありますね」そう言うと彼女はくるくると指で車の鍵を回しながら、「頑張りました」とガッツポーズをする。

 はしゃぐなと言い捨て東方は階段を下りていき、慌てて彼女はその背中を追いかける。

地下駐車場に停めてある2CVに二人は乗り込む。運転席に座る彼女に、助手席でシートベルトを締めながら東方はたずねる。

「運転出来るのか?」

 東方の問いに応えず、彼女はキーを回してエンジンをかける。

「もし仮に、前田由紀子が長年山崎正彦に暴力を受けていたのなら、彼女には山崎正彦に対する殺意があったかもしれません」

 彼女はそう言いながら車を発進させるが、すぐにエンストを起こした車はがたがたと揺れて停車し、東方は大きく前のめりになる。無言で運転席を見る東方に、すいませんと彼女は神妙な面持ちで言う。

「お前本当に、運転出来るのか?」

「大丈夫です」

 信じられない程のろのろと2CVは走り出す。駐車場を出ると車道に入るが、あまりにゆっくりした運転に、後続車が迷惑そうに車線変更して追い抜かしていく。

「カフェで暴力をふるわれたのが事実だとしたら、それが殺人の引き金になった可能性があります。殺意を抑え切れなくなったのか、あるいはこのままだと自分の命が危険になると感じたのか、東方さんはどう思います?」

 彼女が助手席の方を向き、その瞬間「前見ろ」と東方が叫ぶ。

 彼女が踏んだ急ブレーキで車は信号前で急停車し、後続車が一斉にクラクションを鳴らす。東方はくそうとグローブボックスを平手で殴る。

「すいません」

「殺す気か?」

「だからすいませんって」

「お前本当に免許が取れる年なのか?」

「はい」

「十五にしか見えない」

 信号が変り、再び2CVは走り出す。東方は二度と運転中の彼女に話しかけないことを決める。しばらくして再び彼女が口を開く。

「そういえば東方さんって、どうして毎日市警察に泊っているんです?」

「ハンドルから手を離すな」

「離してません」

「どうして泊ったと思う?」

「そのシャツ、昨日と同じです」

「同じシャツを何枚も持っているんだ」

「襟に昨日ついたソースの染みが残っています」

「こっちを向くな。運転に集中しろ」

「ちなみにわたしは二十四歳です」

「だから何だ?」

「免許は取れます」

「誰が信じるんだ、そんなこと」

 ぎこちない走りのまま、2CVはダウンストリートを下っていく。


1:04 p.m


 セントラルパーク付近の歩道には朝から露天商や移動販売車が並び、観光客で賑わっている。その中の一画で、二人の男が露天商相手に詰め寄っている。一人は血気盛んに身振り手振りを交えて相手を攻め立て、横に立つ背の高い男は無言でその様子を見ている。車のクラクションが背後で鳴り、背の高い男が振り返る。車道に一台の古臭い黒い車が停まっているのが見える。運転席の窓が下がり、笹井が手を挙げる。

「左ハンドルかよ」

 杉本は鼻を鳴らすと笹井の方へと歩いてくる。「これ、まだ動いたのか」

「廃車寸前のところ、鑑識課の中にこういうのが好きな奴がいて手入れしたんだとよ。親父の趣味も困ったもんだよな。知ってるか? 十年くらい前に、『市警察捜査一課と世界の名車』なんて特集が雑誌で組まれたらしい。今でも課長室に自慢げに飾ってるぜ」

「それで、朝っぱらから一体何の用だ?」

 あれ、いいのかよ。笹井は杉本に逆に問う。振り返ると大島が露天商の胸倉を掴み、何やらわめいているのが見える。

「大島、もういい。こっちに来い」

 杉本が怒鳴って手招きをすると、大島は舌打ちをして露天商から手を離す。何か思い出したら連絡しろよ。そう露天商の男に念を押すと二人の方へとやってくる。

「お前、普段からそんな捜査をやっているのかよ」

 呆れた笹井の問いには答えず、大島は車のボンネットを手の平でばんばんと叩く。

「このポンコツ、本当に動くのか?」

「二人共、ちょっとデートに付き合えよ」

「何だ、今日は一人か?」大島が車内を覗き込む。

「安心しろ。お前の天敵はいない」

「急用か?」

 杉本の問いに、問題が起きてなと笹井は答える。

「問題があるのはいつものことだろう」

 そう言いながら二人は後部座席に乗り込む。

「今度は何をやらかしたんだ?」

 東方のことじゃない。そう答えると笹井はサイドブレーキを下ろし、車はゆっくりと走り出す。三人を乗せた車は二ブロックほど進んだところで再び停まる。すぐ横の喫茶店に入ると笹井はコーヒーを三つ注文し、店内の一番奥の席に陣取る。レコードが古い音楽を奏でる中、カウンターの奥で店主が一人、コーヒーを淹れている。客のいない店内の所々で橙色のランプがともっているが、昼だというのに薄暗い店内は密談にはうってつけだなと笹井は思う。

「中島梢強盗殺人事件か」

 テーブルの上には三つのコーヒーカップが湯気をたてている。

「この事件ならすでに分署に引き継いだはずだぜ。どうして今頃こんな話を持ち出すんだ?」

 杉本の問いはもっともだ。笹井はここに来た経緯を伝える。

「こっちの事件の被害者が、どうやらこの事件の被害者のストーカーだったらしい」

「まさか、そいつが中島梢を殺害したのか?」

 大島が思わず身を乗り出す。

「こっちのカードは山崎正彦。昨夜、高白区の路地裏で刺殺された。こいつの部屋は中島梢の写真でいっぱいだった。捜査で山崎の名前が挙がったことは?」

 笹井の質問に二人は記憶を探るが、それから揃って首を振る。

「いや、記憶にないな。捜査記録にはどうだ?」

「ないからわざわざお前達に会いにきたんだ。ちなみに前田有紀子、この名前に聞き覚えはあるか?」

「前田、いや、知らないな」

 杉本はしばらく考えてからそう答える。

「中島梢にストーカーがいたとはな。同僚や友人からも、そんな話は一度も出ていない」

 大島がそう答えると、ちゃんと調べたのかよと笹井は皮肉めいた口調で言う。

「遺体発見時、雨で現場の物証は流れ目撃証言もなし。近くに監視カメラもなければどうしろと言うんだ?」

 不機嫌そうに言い返す杉本に、当時の事件でそっちの有力な容疑者はと笹井はたずねる。

「それならこいつだな」

 杉本は捜査資料をぱらぱらとめくり、一人の男の写真を指差す。高級スーツに身を包んだ灰色の髪の毛を後ろに撫でつけた男。コロンが写真からも匂ってきそうだ。とても仲良くはなれそうにない。

「絶対に久保田が犯人だと思ったんだがな」大島が忌々し気に言う。「典型的な自己愛性人格障害。あんな胸糞悪くなる奴はそうはいない。お前の相棒を除いてな」

「それはなかなかの逸材だな」笹井は他人事のように言うとコーヒーをずずと音を立ててすする。

「久保田拓真は中島梢の上司で、彼女とは不倫関係にあった」大島の言葉に笹井はどっち、とたずねる。「結婚していたのは中島梢。男の方は独身だ。言っておくが、殺された中島梢自身も大した女だぞ。次々と上司と関係を持ってはその度に昇進を重ねていった。自分が利用されていることに気付いた久保田拓真は関係を解消、彼女はその後、部署が変わることとなったが、報復人事だと組合を通して会社側を提訴した」

「まさに泥仕合だな。久保田はそれで中島梢殺しの容疑者に?」

 そんなことで、と言わんばかりに聞く笹井に杉本が淡々と答える。

「そんなことぐらいで殺すのか、もちろん普通はしない。だが犯人がこの男であるならば事情は変わる。こいつならやりかねない」

「ずいぶんと嫌われたものだな」

「若くして一流外資系企業の管理職。間違いなく優秀な男だが、それをひけらかさずにはいられないプライドの高い鼻もちならない嫌な奴だ。あの男にとって、他人は利用するものであって、自分が誰かに利用されるなんて絶対に許せないことだ。その挙句に報復人事だと提訴されたとなると、動機は十分だ」

「だが、犯人じゃなかった」

 笹井の言葉に、二人は不満げにうなずく。

「ああ、奴には完璧なアリバイがあった。事件当日は出張で海外にいた」

「それはこの物理的世界ではどうにもならないな。他に容疑者はいなかったのか? 大体、不倫の解消に報復人事に報復提訴、ひどい泥仕合だが提訴すれば自分の不倫を吹聴して回るようなものだろう。中島梢の夫は黙っていたのか?」

 殺害の動機があるのは夫も同じだろうと笹井は思うが、二人はそれを否定する。

「中島梢の家庭はとうに崩壊している。夫は夫でちゃんと愛人がいるしな。不倫を知ったとしても殺人の動機にはならない」

「二人が離婚していなかったのは単に中島梢がキャリアに傷がつくのを嫌がっていたからに過ぎない。二人は割り切った仮面夫婦で、お互いの私生活には一切、干渉していなかった。浮気ぐらいでは殺したりしない」

 それで、と笹井はイスに背もたれると二人を見る。

「他に有力な容疑者は現れず、単純な通り魔強盗として分署に押し付けたのか?」

「俺達だって本意じゃねえよ」杉本は不機嫌そうに言う。「だが事件現場は高白区分署の目と鼻の先、連中の方が土地勘もあるし必要以上に市警察本部が分署の捜査に首を突っ込めば、それが面白くない連中だっているさ」

「まぁ、俺達は人気者とは言えないよな」

「納得がいっていないのは俺達も同じだ。単なるバッグを狙った通り魔が、あんな滅多刺しをするはずがない。あれは明確な殺意を持って行われた処刑だ。だとしたら俺達が捜査をすべき、その通りだが、」

「上からの命令、」まあ仕方ないよなと笹井は二人を見る。「別にそのことを蒸し返すために来たんじゃない。お前達にこっちのカードを切ったのは、俺達の事件で何か手掛かりが出れば、そっちの事件の捜査も再開出来ると伝えるためだ」

「お優しい心遣いに涙がこぼれそうだな」

「コーヒー代で勘弁してやるよ」

 笹井は最後にわざと音を立ててコーヒーを飲み干すと伝票を二人の目の前に置いて立ち上がる。資料を鞄に押し込む笹井に大島がたずねる。

「そう言えばあいつは一体、何をやっているんだ?」

「何って、何?」

「この何日かずっと市警察に泊まり込んでいるだろう」

 笹井はさあと肩をすくめてみせる。「俺はあいつの保護者じゃないからな」

「ちゃんと見張っとけよ。この間も鈴下に嫌な絡み方しやがって。いいか、鈴下は俺の班の刑事だ。指導は俺達がやる。そうやって新人いびりするから、お前の班には若いのが居つかないんだ。あのお嬢ちゃんだってそのうち逃げ出すぞ」

「もう三週間ももってる。新記録だよ」

 そう言うと笹井は、それじゃあなと店から出て行く。


1:26 p.m.


 前田由紀子が住む単身者向け二階建てアパートの前で車は停まる。

周囲には似たようなアパートがいくつか並んでいる。一階の前田由紀子の部屋のチャイムを鳴らすと、彼女は化粧もそこそこに、疲れた顔で二人の刑事を六畳一間のアパートに招き入れる。学生時代から住んでいるらしく、本棚には大学の教科書なども並んでいる。狭い台所の小さな机に三人は顔を向かい合わせるように座る。

「お忙しいところ、ご協力に感謝します」

 東方のお定まりの言葉に、前田も深々と頭を下げる。

「新聞で読みました。彼、誰かに殺されたんですね」

「お察しします」

「いろいろなところからお金を借りていたようですし、揉め事だってしょっちゅうありました。それで、今日は一体何のご用なんでしょうか?」

「山崎正彦さんとのお付き合いについて、いくつかお尋ねしたいことがありまして」

「もう半年以上前に別れました」

「別れてから連絡は?」

「時々。彼に貸したお金がまだずいぶんとそのままになっていましたので」

「返済は振り込みで?」

 東方の問いに、彼女の表情が曇る。

「何故、そんなことを聞くんです?」

 前田由紀子はすっと上半身を後ろに引き刑事との間に壁を作る。東方は隣に座る水沼をちらりと見る。彼女はうなずくと東方の質問を引き継ぐ。

「三週間前の水曜日、24丁目のカフェで山崎正彦さんとお会いになりましたか?」

 質問をするのが女性になったことが多少は警戒心を解くのか、少し考え込んだあと彼女は水沼の質問に答える。

「はい。私も奨学金の返済とかぎりぎりの生活なんです。少しでもお金を返してほしいと頼みに行きました。これまでも彼は理由をつけて全然返してくれなくて」

「その日、山崎正彦さんと言い争いになったという証言がありますが」

 彼女の表情が一瞬で固まり警戒心を露にする。「何をおっしゃりたいんですか?」

「左頬、うっすらとですがまだ痣が残っていますね。どうされたんですか?」

 彼女は思わず左頬を触る。

「ちょっとぶつけてしまって、」

「彼に暴力をふるわれたんですか?」

 前田はしばらく黙ったあと、いいえ、と首を振る。「ぶつけただけです」

「これまでにも何度かクリニックを怪我で受診されていますよね。もしかして、以前から彼に暴力を振るわれていたんじゃありませんか?」

「そんな話は知りません」

そうですか。水沼は一度、彼女の表情をじっと見たあと手帳を開く。

「三週間前にカフェで会って以降、どこかでお会いになりましたか?」

「いいえ、会っていません。あの、もう、いいですか?」

 そう言うと彼女は顔を背け、完全に話をするのを拒絶する態度を見せる。だがここからが核心だ。話を聞かないわけにはいかない。

「山崎正彦さんの死亡推定時刻は一昨日、十一日の二十三時頃です。その日、あなたは何をされていましたか?」

「アリバイ、ですか? 私を疑っているんですか」

 心なしか彼女の握る手が震えている。

「形式的な質問です。事件関係者全員に質問しています」

「私は関係者なんですか?」

「はい」

 水沼の言葉に彼女はうつむいたまま、絞り出すように言う。

「はっきりと覚えていません」

「ご自宅にいましたか、それともどこかに出掛けていましたか」

「ここにいました。翌日が出張だったので、早くから眠ってしまっていました」

「誰かと一緒でしたか?」

「家にいる時は、いつも一人です」

 そうですか。水沼はうなずく。

「信じていないんですね」

「山崎正彦さんに話を戻しましょう。彼のことをどう思っていましたか?」

「どうって、彼の借金の保証人になって、借金取りがここに来たこともありました。いい別れ方ではありませんでした」

「恨んでいましたか?」

 水沼の質問に彼女は黙り込むと、それからぞっとするような目つきでつぶやく。

「出来ることなら私がこの手で殺してやりたかった。これで満足ですか?」

 彼女のあまりにも明け透けな態度に、水沼は固まってしまう。黙って見ていた東方は助け舟を出すように会話に割り込む。

「ですが、あなたは殺していない」

「もちろんですよ」

 そうですか、東方はうなずくとそれからはっきりと彼女に告げる。

「信じますよ」

「何故?」

 彼女は二人の刑事を冷たい目で見つめたままたずねる。

「あなたは嘘をついているようには見えません」

 彼女は一度、眉をひそめたあと、感情を押し殺したような声で言う。

「警察ってやっぱりいい加減ですね」

 東方はちらりと水沼と顔を見合わせる。

「質問はあと二つです。山崎正彦さんが殺害されたのは田島町の路地裏です。その場所に何か思い当たることがありませんか?」

 水沼の問いに、彼女は淡々と答える。

「田島町なら私の職場の近くです」

「大通りとの交差点、花屋があるのはご存じですか?」

「はい」

「現場は花屋の横にある路地裏です」

 彼女は口元を覆うと黙り込む。しばらくして彼女はうつろな目でつぶやく。

「何度かその店には行ったことがあります。いいお店だったのに、」そう言うと彼女は冷たい目つきでつぶやく。「もう行けなくなっちゃったな」

 水沼は手帳に挟んでいた一枚の写真を机の上に置く。山崎正彦の部屋にあった中島梢の写真。

「この女性に見覚えはありませんか?」

 ちらりと見ると、彼女はいいえ、と首を振る。そうですか、と水沼は写真をしまうと東方と目を合わせる。東方はうなずき水沼も手帳を閉じる。これ以上、話を続けるのは無理だろう。

「お忙しいところ失礼しました。大変参考になりました」

 玄関で靴を履いたところで、水沼がそうだ、と彼女にたずねる。

「山崎正彦さんが亡くなって、貸していたお金はどうなるのでしょうか?」

「もうあきらめています。忘れたいんです、彼のことも、何もかも」

「そうですね」

 二人が外に出たあと、ドアノブを握った彼女は言う。

「もう、ここには来ないで下さい」

 ばたん、と扉が鼻先で閉じられ、二人の刑事は無言でアパートをあとにする。


2:21 p.m. 


 体を震わしながら2CVは街を走る。

水沼は助手席に大人しく座っている。ハンドルを握る東方がたずねる。

「どう思った?」

「彼女、ですか? かなり精神的にまいっているようですね」

「そんなことを聞いているんじゃない」

「怪しい、と思いました」

「何故そう思う?」

「被害者を殺害する動機、被害者の身元を隠す動機の両方があります。殺害現場は職場の近くで土地勘があり、事件当夜のアリバイもなく、三週間前に暴力をふるわれています」

「犯人候補としては申し分ないな」

「はい、」

「十分過ぎる。疑ってくれと言わんばかりだ」

「疑わし過ぎるから犯人ではない、ということですか?」

「山崎正彦を殺せば金は戻らない」

「たしかにお金は必要でしょうけど、あの情緒不安定な様子、一時の感情が理性を上回っても不思議はありません」

「彼女が情緒不安定なこと自体は問題じゃない。問題は、彼女が感情的だったのは山崎正彦に対してだけじゃない、ということだ」

「どういう意味です?」

「考えろ」

 そう短く答えると東方はそれっきり黙ってしまう。

市警察が見えてきた頃、唐突に東方がたずねる。

「臭うか?」

「彼女のことですか?」

「違う。俺のシャツのことだ」

「はい。あ、でも少しだけですよ」

 あっそ。

東方はふんと鼻を鳴らすと、それ以降しゃべるのをやめる。


2:37 p.m.


 高白区には空に届きそうなほどの高層ビルが乱立しているが、中島梢の勤めていた証券会社はそんなビル群の中でもひときわ高くそびえ立っている。ガラス張りのビルをエレベーターで三十二階まで上がり、笹井が通されたのは大きな会議室で、窓からは同じように背の高いビルが並んで見えている。しばらく待っていると、皺ひとつない高級そうなスーツに身を包んだ男が部屋に入ってくる。足早に近付くと、中島梢の元上司、久保田拓真が言う。

「警察が一体何の御用ですかな。あまり時間がないのだが」

 挨拶もそこそこにイスに座ると笹井にも促す。笹井は名刺を渡しながら、市警察の笹井ですと答える。久保田は名刺を見もしないで机の上に置くと、挨拶は結構ですと釘を刺す。

「警察の方にはすでに十分にお話したはずだが」

「いいスーツですね。市警察の安月給ではとても手が出せそうにない。どこのですか?」

「オーダーメイドだよ。人の上に立つ人間にはふさわしい格好というものがあるからね」久保田はそう言うと、机の上の名刺を一瞥する。「たしか事件の担当は大島刑事だったはずだが」

「担当が変わったのでご挨拶に伺いました」

「それはご丁寧にどうも。犯人が逮捕されたとでも聞けるのかと期待していたのだが、どうやら期待外れだったようだな」

「期待に応えられず申し訳ありません」

「顧問弁護士からは、捜査が打ち切りになったと聞いているが」

「まさか。捜査は現在も続いています」

「何よりだ。それでは刑事さん、ええっと笹井刑事だったか、挨拶だけなら私はこれで失礼する。暇ではないので」

 そう言うと久保田は立ち上がろうとする。

「実はアリバイの件なんですが」

「私のアリバイ?」

「担当が変わったのでもう一度、確認させていただきたいんです」

 あからさまに久保田は迷惑そうな表情を浮かべる。「それは冗談か何かかね。前任者から詳細を申し送られていないのかね?」

「お役所仕事って奴は本当に。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、再度確認させて下さい」

 久保田は腕時計を見ると、横柄な口調で言う。

「三十秒やろう」

「三十秒、ですか?」

「もう始まっているよ、笹井刑事」

 チクタクチクタク。なるほど、と笹井は背筋を正すと手帳を見ながらたずねる。

「では早速。中島梢さんが殺害された日、あなたは海外にいた」「ああ」「会社の出張で、」「ええ」「お一人で行かれた」「そうだ」「向こうではずっとお仕事を?」「観光はしたが」「観光中はずっとお一人で?」「笹井刑事、君は先程から時間を無駄にしてばかりだな。まさか私が観光の合間に一度帰国し彼女を殺害してまた出国した、そう言うのかね?」「いいえ、そんなことは。そうなんですか?」「すでに私のパスポートは提出済みのはずだ。私は出張中、ずっと外国にいたよ」「たとえば海外で偽造パスポートを手に入れ、それで一度こちらに帰国する。彼女を殺害しその後、偽造パスポートで再び海外に戻ったとしたらどうでしょうか? 向こうで偽造パスポートを処分すればアリバイが作れます」「なるほど。それで私が偽造パスポートを使用した証拠でも見つけたのかね?」「いいえ」「私は観光中も取引先の人間とずっと一緒にいた。夜、ホテルの自室に戻った時間以外、常に誰かが隣にいたが、たとえ偽造パスポートを持っていたとして、一晩で帰国して彼女を殺害し、また出国することは不可能ではないかね。取引先の相手には確認をとったかね?」「いいえ、それがまだでして」「前任者以下の返答だな」「面目ありません。取引先の方にも連絡をとってみます。いやあ、完全にお手を煩わせてしまいました。お忙しいところ、失礼いたしました」

 笹井はそう言うと、愚鈍な刑事よろしくのっそりと立ち上がる。久保田も同じく立ち上がると腕時計を見る。

「三十秒は過ぎたな。次からはもっと時間を有効に使うことをお勧めする」

 そうします、笹井が片手を上げてみせると、久保田はカード入れから一枚の名刺を取り出して笹井に手渡す。

「私と同じスーツを作りたければこの店に行くといい」

「恐縮です。いただいておきます」

「それでは失礼」

 久保田は踵を返すと足早に部屋から出て行こうとする。久保田が扉に手をかけたところで、笹井が呼び止める。

「そうだ、もう一つだけ」

 立ち止まった久保田はため息をついて振り返る。

「笹井刑事、三十秒はもう過ぎたよ」

「すいません。最近どうも物忘れがひどくて。中島梢さんが亡くなられて、件の訴訟はどうなりましたか?」

「無論、却下された」

「それはおめでとうございます」

「彼女が亡くなったことを私が喜んでいる、そう言いたいのかな?」

「まさかそんなことは。そうなんですか?」

「彼女は優秀な部下であり大事な友人だった。彼女の死は私にとっても会社にとっても多大な損失で、もちろん悲しんでいる。満足かね?」

「はい、満足しました。今の言葉を聞いて彼女も喜んでいるでしょう」

「ではこれで」

「すいません。今のは単なる前置きでして。私が聞きたいのは、」

 久保田は苛つきを隠すことなく、声を荒げる。

「いい加減にしたまえ。君はどれだけ私の時間を無駄にすれば気が済むのだ? 私の時給がいくらか知っているのかね。今、この瞬間にもこの会社がどれだけの損害を被っているか」

「知りません。いくらですか?」

「君の給料では払い切れない金額だ」

「それでは早口で」

 笹井はそう言うと、久保田に一枚の写真を手渡す。

「こちらの写真を見ていただきたいんです」

「これは?」

「実は、中島梢さんの事件で新たな容疑者が浮上したんです。この男、彼の部屋から中島梢さんの隠し撮りの写真が大量に見つかったんです」

 ほお、久保田が相貌を引き締める。

「私達はこの男は中島梢さんのストーカーだと考えています。どうでしょう、この男に見覚えがありませんか? あるいは中島梢さんからストーカーの話を聞いたことはありませんか?」

「いや、知らんな」

 そう言うと、久保田は写真を突き返す。

「どうしました? 顔色が悪いですが」

「彼は死んでいるのか?」

 え、笹井はそう言うと写真を見て、それからばつが悪そうな表情で答える。

「そうなんです。実は、生前の写真が手に入らなくて」

「君は死体の写真を持ち歩いて、いや、もういい。なんて非常識な」

 それから久保田は怒りをあらわにして笹井に告げる。

「そんな男は知らない。写真はもうしまいたまえ。死体の写真だと、何を考えているんだ。殺された人間の写真なんて不愉快極まりない」

「失礼しました。質問は以上です。いや、大変お時間をとらせてしまって」

「後学のために一つ忠告しておこう。世の中には二種類の人間がいる。上に立つ人間と、それに使われる人間だ。私は何千人もの部下を従えている。私は人の上に立つ人間で、君は公僕、市民に使われる人間だ。君のとるに足らないくだらない質問で私の貴重な時間を無駄にすることは許されない、あってはならないことだ」

「重ね重ね失礼いたしました」

「帰り道はわかるな。必要なら警備員を呼ぶが」

「いえ大丈夫です。ご親切にどうも」

 腕時計をもう一度ちらりと見ると、久保田は盛大にため息をつき足早に部屋を出て行く。扉が閉まる音がするまで、笹井は深々と頭を下げる。大島と杉本もたまには正しいことを言う。こいつは間違いなく嫌な奴だ。


4:12 a.m.


 未未市警察捜査一課の刑事部屋に戻ってきた東方と水沼を待ちかまえていたかのように、制服警官がやってくる。

「東方さん。鑑識が呼んでましたよ」

「鑑識が?」

「ズボンの件だと言えばわかる、そうおしゃってましたが」

 ああ、とうなずくと東方は水沼に言う。「ちょっと行ってくる。お前はさっき俺が言った意味を考えていろ。いいな、考え続けろ」

 それから東方は刑事部屋を出て行く。

 一人刑事部屋に取り残された彼女は、唇を尖らせると古いソファにどっかりと腰を下ろす。使い込まれた革張りのソファの表面には細かなひびがいくつも走っている。

彼は言った。「彼女が情緒不安定なこと自体は問題じゃない。問題は、彼女が感情的だったのは山崎正彦に対してだけじゃない、ということだ」どういう意味だ? 前田由紀子との会話の中で、一体何に引っかかったというのか。彼女が一人考え込んでいると、そこに笹井がやってくる。彼女の向かい側のソファに座ると、笹井は彼女にたずねる。

「何だ、一人か。東方は?」

「鑑識課に呼ばれました」

 ふうん、と答えながら笹井は机横の新聞置きに手を伸ばす。ぱらぱらと今朝の新聞をめくる笹井に彼女はたずねる。「何か、収穫はありましたか?」

新聞をめくりながら笹井は答える。「中島梢の事件は未解決の通り魔殺人という形で捜査は事実上の打ち切り。捜査線上に唯一上がった容疑者には完璧なアリバイがある。山崎正彦があの事件の犯人であれば俺達は表彰物だが、そんなに単純にはいかないさ」

「山崎正彦に、中島梢殺害時のアリバイはあるんでしょうか?」

「不定期の仕事しかしていない独身の一人暮らし。二週間前の行動なんて、今から知りようがない」

「まさに死人に口なし、ですね。中島梢の奪われた鞄でも出てくればいいんですが」

「とっくに処分してるさ」

 そう言いながら笹井は新聞を机の上に置く。

「見てみろよ。大島班が追ってる押し込み強盗の記事、一面だぜ」

「ああ、たしか投資家の若い男性が、自宅でめった刺しにされたって」彼女はそう言いながら新聞を覗き込む。「山崎正彦の事件も載ってますかね」

「たしか昨日の夕刊に載っていたぞ」笹井はそう言うと新聞置きの中から抜き出した夕刊を彼女に手渡す。「地方欄を見てみろ」

「ほんとだ。ずいぶん小さい記事ですね。一応名前も載っていますが、同じ刺殺でも扱いはずいぶん違いますね」

「借金まみれの無職の男が刺されただけじゃあ、一面には程遠いさ」笹井はソファにもたれかかると大きく伸びをする。「前田由紀子の方は何か収穫があったか?」

「事件当日のアリバイはありません。山崎正彦に恨みはあるようですが、彼が死ぬと彼女自身が貸していたお金は帰ってきません。ですが、男女の問題ですから。理性的に振舞うとは限りません」

「それはそうだな」笹井は彼女をじっと見ると、何か気になるのかとたずねる。

「彼女、過去にも山崎正彦から暴力をふるわれているのに一度も警察に通報していないんです。最初は単に山崎のことを恐れているのかと思いましたが、山崎が死んだ今でも暴力の被害者であることを否定しています。わたし達に対する受け答えを見る限りなかなか気が強そうですが、それでもなお暴力を受けたことを否定しているのは、かわいそうな自分が許せないからじゃないでしょうか。プライドが高く芯の強い女性です。被害者になることを拒む性格が暴走すれば、加害者になっても不思議はありません」

「通報しなかったのは単純に山崎正彦に怯えていたからで、今なお暴力を否定するのはそれによって自分が容疑者になることを恐れているから、俺にはそう聞こえるがな」

「もちろんわかっています。ですが、何か彼女には引っかかるんです。何かを隠しているように思えます。単なる女の勘って奴ですけど」

「まあ、俺達の世界では勘も大事な武器の一つさ」

 それから彼女は真剣な面持ちで一人考え込む。

 何やら難しい顔をしている彼女に笹井は小さく笑ったあと、それで、とたずねる。「昨日からの二人旅は楽しくやっているか?」

「いまだに慣れませんよ」と彼女は唇を尖らせる。それは本心だろうと笹井は思う。

「安心しろ。俺もいまだに慣れていない」

 笹井は飄々と言うが、彼女には深刻な問題だ。出会って三週間も経つというのに、いまだに東方の前に立つとしょっちゅう嫌な汗を背中一杯にかく。目の前の先輩とは大分打ち解けたというのに。

「わたし、東方さんに嫌われてます?」

 自分で聞けよ、と笹井は意地悪く笑う。

それから彼女は再び黙って考え込む。

両肘を自分の膝の上に乗せて頬杖をついた彼女の脳裏に前田由紀子の姿が浮かぶ。たしかに前田由紀子には引っかかる。ただし、前田由紀子が山崎正彦に殺意を抱いていたとしても、実際に殺害するとなるとハードルは決して低くない。彼女一人で殺害出来たかどうかには疑問が残る。一方で共犯者がいたとも思えない。前田由紀子は事件翌日から出張に出ている。共犯者がいるのなら出張に出たあと殺してアリバイを作ったはずだし、計画的殺人であるなら殺害場所に自分の職場近くを選ぶというのも不自然だ。

だとしたら前田由紀子は冷酷な殺人鬼で、たった一人で山崎正彦を計画的に殺害したのだろうか。そして中島梢も彼女の手によって。いや、待て、違う、飛躍し過ぎだ。わたしは今、前田由紀子が怪しいというわたし自身のちょっとした思い付きに捕らわれ過ぎている。もっと冷静に事件の構造そのものを見るべきだ。山崎正彦殺害事件と中島梢殺害事件。二つの事件が無関係とはとても思えない。だとするとこの二つの事件の構造その物に意味があるはずなんだ。

「ちょっと思ったんですけど、たとえば、山崎正彦が中島梢のストーカーで、普段から彼女を尾行をしていたのなら、中島梢が殺害される瞬間を偶然目撃した可能性ってありませんか?」

「あるかもな」

「中島梢は本当にただの通り魔に殺害され、ストーカーである山崎正彦はその通り魔に復讐しようとした。そして逆に返り討ちにあった」

「面白い考えだが、あり得ない」

 笹井は一瞬で彼女の案を却下する。

「何故です?」

「お前の言う通りであれば、中島梢殺害犯と山崎正彦殺害犯は同一人物ということになる。だがこの二件は殺害方法があまりにかけ離れている」

「二人共ナイフで殺されていますよ」

「中島梢な何度も刺されている。犯人は余程強い恨みを抱いているか、生き返るのが怖くて何度も刺した素人かだ。だが当時の捜査で中島梢の周辺で怨恨の動機を持つ唯一の容疑者には確固たるアリバイがある。とすると犯人は生き返るのが怖くて何度も刺した素人の可能性が高い。一方で山崎正彦にはためらいなく胸に一突き。たった二週間で、これほど劇的に殺し方が変わるほど成長するとは思えない。同一犯の可能性は低い」

 そうでね、とつぶやいた彼女はそれから眉間にしわをよせる。

「中島梢を殺害したのが山崎正彦以外の人間で、二つの事件が関連しているのなら同一犯と考えるのがしっくりきます。ですがその可能性が低いのなら山崎正彦が中島梢を殺害したという前提に立って考えるべきです。ただ、」あの山崎正彦の部屋の異様な様子を見た時に抱いた違和感を彼女はまだ拭いされないでいる。「ずっと気になっていたんですが、山崎正彦は本当に中島梢のストーカーなのでしょうか?」

 ほお、と笹井が興味深そうに彼女の顔を覗き込む。「何故、疑問に思う?」

「中島梢殺害事件の当時の捜査でも、中島梢はストーカー被害を訴えていないんですよね」

「ああ。周囲に相談した形跡もない」

「若くして外資系企業でのし上がってきた女性です。性格的にもストーカー被害を泣き寝入りするとは思えません。単純に気付いていなかった可能性もあると思いますが、それでもやはりあの写真には違和感があります」

 笹井は中島梢事件の捜査ファイルに挟んでいた、山崎正彦の写真を取り出し机の上に並べる。「何が気になる?」

「この写真を撮ったのは山崎正彦で間違いないはずです。ただ、その上手く言えないんですが、」そう言うと彼女は一度口を閉じる。唇を尖らせ何かを考え込む様子を見せる。笹井は口を挟まず黙って彼女が再びしゃべりだすのを待つ。しばらくして彼女は言う。「大学時代にストーカー被害にあった友人がいるんです。ストーカーは元バイト先の先輩だったんですが、いろいろな人を巻き込んで、わたしも大変な目に遭いました。その時に痛感したんですが、ストーカーの一番の問題は悪意がないことだと思うんです。向こうの言い分では、自分はただ見守っていただけだと、冗談じゃないって感じですが、往々にして彼等にとっては相手を想うからこその行動で自分の行為が対象者を傷つけていることには無自覚なんです。つまり、対象者への執着が理性的な判断を狂わせてしまっているんです」

「まあ、よくある話だな」

「あの男だって初めから理性がなかったわけじゃないと思うんです。執着が理性を壊したんです。そして執着は普段、繰り返し目にすることで生まれます。だから有名人などの偶像に対するストーキングを除けば大抵は顔見知り、知り合いが対象です。中島梢は有名人じゃありません」

「まあ、二人が顔見知りかと言われれば、山崎正彦は借金まみれのフリーター、中島梢はアッパーストリートの一流企業のキャリアウーマン、たしかに生活圏はかけ離れ過ぎているよな」

「そもそも二人に接点がなければファンタジーは生まれません」

「だが出会いなんてどこにでもあるだろう。中島梢は公共交通機関を通勤に利用していたからな。同じ電車に乗っていて出会っても不思議はない」

「はい。ただ、山崎正彦が使っていた現像屋に確認出来た中島梢の写真は、わずか一カ月間で撮影された物でした。中島梢殺害事件が山崎正彦によるストーカー殺人であるならば、たった一カ月で殺人に至るほど執着がエスカレートしたことになります。壁に貼られた物以外にも大量の写真が残されていました。山崎正彦は信じられないほどの枚数の写真を撮影しています。つまりわたしが問題にしているのは、たった一カ月で執着が異常なまでにエスカレートしているのに、あの写真自体は執着がエスカレートした人間が撮った写真とは思えないということです」

 笹井は怪訝そうに眉をひそめる。そして写真をしばらく眺めたあと、そうかとつぶやく。「中島梢は公共交通機関を使っていました。つまり、あとをつけようと思えば出来たはずなのに、あるべき写真がないんです」

「プライベートの写真が一枚もない」

 はい、と彼女はうなずく。

山崎正彦の部屋にあったのは、すべて会社周辺、通勤の様子や会社周辺で外食をしている様子の写真ばかりで、自宅周辺で撮られた写真が一枚もない。

「始まりが通勤中の一目ぼれだったとしても、執着がエスカレートすれば次にはプライベートの写真を撮るはずです。写真がエスカレートしていないんです。これはストーカーが撮った写真というより、もっと理性的に、冷静に観察しているかのような写真に見えるんです」

「獲物を狙うような写真、ということか」笹井はうなずく。「中島梢は実際に、通勤中に人気のない道にはいったところを襲われている。中島梢を殺害するつもりで観察していたというのはあり得るな」

 それから笹井は写真をとんとんと束ねながら、整理しようと言う。

「中島梢殺しと山崎正彦殺し。この二つの事件がまったく関連性がないそれぞれ単独の殺人事件である可能性はかなり低い。二週間の間に起きた二つの殺人事件で片方の被害者の部屋からもう片方の被害者の写真が大量に出てきて、二つの事件が無関係だということは、通常あり得ない」

「そうですね」

「通常あり得ないことは、やっぱりあり得ない。殺害方法から同一犯とも思えない。山崎正彦の部屋の写真とも考え合わせると一番可能性が高いのは、山崎正彦が中島梢を殺害し、その後、別の誰かに山崎正彦が殺害されたことになる」

「はい」彼女は力強くうなずく。

「では山崎正彦を殺害した犯人とはどのような人物か。もし山崎が中島梢を殺害したことに関連する人物であるならば、」

「復讐、ということですか?」

「そうだ。だがその場合、問題は、犯人はどうやって山崎による中島梢殺しを知ったかだ。当時の中島梢殺しの捜査で山崎正彦の名前は一度も上がっていない。警察の捜査でも知り得なかったことを犯人はどうやって知ったのか」

「犯行を見ていた、とか」

「普通は殺人を目撃すれば通報する」

「実際に中島梢のストーカーだったんじゃないでしょうか。中島梢のあとをつけていた人物は二人いた。山崎正彦による殺害を本物のストーカーが目撃し復讐した」

「だがお前の言葉を借りれば、警察に通報せず自らの手で山崎を葬ろうとするのは、それこそ中島梢への執着が極まっていると言える。そんなストーカーの存在を本人も周囲も誰も知らないなんてことがあるだろうか」

 たしかに。彼女はあっさりと同意する。「そうなると、中島梢を殺害したのが山崎だとしても、山崎が死んだのは単なる金銭トラブルによるもので、中島梢殺害とは無関係と考えた方がしっくりきますね」

「二週間という期間を無視すればそうだろうな。だが二つの殺人がたったの二週間しか空いていないのはやはり偶然にしては出来過ぎている。しかも中島梢のバッグを持っていったのなら、少なからず現金を手に入れたはずだ。借金の返済に少しでも充てたのなら、普通、金貸しは殺したりしない」

 笹井の言葉はもっともだ。だがそうであるならばやはり前田由紀子が疑わしいということにならないだろうか。彼女がそんなことを考えていると東方が刑事部屋に戻ってくる。

「どこに行っていた?」

笹井の問いには答えず、東方は水沼を押しのけるように彼女の横にどっかりと座る。それから東方は横で小さくなっている彼女にたずねる。

「俺が言ったことの意味がわかったか?」

「彼女が感情的だったのは山崎正彦に対してだけじゃない、ですよね。すいません、まだわかっていません」

「考え続けろ」

 彼女にそう言うと、東方は机の上に手にしていた資料を置く。

「何だそれ?」

「山崎正彦が中島梢を殺害した証拠だ」

 何、笹井が思わず体を起こし前のめりになる。彼女も呆気に取られたかのように口を開けて東方を見る。

「山崎の衣服から血痕が出た」

「待て。犯行に使用した衣類が、部屋に残っていたのか?」

「当日は雨が降っていたからカッパか何か着ていたはずだが、それでも犯行に使用した衣類は通常処分する。だが食う物にも困っていた金のない山崎正彦は、一見汚れていない衣類を残していたんだ。現場から立ち去る時に凶器をそのままポケットにしまったんだろう。ズボンのポケットの内側に血痕が残っていた」

「何とね。山崎正彦が中島梢を殺害したのは決定か」

「大島達に早く教えてやった方がいいんじゃないのか?」

「コーヒー代だけでは足りないな」

 そう言うと笹井は立ち上がる。


5:33 p.m.


未未市警察捜査一課課長室に刑事達が集まっている。

 笹井達が示した証拠に、大島と杉本は唸り声を上げる。

「中島梢の血液型と一致したのか?」

 課長の問いにええ、と笹井はうなずく。

「山崎正彦の血液型とは不一致です。衣類の表面に血痕はなく、ポケットの中だけに血痕があり偶然ついた物とは思えません。他人の血液の付着した物を直にポケットに入れたことになりますが普通はためらいます。殺害現場から急いで逃げる際に凶器をしまいでもしない限り、そんなことは起き得ません」

「DNA鑑定は?」

「正式な結果が出るまで二週間はかかりますが、写真も合わせて考えればまず中島梢の血痕で間違いないでしょうね」

水沼桐子は思う。証拠とは殺意の残滓だ。殺意そのものは目に見えないがどこにでも残る。犯行現場に、凶器に、犯人の衣類に必ず残る。そして時に殺意は目に見える形で残ることがある。それを嗅ぎ分けるのが殺人課刑事の仕事なら、東方日明は猟犬なみだ。

「高白区分署には通達済みか?」

「ええ、」と杉本がうなずく。「中島梢事件の捜査を正式に再開するように指示は出しています」

「当時、もう少し捜査をするべきだったな」課長は渋い顔で言う。

「今更言っても仕方ありませんよ。彼等も常に人手不足ですからね」

大島が分署をかばうように言うが、課長は間髪入れずに言い返す。

「お前達二人に言っているんだ」

「捜査権を高白区分署に移したのも、捜査の中止を決めたのも上からの命令です。俺達に当たるのは理不尽ですよ」

 そこに扉がノックされ、一人の制服警官が失礼します、と部屋に入ってくる。「東方刑事。先程頼まれていたものです」警官は東方に書類を渡すと、再び失礼しました、と部屋から出ていく。

「話を戻しましょう」笹井が割って入る。「山崎が中島梢を殺害したのは間違いないでしょう。そうなると問題は殺害の動機です。水沼が指摘した通り、あれがストーカーの撮影した写真ではないのなら、普段まったく接点のない相手を何故殺害したのか」

「そして、その二週間後に山崎正彦を殺害したのは誰なのか、ということだな」

 課長はイスに背もたれると腕組みをし、難しい顔で小さく息を吐く。

「現状では前田由紀子以外に山崎正彦殺害の容疑者はいないのか」

「一応、山崎に金を貸していた金融業者については生活安全課と連携を取っていますがね」

彼等の会話を水沼は神妙な面持ちで黙って聞いている。その時、背後で東方が、これはどういうことだ、とつぶやくのが聞える。振り返ると先程警官から受け取った書類を手にしたまま、東方が目を見開いている。何かあったのか? しばらくすると東方はくっくと肩を震わせるとそれから笑い出す。甲高い下品な笑い声が上がり、課長室の刑事達はぎょっとした顔で東方の方を向く。

「警察ってやっぱりいい加減ですね」

 東方はそう言うと全員を見回す。

「何だ、どういう意味だ?」

 課長が聞き返すと、東方はうれしそうに答える。

「そう言った奴がいたんです。犯人がわかりましたよ。これからたしかめてきます」

 そう言うと、おもむろに踵を返し部屋から出ていく。呆気に取られる刑事達の中、笹井が水沼についていけ、と告げる。はい、と彼女は慌てて東方を追い、ばたんと扉が閉じられると笹井はやれやれと頭を振る。


5:42 p.m.


「東方さん、待って下さい」

 背後から呼び止められて階段の途中で東方は足を止める。振り返ると、おかっぱ頭の小柄な少女が、体型には不釣り合いな大きなリュックサックを背負って追いかけてきている。

「何だ、お前も一緒に来るのか?」

「待って下さい。犯人がわかったってどういう意味ですか?」

「そのままの意味だ」

 東方は再び足早に階段をおりていく。彼女は必死にそのあとを追う。地下駐車場に入り東方は運転席に乗り込みシートベルトを締める。エンジンをかけると滑り込むように彼女は助手席に乗り込み、もう一度東方に問う。

「一体、どういうことですか。教えて下さい」

「警察ってやっぱりいい加減ですね」

「それ、たしか前田由紀子が言った言葉ですよね」

「ずっと引っかかってた。最近、マスコミで警察の不祥事が報道されたわけでもないからな。とすると前田自身が個人的な経験で警察に対して不信感を持っていることになる」

 彼女が感情的になっているのは山崎正彦に対してだけじゃない。彼が指摘したのは、前田由紀子は警察に対して感情的になっているという意味だったのか。

「調べたら面白いことがわかった」そう言うと東方は先程警官から受け取った資料を彼女に渡す。「前田由紀子は過去にストーカーの被害届を出している」

「ストーカー被害?」彼女は思わず聞き返す。

「一週間前だ。だが彼女の訴えは、見られている気がする、あとをつけられている気がするというものばかりで、実質的な被害が伴っていなかったため、市警察は取り合わなかった」

 だから、警察ってやっぱりいい加減ですね、という言葉になったのか。話を聞きに行った時、最初から自分達に対してどこか壁を作っていた理由がわかった気がして水沼はなるほど、とうなずく。

「もちろん山崎正彦が中島梢だけでなく前田由紀子のあとをつけ回していたわけではないだろう。警察まで被害届を出しにきた以上、ストーカーの姿を彼女は確認しているはずだ。さすがに元恋人なら気付くだろうが、山崎から暴力を受けても警察に訴えていないのに、ストーカー被害だけ訴えるとは思えない。山崎の部屋から前田由紀子の写真も出てきていないしな。前田由紀子をつけ回していたのは山崎正彦とは別人のはずだ。そしてそうであるならば、これですべて解決だ」

 え、と彼女は理解が追いつかず、間が抜けた声を上げる。

「すべて解決ってどういう意味ですか?」

「どういう意味って、どういう意味だ?」

「いえ、ですから、すべて解決だって」

「今、全部説明しただろう?」

 不思議そうにそう言うと東方は車を発進させる。

 あなたのスピードにはついていけません。


6:17 p.m.


 車でしばらく走ると、彼女は見覚えのある道にあれ、と小さく声をもらす。二人を乗せた車が数時間前と同じ場所に停車すると彼女は言う。

「前田由紀子の、アパート」

 車をおりると東方は迷わず一階の部屋の扉をノックする。どうしてまたここに来たのだろうか。この男には一体どんな景色が見えているのだろうか。まったく自分が気付かなかった些細なほころびや行動から、この男は幾多の矛盾を暴き、真実に至る道を見つけてきた。呼吸をするように人の心を暴いてきた。一度、彼の目を通して世界を見てみたいとも思うが、一方で、果たしてそれが幸せなことなのだろうかとも思う。他人が見え過ぎるということは、わかり過ぎるということは、時として自分を傷つける。わたしには思いもよらない苦悩や悪夢とこの男は一人孤独に戦っているのかもしれない。などと余計なことを考えていると、がちゃりという音と共に扉が開く。

 少しだけ開いた扉の向こうから前田由紀子は二人の刑事達を睨みつける。

「またあなた達ですか。一体何の用ですか?」

「申し訳ありません。確認したいことがありまして、お手間は取らせません。すぐに終わりますので」

「私は殺していません」

「そんなことはわかっていますよ」

 強い口調で東方が言い、前田由紀子は怪訝そうに彼を見る。

「どういうことですか?」

「山崎正彦を殺した人間はもうわかっています。ただ、それを証明するためには、あなたにたしかめなければならないことがあるんです」

「たしかめならなければならないこと?」

「中、いいですか?」

 前田由紀子は扉を開き二人を招き入れる。三人は玄関の小さい机で顔を突き合わせる。

「一週間前、市警察にストーカーの被害届を提出されましたね」

「ええ、相手にしてもらえませんでしたけど」

 彼女の言葉には棘がある。

「ストーカーは犯罪を立証するのが難しいんです」

「ええ知ってます。ですが、もう少し親身になってくれてもいいんじゃありませんか」

「おっしゃる通りです」

「こっちは夢でうなされるほど苦しんでいたんですよ」

「お気持ちお察しします」

「無神経で無礼な態度でした」

 突然東方は深々と頭を下げる。

「ご不安なところ、お力になれず本当に申し訳ありませんでした」

「別にあなたに謝ってもらいたいわけじゃありません。それに、ストーカーのことはもういいんです。終わったことなのでお話しすることは何もありません」

「ストーカーはもう現れなくなった、そうですよね」

 え、と彼女が思わず聞き返す。

「最近になってストーカーは現れなくなった。違いますか?」

「どうしてそのことを、」

「そしていなくなったと確信しているということは、ストーカーの姿を認識していたということですね。顔を見ましたか?」

「マスクをしていたのではっきりとは、でも、はい、顔は見ました」

「それは、」東方はそれからポケットから一枚の写真を取り出す。「この男じゃありませんでしたか?」

 誰? 水沼は怪訝そうにその写真を見る。彼女を見ると、前田は青褪めてぶるぶると震えている。「どうして。ええ、そうです。間違いありません、この男です。一体誰なんですか?」

 東方はそれには答えず満足そうにうなずく。

「ご協力、ありがとうございました」


7:41 p.m.


 未未市警察捜査一課課長室に刑事達が集まっている。

「これだけではまだ逮捕状の請求は不可能だ」

 課長の言葉に笹井は神妙な表情でうなずく。

「まあ、物的証拠は何もありませんからね」

「相手は、自分のことを頭がいいと思っているいけ好かない社会病質性人格、だったな」

 東方がたずねると、笹井の代わりに大島と杉本が答える。

「ああ、あいつは最低だ」

「胸糞悪くなる」

 なるほど、そううなずくと東方は口元を歪める。

「じゃあ、あの手しかないな」

 笹井がそうだな、と続ける。大島と杉本は顔を見合わせて笹井にたずねる。

「何だよ、あの手って」

「課長。取り調べをやりますよ」

 東方の言葉に、課長は眉をひそめる。

「証拠がないのに取り調べをするのか?」

「証拠がないから取り調べるんです。自白させるしかない」

「綱渡りだな」

「俺が今までに失敗したことが?」

「いつもだ」

「そうかもしれませんが、今回は違います」

 課長は笹井を見る。笹井は肩をすくめて見せるが、あの鉄方体の中にいる時の東方の実力は課長も十分理解している。

「うまくやれ、いいな」

 課長はそう言うと、全員さっさと部屋から出て行けと言う。刑事部屋に出ると笹井は腕時計を見る。

「仕事はもう終わるころだろう」

「何をするんです?」

 彼女の問いに、笹井は事もなげに答える。

「犯人と直接談判するのさ」


8:31 p.m.


 取調室を殺人課刑事達はBOXと呼ぶ。

箱、鉄方体、分厚い壁に区切られたコンクリートの立方体の中に机が一つ。机には向かい合うように二つのイスが置かれている。取調官側と容疑者側。今、市警察捜査一課刑事、東方日明は一人静かに取調官側の席に着いている。

ノックのあとに扉が開くと、笹井に連れられた一人の男が入ってくる。男は部屋を見回し、見知らぬ男の背中に眉をひそめて言う。

「何だね、この部屋は?」

 笹井がどうぞ、と容疑者側の席を促すが、久保田拓真はそれを無視して部屋を値踏みするように見ながら歩き回る。東方の背後の方にある壁一面に、よく反射するガラス板がはめ込まれているが、久保田はノックすると目を凝らしてガラスの奥を覗き込もうとする。

「ハーフミラーか。奥から誰かこちらを見ているのかな?」

 水沼が部屋に入り扉を閉じると、久保田はちらりとそちらの方を向く。小さな鉄方体に、三人の刑事と一人の容疑者。

「私は中島を殺害した犯人が判明したと聞いたからここに来たんだが、ここは取調室か何かかな?」

「申し訳ありません。犯人は判明しましたが逮捕には至っておらず、捜査上の秘密もありますので。内密に話が出来るのがここしかなかったものですから」

 笹井が遜った口調で久保田を部屋の奥へと案内する。警戒するように久保田は刑事達を見ながらゆっくりと席に着く。と同時に、東方は腰掛けたまま慇懃に一礼する。

「わざわざご足労いただきありがとうございます」

「君は?」

「市警察捜査一課の東方警部補です」

「察するに、君が中島の事件の現在の責任者、というところかな?」

 はい、と東方がうなずくと、久保田はその背後の笹井を一瞥する。

「今朝、彼にも言ったが私は忙しい身だ。就業時間外とはいえ、このような場所に呼びつけられるのは大変迷惑だ。我が社の大事な社員の事件だからな。捜査には最大限協力するようにと顧問弁護士にも言われているため同意したが、物事には限度がある。東方刑事と言ったな。三十秒だけやろう。早速始めたまえ」


**********


 大島と杉本は取調室横にある観察室からその様子を見ている。

 捜査で初めて対面した時のことを思い出し二人の刑事は不快感をあらわにするが、その男が市警察で最も性格が悪い男の取調室にいることから目を離せないでいる。

「毒を持って毒を制す、か」

 大島が吐き捨てるように言うと、杉本が低い声で言う。

「冷静に行けよ東方。奴のペースに飲み込まれるな」


**********


 鉄方体の中で東方と久保田は対峙する。

「それで、中島の事件の犯人が判明したとか。まさか例のストーカーではないだろうな」

 東方は少し間をおいて、それからはいと答える。

「犯人だと立証出来たのかね?」

 東方は再び、はいと答える。久保田は一瞬眉間にしわを寄せるが、すぐに元の表情に戻り言う。「なるほど、それはいい知らせだ。彼女も喜んでいるだろう。いい仕事をしたな」

「恐縮です。ちなみに、どうやって立証したと思いますか?」

 東方の問いに久保田は表情一つ変えずに答える。

「さぁ、犯人の部屋から凶器でも見つかったのかね?」

「残念ながら凶器はまだ見つかっていません。ですが、犯人のクローゼットの中から中島梢さんの血痕のついた衣服が見つかったんです。運が良かった。大抵は犯行に使用した衣類は処分されますが犯人は気付かなかったようです。ズボンのポケットの内側についた血痕に」

「ズボンのポケットの中」

「殺害後、人目を恐れて犯人は速やかに現場を立ち去っていますが、その時に不用意に凶器をポケットにしまったのでしょう。返り血で汚れた衣類はすべて処分したが、表から見たら汚れていないズボンを処分しそこなったんです。部屋には中島梢さんの盗撮写真も大量にありました。これで決まりでしょう」

「素晴らしい。前任者の名前は何と言ったか覚えていないが、彼等は態度だけは一人前だったが何の成果も挙げられなかった。だが君達は違う。君達はどうやら税金の無駄遣いはしていないらしい。いい報せを聞けて満足だ」

 それから久保田は腕時計を見る。

「ちょうど三十秒。君は私の時間を無駄にしなかった。誇っていい」

 そう言うと立ち上がろうとした久保田に、東方がたずねる。

「名前、聞かなくていいんですか?」

 何、と久保田が聞き返す。

「名前です。てっきり犯人の名前を知りたがると思ったのですが」

 二人の視線が交錯する。久保田は意味ありげに笑うと、ああ、そうだなと答える。

「無論、是非聞かせてもらいたい。犯人は何者だね」

 東方はじっと久保田を見たあと、それには答えず小さく首をかしげてみせる。

「どうして凶器だと思われたんですか?」

東方の唐突な質問に、何の話だねと久保田は聞き返す。

「犯行をどうやって立証したと思うかと聞いたら、凶器が見つかったのかとおっしゃったでしょう? あなたは今朝、中島梢さんのストーカーの存在を聞かされていました。容疑者が存在し犯行が立証出来たのであれば普通はこう思います。犯人が自供したと」 

 東方は机の上で組んだ手を見つめながら言う。

「何故、凶器が見つかったと思ったんですか? たしかに犯人が自供したわけではありません。実は自供出来ないんです。中島梢さんのストーカー、彼はすでに死亡しているんです。逮捕していないと言ったのはそういう意味です。自供させることはおろか、取り調べすら出来ません。まるで、そのことを初めからご存じだったかのようですね」

「申し訳ないがそのことに何の問題があるのかがわからんな。中島を殺害した凶器はまだ発見されていないと捜査の過程で散々聞いていた。それがたまたま頭に残っていただけだろう。それほど奇異なこととは思えないが」

「なるほど。私はてっきりあなたが、犯人が死亡しているとすでに知っていたのではないかと思いましたよ」

 久保田は一瞬相貌を引き締めるが、やがてすぐに表情を戻すと小さく頭を振る。

「君はそれで何かを証明したつもりになっているのか? 君への評価は取り下げた方がよさそうだな」

「中島梢さんの事件での凶器は量販店で買われたありふれたナイフです。それは当時の捜査でもお伝えしていたはずです。凶器から犯人は特定出来ませんし、かといって犯人が犯行に使用された凶器を自宅にそのままにしているとは普通は思いませんよ。凶器のことを最初に聞いてくるのはやはり不自然ではありませんか? 久保田さん、これは簡単な質問です。あなたは犯人がすでに死亡していることを知っていましたか? はいかいいえかでお答え下さい」

「答えは、はいだ。これでいいかな?」

 久保田のあまりにも堂々とした回答に、東方は呆気に取られたように両目を大きく開く。

「知っていたとお認めになるんですか?」

「私は犯人がすでに死んでいることを知っていた。何故なら彼がそう教えてくれたからだ」

 久保田はそう言うと、東方の後ろに立つ男を指さす。思わず振り返った東方と笹井の目が合う。笹井の顔には明らかに焦りの表情が浮かんでいる。

「え、どういう、一体どういう意味ですか?」

「今朝、彼が私に中島梢のストーカーの話をした時、写真を見せてくれたんだ。ストーカーの死体の写真をな。彼も死体だと認めていた。そう、私は最初から中島梢のストーカーがすでに死亡していることを知っていた。それなら中島を殺害した凶器が出てきたと考えるのはとても自然なことのように思えるがね」

 東方は予定が狂ったのか、落ち着きなく視線を漂わせる。

「どうした? 何か手違いでもあったのかね」


**********


 観察室で大島が舌打ちをする。

「おいおい、何をやっているんだ」

「大丈夫かよ、本当に」


**********


 東方は困惑したような表情のまま、机の上に写真を置く。

「あなたが見たのはこの写真、ですか?」

「そうだな」

 そうですか、そう答えると、東方は大きくため息をつく。いらいらした様子で机を指でノックし、それから意を決したように口を開く。

「数日前、彼は何者かに殺害されました」

「いや、私はそんな話に興味はない。そのストーカーがどうなったかも知ったことではない。中島の殺害が立証出来たのならそれで十分だ。私はもう失礼するよ」

「彼の部屋を捜索すると、部屋の壁一面に中島梢さんの写真が貼ってあったんです」

「どうでもいいと言ったはずだよ、東方刑事」

 そう言うと久保田は立ち上がる。部屋を出て行こうとする気配に、扉の前に立つ水沼は身構える。

「問題は彼がストーカーではなかったということです」

 立ち上がったまま、久保田は東方を見下ろして言う。

「奇妙なことを言うな。君達がストーカーだと言ったんだ」

「初めはそう思いました。しかし犯人の撮った写真は中島梢さんが亡くなるまでの一カ月間の、特定の時間と場所、具体的には彼女の通勤を狙った写真がほとんどでした。事実、通勤中に殺害されたことから考えれば犯人の目的は明白です。あの写真は殺人計画です。彼女の行動パターンを綿密に調べ上げ殺害した。一方で殺害の手口自体は素人です。とてもプロの殺し屋が依頼を受けてやったようには見えません」

 東方はそう言いながら机の上に写真を並べていく。前田由紀子、山崎正彦、そして中島梢の写真が順番に並べられる。東方はまず前田由紀子の写真を指さす。

「この女性をご存じですか?」

「知らない顔だな」

「この女性は、犯人が以前、交際していた女性です。金銭トラブルに暴力問題、犯人はこの元恋人に恨みを抱き殺害をほのめかしていたという証言があります」

「余程ひどい男のようだな」

「犯人は元恋人に対し殺意を持っていました。ですから中島梢さんではなく元恋人を殺害していたのなら理解出来ます。ですが実際には中島梢さんが殺害され彼女はまだ生きている。何ともちぐはぐです、そうは思いませんか?」

 東方は指先で中島梢の写真をノックする。

「どんなに調べても、部屋の写真以外に犯人と中島梢さんの接点が見つからないんですよ。あれだけ綿密に計画を立てた犯行にも関わらず、動機が生まれる背景がないんです。これは一体どういうことなんでしょうか」

 久保田は黙ったまま、眼鏡を外すとハンカチで丁寧に拭く。

「安物のスーツ」

「何です?」

「君のスーツだ。古い型で長年も着ているのか袖口は傷んでいる。服装を見ればその人間の人となりがよくわかる。上に立つ人間と、それに使われる人間、そのどちらなのか。私と君は違う人種だ。私達の間には明確な一線がある」

久保田は眼鏡をかけ直すと東方にきっぱりと言う。

「勘違いしてもらっては困る。私と君は同じ立場ではないんだ。わきまえろ。君ごときが私の時間を無駄にすることなどあってはならないことだ」

「お言葉ですがね、久保田さん。大事なことは、」

「私の許可なくしゃべるなと言っているんだ」

「大事なことはね、」東方は久保田の言葉を打ち消すかのように鋭い声で言う。「大事なことは、犯人がどうして中島梢を殺害したのか、ではないんですよ。つまりね、どうして元恋人を殺さなかったのか、そちらの方が重要なんです。そして、もう一人、同じように強い殺意を抱きながら相手を殺さなかった人間がいるんです」

 そう言うと東方はじっと久保田の方を見る。

「久保田さん。それはあなたですよ」

 前田由紀子、山崎正彦、中島梢の写真の横に、東方は久保田拓真の写真を並べる。

「あなたなら自分を提訴した中島梢さんを殺す動機がある」

「私は中島を殺していない。事件の日は海外にいたんだ。それは君達が一番よく知っているはずだ」

「そう、あなたは殺していません。そこが問題なんです」

 東方は山崎正彦の写真を指さす。

「中島梢殺害犯は何故、元恋人を殺さなかったのか」

 久保田拓真の写真を指さす。

「あなたは何故、中島梢さんを殺さなかったのか」

 東方は二枚の写真を並び替える。

「ちぐはぐな動機と完璧なアリバイ。写真を並び替えれば一目瞭然です。陳腐だがあえて言いましょう。これは交換殺人事件です」

 交換殺人事件。ようやく東方が描いていた景色が水沼の目の前に浮かび上がる。


**********


 観察室にいる大島と杉本にも動揺が走っている。

「一体、何を言い出すつもりなんだ」

「どうするつもりだ、東方」


**********


「交換殺人事件。そう考えればすべてが腑に落ちます。犯人の部屋にあった中島梢の写真も理解出来ます。何しろ素人が、見ず知らずの他人を殺さなければならないんです。入念な下準備が必要です」

 東方の言葉に久保田は動じず淡々と言い返す。

「交換殺人事件だと? 君は本気で言っているのか。これは小説やテレビドラマとは違うんだぞ。大体これが交換殺人であるならば、この男が私の代わりに中島を殺害し、私はこの男の元恋人、この女性を殺害したことになる。では聞こう。私は彼女を殺したか?」

「いいえ。彼女はまだ生きています」

「だとしたらどこに交換殺人など成立しているんだ?」

「これは未完成の交換殺人です。あなたは共犯者を裏切った」

 いつの間に笹井が久保田の横に立ち、ぐいっと肩を掴んで久保田をイスに強引に座らせる。久保田は座るなり笹井の手を振り払う。

「交換殺人。殺意を持つ人間同士が出会い、互いの相手を交換して殺害する。自分の獲物が殺害される時には完璧なアリバイを用意し捜査の安全圏に身を隠す。言うのは簡単ですが、

所詮フィクションの中にしか存在しません。交換殺人の目的はアリバイ作りです。なので共犯者が殺害する時に、自分は別の場所にいてアリバイを作るのが定石ですが、そうするには二つの殺人を、時間を分けて行う必要があります。しかし順番に殺害するのでは基本的に最初に手を下した方がより高いリスクを負うことになります。自分の手を汚したあとに共犯者が裏切れば、自分の本来の獲物は殺害されないばかりか、何の恨みもない人間をただ殺したことになります」

 それは事実だろうと水沼は思う。もちろん自首をすれば相手も殺人の共犯にすることは出来るが、交換殺人までして自首をする人間なんてまず存在しない。つまり理想的には二つの殺人は同時に行われるべきで、とはいえ自分が誰かを殺している時には当然誰にも見られるわけにはいかないから、自分のアリバイは作れない。とするとアリバイを作るには二つの殺人を遠方で同時に行う必要があるけど、それにはわざわざ被害者を遠方に配置する必要がある。同じ町に住む二人の被害者の場合は現実的じゃないし、仮にまったく別の土地に住む二人の被害者を犯人達がそれぞれの土地まで出向いていって殺害するにしても、土地勘もなく協力者もいない状態で確実に殺害するのはハードルが高過ぎる。遠路はるばる殺しに行って、ターゲットがその日に限って友人とずっと一緒にいる可能性だってあるんだから、結局のところ同時に二つの殺人を行うのは無理がある。つまり交換殺人では二つの事件は必ず順番に行われる、ということになる。

「二つの事件が順番に行われるからこそ、交換殺人を実現するには互いが互いを裏切らないという強い誓約が必要になります。しかしここにももう一つの落とし穴があります」

 東方の演説を、久保田は黙って口を閉じて聞いている。

「交換殺人は、被害者同士、犯人同士の関係性が遠ければ遠いほど効果的に捜査の目を欺くことが出来ます。犯人同士が利害関係者なら、すぐに委託殺人の線を疑われますからね。犯人同士が無関係だから効果があるんです。ですがまったくの無関係であるならば、犯人同士に信頼関係を築くのは難しい。確実な制約を結ぶことは現実的には不可能です。結論、交換殺人は現実には存在しません。挑戦した犯人はいても少なくとも皆失敗しています。あなたも結局、交換殺人を完成させることは出来ませんでした」

 未完成の交換殺人事件、か。彼女は口元に手を当てて考える。実際のところは交換殺人を成功させた犯人は存在するだろうし、もし成功していれば完全犯罪なわけだからわたし達が知らないだけという可能性は否定出来ない。でもたしかに今回に関していえば、交換殺人は完成しなかった。

「とはいえ、途中までのあなたは上手くやりました。弱みにつけこみ、言葉巧みに犯人をだまし、中島梢を殺害させたんです」

 久保田はイスの上で黙り込んだまま身じろぎもしない。

「あなたと共犯者がどうやって出会ったのかは知りません。彼が酔って元恋人への殺意を吐露しているところに偶然居合わせたのかもしれません。それぞれ殺害したい相手がいる二人の男が偶然出会い、あなたは交換殺人を持ちかけた。まったく見ず知らずの人間からそんな話を持ちかけられても普通は乗ってきません。だからあなたは彼の弱みを突くことにした。彼の場合は借金です」

 笹井はイスの背もたれに手を置くと、ぐいっと久保田の顔を覗き込む。

「彼が恋人に暴力を振るっていたことを聞いたんだろう? 元々暴力傾向があり、借金で首が回らなくなった人間なら、大金をちらつかせれば餌に食いつく」

「実際のところ、あなたが共犯者をどう言いくるめたかはわかりませんが想像は出来ます。自分が最初に彼の元恋人を殺害すれば、DV歴のある共犯者が当然疑われてしまう。生半可のアリバイでは警察は逮捕したあと自白させればいいと考える。少なくとも警察に監視されるため、自分の番になっても次の殺人を犯すのは容易ではない。殺せなければ金は手に入らない。一方で、自分は出張で海外に行くこともめずらしくない。その間に中島梢を殺害すれば警察に疑われようがない。中島梢殺害後も自由に動けるし、犯人は金が確実に手に入る。そう説得すれば、金目的の犯人は、自分が最初に手を汚すことを断れなかったはずです」東方はそう言うと、ぎっとイスに背もたれる。「そして彼は殺人を実行しました。強盗に見せかけ見事に中島梢を殺害しました。彼は見事に自分の役目を果たしました。ですが、」東方は小さく頭を振ると残酷な光を双眸に浮かべる。「あんたを甘く見過ぎたねえ。あんたは彼を裏切り、彼自身を殺害した」

 突然、表情や口調ががらりと変わった東方に、久保田は一瞬気圧される。

「あんたが最初から裏切るつもりがあったとは思わない。実際、あんたは彼女の尾行もしているしな。最初は交換殺人を完遂させるつもりだったのだろうが、運が悪いことに別れてからも元恋人に暴力を受けていた彼女は警戒心が強く、あんたの尾行に気付いていた。ストーカー被害を市警察に訴えられ、あんたは犯行を断念した。交換殺人事件は破綻した。だがこのまま手を下さなければ、共犯者と揉めるのは必至だ。いつ彼の口から交換殺人の秘密が漏れるかわからない。一方で中島梢殺害事件の捜査が打ち切りになったことを知ったあんたはこう思ったはずだ。人殺しなんて簡単だ。そしてこんなに上手くいくのなら、殺すべきは彼女じゃない。この交換殺人の秘密をあの男は知っている。自分は人の上に立つ人間で、彼はそれに使われる人間だ。そんな人間に自分がこの先たかられるなんてことは決してあってはならない。中島梢はもう死んだ。そして自分には完璧なアリバイがある。あとは共犯者が口を閉ざせば、この交換殺人を永久に消し去ることが出来る。そしてあんたは共犯者を殺害した」

そう、これは未完成の交換殺人事件。

「もちろんただ殺すだけでは不十分だ」笹井が言葉を続ける。「念には念を入れる。彼を殺害した上で、動機のある人間にその罪をかぶってもらえばいい。元恋人には彼を殺害する動機がある。尾行したおかげで彼女の行動パターンはすでに掴んでいる。彼女の職場の近くで彼女のアリバイのない時間帯を選んで殺害した。彼の財布や携帯電話を持ち去ることで顔見知りの犯行と匂わせた。彼女が犯人である決定的な証拠など必要ない。警察に彼女への疑いを持たせるだけでいい。それだけで、彼と直接接点のない自分は安全になる。あんたは頭がいい。だが頭のいい人間は、得てして頭の中だけですべてが計算出来ると思いがちだ。あんたは卒なくこなしたつもりだったのだろうが、そこに落とし穴があることに気付かない」

 笹井は机の上の前田由紀子の写真を手に取り、横に座る久保田の目の前に突きつける。

「ストーカーの被害届を出した彼女を殺害することをあんたはあきらめたが、時すでに遅しだったな。あんた、彼女に顔を見られていたんだ。あんたの写真を確認したよ」

「何だと、」

 久保田がうめき声のような動揺の声を上げる。

 東方は冷酷な口調で久保田に告げる。

「あんたは頭がいい。だから周りにも頭の良さを求めてしまう。それが落とし穴だ。まさか共犯者が犯行後も中島梢の写真を部屋にそのままにしておくとは予想していなかっただろう。犯行時に身に着けた服をそのまま取っておくなんて想像も出来なかっただろう。だが人間は理屈通りには行動しないものだ。彼を殺すと決めた以上、あんたは自分とのつながりを残さないようにするため、何だかんだ理由をつけて金を渡していなかったはずだ。中島梢の財布の中身も、使えば足が着くとか何とか言って使わせなかったはずだ。あんたは共犯者に衣類や凶器の処分について指示を出していたはずだが、借金取りに追われて食う物にも困っていた男が、一見汚れていない衣類を捨てずに取っておく可能性にあんたは思い至るべきだった。あんたはそうやって自分が見下している人間に足元を掬われたんだ」

 東方はふんと笑うとイスに背もたれる。

「まあ、あんたの気持ちもわかるよ。どうせ殺すなら、何の恨みもない他人より人殺しを殺した方が罪悪感を持たずにすし、共犯者殺しで逮捕されたとしても、そこから中島梢殺害事件まで捜査の手が伸びる可能性は極めて低い。まったくの無関係の男を殺したようにしか見えないのなら、道端で襲われ揉み合いになって誤って殺してしまったとも弁明出来る。自分はエリートサラリーマンで相手は借金まみれのフリーター。上に立つ人間とそれに使われる人間。物盗りに襲われたと証言すればみんな信じてくれる。あんたはそこまで計算して共犯者を殺害した。だが、彼の中島梢殺しが立証出来た今、あんたと彼がまったくの無関係だったと言い逃れるのは難しい」

東方はそう言うと、再び前にぐっと体を乗り出し久保田の顔を覗き込む。

「いかがですか?」

しばらくの沈黙のあと、久保田はおもむろに何度かうなずく。

「なるほど。面白いね」

 東方はにっこりと笑うと元の口調で久保田に静かにたずねる。

「自白と考えてよろしいですか?」

「前言を撤回するよ。君はなかなか頭が切れるようだ。私が男を使って中島を殺害し、その男の口を封じた、か。たしかに筋は通っているが、何か証拠はあるのか?」

「彼女があんたの顔を確認しましたよ」

「もし私が彼女のストーカーであるならば、当然違うが、私なら最低限の変装はしていただろう。そんなあやふやな証言が証拠になるとは思えんがね」

 久保田は平然と刑事達に告げる。

「大層な演説だったが、証拠がないことはわかっている。証拠があればこんな回りくどいやり方で私を呼び出さず、会社に乗り込み逮捕していたさ。それが出来ないということは、君の話は何の根拠もないはったりに過ぎないということだ」

 東方は山崎正彦の写真をずいと前に押し出す。

「あんたが殺した」

「素晴らしいアイデアを思いついて舞い上がったらしいが、そんな風に得意気に話をすれば自白が取れる、そう思ったのか? 君は自分を過信している。身の程を知れ。そうやって背伸びをしたところで、人に使われる人間が、私と同じ立ち位置に来ることなど夢のまた夢だ。君は私には決して勝てない」

「あんたが殺したんだ」

「だったら、証拠を見せてみろ」


**********


 観察室に課長が入って来る。大島と杉本に並んで課長は取調室を覗き込む。

「どうなっている?」

 思わしくありませんね、と大島が答える。

「あるのは状況証拠のみですからね。相手は相当頭が切れます。どうするつもりなのか。見切り発車だった感は否めません」

 課長は険しい顔をして、東方の背中を見る。


**********


 取調室に再び訪れた沈黙の中、久保田は腕時計を見るとスーツの襟元を正す。

「今度はだんまりか。どうやら底が見えたらしいな」

 嫌な雰囲気が取調室を包み込み、彼女は背中一杯に汗をかく。まずい。たしかに交換殺人だと考えれば理屈は通るが証拠はどこにもない。わたしの愛するミステリー小説なら犯人はこの辺りで自白するはずだが、生憎この現実世界では犯人は簡単に自白しないし、あとからいくらでも撤回される。要は証拠だ。証拠が必要だ。

「証拠が出たら、今度は秘書を通して連絡をくれたまえ」

久保田は立ち上がると出口に向かって歩き出す。

「証拠はある」

 何だと、久保田は立ち止まり振り返る。同時に彼女もえっ、と思わず叫びそうになる。証拠なんて本当にあるのか?

「証拠ならありますよ。凶器です」

「凶器?」

「彼の遺体の傷から凶器が判明しました。あなたは知らないかもしれないが、現在の犯罪捜査では遺体から凶器のことをかなり詳しく推定することが出来ます。傷口の形状を見るだけで細かい製品まで特定出来る。そして購入記録を当たれば、凶器からあなたが犯人だと証明出来ます」

「見苦しいからもうやめたまえ。君はどんどん自分を貶めている」

「これがはったりでなければ、あなたは終わりです」

「もうよしたまえ。あわれに思えてきたよ」

「とにかく、私は凶器から必ず犯人に辿り着いてみせますよ」

「もしそんなことが出来るなら、何故君達は今まで中島を殺害した犯人を見つけられなかったんだ?」

 久保田の一撃に東方は黙り込む。

「ぐうの根も出ないかね?」おい。それから久保田は東方の背後の壁にある鏡に向かって大きな声を上げる。「そっちで見ている奴がいるだろう。彼はもう終わりだ。いい加減止めてやれ」

 取調室を沈黙が包み、勝ち誇ったように久保田は刑事達を見回す。「それじゃあ、私はこれで失礼するよ」

 久保田は正しい。これはただのはったり。久保田拓真が犯人なら、山崎正彦を殺害した凶器は量販店で買った足がつかないものを選んだはずだ。凶器から辿り着くことなどそもそも不可能だ。だが、

「どうして今、中島梢殺害事件を持ち出したんです?」

 うつむいたまま東方が問う。

 ざわり。彼女の脳の奥に、東方の声が響く。

「質問の意味がわからんが」

「君達は中島梢殺害犯を凶器から見つけられなかった。そうおっしゃいましたよね。どうしてそんな話を急にしたんですか?」

「何を言っている。同じナイフだろうが」

「ナイフ?」

 東方はそうつぶやくと、ゆっくりと久保田の方を振り返る。

「どうして彼が殺害された凶器が、ナイフだと知っているんです?」

 東方の言葉に一瞬、久保田は息をのむ。

 東方は立ち上がると山崎正彦の写真を手にし、久保田の方にゆっくりと歩いていく。

 久保田の横に立つと写真を見せながら東方は言う。

「死体の顔しか写っていません。私はあなたが彼を殺したと言いましたが、刺殺とは一言も言っていないんですよ。どうして凶器がナイフだと知っているんです?」

 久保田は一瞬顔色を変えるが、すぐに平静さを取り戻し言い返す。

「違う、違う、違う、そうじゃない。馬鹿め、君は何て愚かなんだ。揚げ足をとってやり込めたつもりか? いいか、凶器がナイフだということを私が知っていたとしても、それは何の証拠にもならないんだ。何故知っているのか。簡単なことだ。彼がナイフで殺害されたということはすでに報道されているんだ。君は新聞を読まないのか? この街中の人間が知っている。彼が、ナイフで殺されたと」

 東方は困惑したようにたずねる。

「新聞?」

「昨日の夕刊だ。警察にもあるだろう。ここに持ってきたまえ」

 東方が笹井を見る。笹井は黙って取調室から出て行く。


**********


 観察室では三人共無言になっていたが、大島が我慢出来ず課長に言う。

「いったん、止めた方がいいんじゃありませんか? これ以上あの男を刺激すれば、名誉棄損で市警察は訴えられかねませんよ」

「もう少し待て」


**********


 取調室では東方と久保田の睨み合いが続いている。水沼は部屋の隅で立ち尽くし、その様子を見つめている。しばらくして、新聞を持って笹井が戻って来る。

「貸したまえ」

 久保田は新聞を奪い取ると、机の上で新聞を広げる。

「これだ、見たまえこれを。山崎正彦さん(32)が高白区の路地裏で、ナイフで刺され死亡した状態で発見されました。凶器がナイフであると新聞にしっかり書いてある。よく見るんだ」

 東方は困惑した顔で新聞を見る。

「駄目な奴というのは、何をやらしても失敗する。君のことだ、刑事さん。君のような人間が私の前に立つこと自体、おこがましいのだ」

 勝ち誇ったような久保田に、東方は消え入るような声で言う。

「もう一度、言ってもらえませんか?」

「何をだ」

「誰が、ナイフで殺された、と」

 久保田が怪訝そうに見ながら新聞を指さす。

「だから、ここだ。ここをよく見るんだ。山崎正彦さんが高白区の路地裏で、ナイフで刺され死亡した状た、」

 久保田は思わず自分の言葉をそこで止める。久保田の指差す新聞記事を東方が同じように指差し、それから残酷な笑みを浮かべる。

「引っかかりましたね」

 久保田の顔色がさっと変わるのを見ながら、笹井が笑うように言う。

「あんた、今、山崎正彦を確認したよな」  

久保田は自分が策略に嵌ったことを理解したのか、真っ青な顔面に脂汗が浮かんでいる。

「本当はナイフの時点で自白してもらえると思っていたんですがやはりしぶとい。ですが、罠というのは二重三重に仕掛けておくものなんです。取り調べの最初で、どうして凶器が見つかったと思ったのかという話をしたでしょう? 私はあなたに量販店のナイフから足はつかないと説明しました。それが刷り込まれていれば、山崎正彦の殺害にも当然量販店のナイフを使っただろうあなたは、凶器から自分が疑われるはずがないと思い込む。だから理不尽に凶器のことで追い詰めれば山崎正彦がナイフで殺されたことを口走る。そしてナイフで殺されたと知っていたことを追求すれば必ず新聞記事を持ち出してくる。思った通りでしたよ」

 ああ、そんな。彼女はぶるりと体を震わす。最初から始まっていたのか。この取り調べ。久保田を罠に嵌めるために、全部仕組まれていたのか。

 東方はふんと笑うと何度か首を振り、冷酷な表情で久保田を睨みつける。

「それで、あんた、中島梢殺害犯が、どうしてこの死亡記事の男だと知っているんだ?」

「君達が、山崎正彦だと、」

「俺達は一度も、山崎正彦の名前を口に出していない」

 久保田は混乱し始めているのか、机の上の山崎正彦の写真を指さす。

「この写真、この顔を、」

「どの新聞にも山崎正彦の顔写真は載っていない」

「ニュースで見たんだろう」

「生前の写真を警察もまだ手に入れていないんだ。当然メディアでは一度も山崎正彦の写真は報道されていない。名前と年齢、性別だけだ」

「違う、君達が言ったんだ」

 笹井が追い打ちをかけるように言う。

「今朝、あんたに初めて写真を見せた時にも名前は教えなかった。死んでいることは認めたが、いつ死んだのかは教えなかった」

「あんたは何故、名前を知るはずのない中島梢殺害犯と、この死亡記事とを結びつけることが出来たんだ? あんたが殺したからだ」

 久保田の頭の中でめまぐるしく計算が行われる。必死に、必死に、逃げ道を探る。逃げ道を手繰り寄せる。

「そうだ、凶器。そう、君は先程こう言った。私が彼を殺害したことがばれても、揉み合った時に誤って殺したと証言すればいい、と。揉み合ってつい殺してしまうとしたら、最も連想しやすい凶器はナイフだ。君の発言で私は犯人が刺殺されたと思い込み、そこからその新聞を思い出したに過ぎない」

「順番が逆だろう。あんたは新聞を読んでいたから凶器がナイフだと知っていた、さっきはそう言ったじゃないか」

「勘違いだ。凶器がナイフだと思い込み、その新聞記事を思い出した。そうだ。それが真実だ」

じゃあ、あんたは。笹井がぐいっと言葉の刃を久保田に突き付ける。「凶器がナイフだというだけで、偶然昨日の夕刊の山崎正彦殺害事件を思い出した、そう言うのか?」

 笹井の言葉に必死の形相で久保田は言い返す。

「印象に残っていたんだ。その新聞記事が。中島梢のストーカーなら若い男だろう。若い男が刺殺される事件なんてそんなに多くはない」

 入ってくれ。笹井が声を上げると、警官が取調室に入ってきて、机の上に新聞の束を置く。

「この一週間の新聞だ。見ろ、三日前にはゲームセンターのトイレで若い男性が刺殺された事件がこんなに大きく載っている。一昨日の朝刊には質屋強盗犯が仲間割れして一人が刺殺されたニュースが一面を飾っている。そして今日の朝刊。知っているだろう? 押し込み強盗の事件。若い男性の投資家が家で刺殺されたんだ。その中からどうしてこんな小さな夕刊の三面記事を選んだんだ?」

 東方が新聞をめくりながら言う。いくつかの記事は太いペンでぐるりと囲まれている。

「こっちには三十代の男が、バーで喧嘩となり刺された事件が載っている。彼はその三日後の新聞で、病院で亡くなったと報じられている。こっちには四十代のタクシー運転手が強盗に刺されたとある。覚えているかどうかは知らないが、俺は最初に、中島梢のストーカーは数日前に殺害されたとあんたに説明した。数日前と聞けば、昨日の夕刊のこんな小さい記事よりも、三、四日前のこちらの事件を普通は思い出すだろう」

「違う、違う、これは何かの間違いだ。君達が言ったんだ。君達が口にしたんだ。山崎正彦だと、だから、」

 無駄だよ。笹井がばっさりと切り捨てる。

「取り調べの様子はすべてカメラに記録されている。俺達は一度も山崎正彦の名前を口にしていない」

「いいか、君達は何も証明していない。そう、そうだ。いいだろう、認めよう。私はその女性、前田由紀子のストーカーをしていた。恥ずかしい話だが一目ぼれでね。彼女のストーカーをしていたんだ。それで偶然知ったんだ。山崎正彦という元恋人の存在を。私は、そう、以前から知っていたんだ。その写真の男が山崎正彦だと」

 東方と笹井は揃って下品で甲高い声で笑う。

「おいおい、それじゃああんたは、山崎正彦のことを以前から知っていたと認めるんだな。だとすると中島梢殺害事件における、あんたの委託殺人だという線がより濃厚になるが、それでもいいんだな」

「違う、違う、これは、これは何かの、」

「取り調べの最初で、あんたが山崎正彦の死体の写真をすでに見ていたと言った時、あんた動揺した俺のことを見くびっただろう。簡単にやり込める、そう思っただろう。あんたに見下してもらいたくてわざとやったんだ。あんたみたいなタイプの人間はな、自分が勝ったと思った瞬間にぼろを出す。引っかかると思ったよ」

 呆然自失で立ち尽くす久保田。笹井は久保田に歩み寄るとネクタイの歪みとスーツの襟を直す。

「さ、これでいい。高級スーツが台無しだ」

「私は負けていない」

「いいや、今日、あんたの会社で山崎正彦の写真を見せた時、あんたこう言ったんだ。殺された人間の写真なんて見たくもないって。俺は死体の写真であることは認めたが、殺されたなんて一言も言っていない。あんた、最初から負けてたんだ」

「水沼、」笹井はそう言うと彼女を見る。「手錠は持っているか?」

 彼女は高ぶりを必死に抑え、それから力強く笹井に答える。

「はい」

「権利の説明をしてやれ」

 彼女がちらりと東方を見る。目が合うと東方は好きにしろ、とだけ言う。彼女は久保田に手錠をかけるとお定まりの口上を伝える。

「あなたには黙秘する権利があります。あなたには弁護士を呼ぶ権利があります。あなたの証言は裁判で不利な証拠として採用されることがあります」

 警官が連れて行こうとすると久保田は大声を上げる。

「私を誰だと思っている。私は上に立つ人間、君達が私に勝てるはずなどないんだ。勘違いするな。君達は絶対に私には勝てない。君達の言いがかりなどすぐに覆してやる。君達は何も証明していない。何も証拠などない。名前を知っていたからなんだ。裁判ではそんなもの通用しないぞ。私が彼を殺した証拠など、どこにもないんだ」

 東方は動じることなく久保田に言う。

「どうかな。今、お前が山崎正彦と最後に食事をした店の聞き込みを続けている。山崎正彦がお前と一緒にいたことを、きっと誰かが覚えている」

「はったりだ。私は食事なんてしていない」

「ニジマスとカボチャのパイは美味かったか?」

 久保田の顔がぐしゃりと歪み、警官ががっしりとその腕を掴んで連れて行く。

「私を甘く見るなよ。私は絶対に負けない」

「まあ、頑張れ」

 久保田が連行され取調室の扉が閉じると、東方は笹井と水沼の方を見て言う。

「あの男も一つだけは正しかったな」

 東方が言うと、二人は顔を見合わせる。

「俺のことを、態度だけが一人前で何の成果も上げられなかった前任者とは違うと言った」

 東方が言い終わると同時に、観察室から大島がばんとマジックミラーを叩く音が聞こえる。東方はふんと鼻を鳴らすと、それじゃあ俺は用があるからと取調室を出て行こうとする。扉のところで振り返ると東方は言う。

「あいつのことを胸糞悪くなる最低の奴だって言わなかったか?」

 まあ、そうだなと笹井は答える。

「大したことなかったな。俺の方が嫌な奴だ」

「多分な」

「負ける気がしないね」

 そう言うと部屋から出て行き扉がばたんと閉じる。


9:00 p.m.


 未未市警察のレンガ造りの建物を見上げると、街灯の明かりで橙色に輝いている。笹井は市警察前に停めてあるMK-1の車体にもたれかかり、歴史ある建物をぼんやりと見ている。初めてこの建物に足を踏み入れたのはいつだったか。まだ何も出来ない子供だったな。彼女みたいに。入口に顔を向けると、水沼が小走りに出てくるのが見える。

「準備はいいか?」

「お腹は空いています」

「お前、何しに行くかわかっているのか?」

「聞き込みするのは地中海料理の専門店で、今は夜です」

「遊びじゃないぞ」

 そう言うと、笹井は歩道を歩き出す。

「車で行かないんですか?」

「俺に飲酒運転させるつもりか?」

 水沼はひゅうと口笛を吹くと、はねるように小走りで笹井の背中を追う。


9:21 p.m.


 夜の刑事部屋はめずらしく電話の音も鳴りをひそめ静まり返っている。

使われていないはずの取調室に煙が漂い、その中で一人の男が顔の前で祈るように両手を合わせて目を閉じている。机の上の缶コーヒーの空き缶にはタバコの吸い殻が押し込まれている。イスに深く背もたれて、何かぶつぶつとつぶやいていると突然取調室の扉が開き、一人の男が入って来る。

「ひどい取り調べだったな」

 課長の言葉に東方はつぶやくのをやめ、目を開けると顔を扉の方へと向ける。

「物証は何もありませんからね。山崎正彦殺害については状況証拠のみ、中島梢の殺人教唆についても金銭の授受は確認出来ていません。山崎正彦の財布や携帯が見つかればいいんですがね」

「山崎正彦の爪に残されていた繊維は?」

「当然山崎正彦を殺害する際にはあの高級スーツは着ていなかったでしょうし、返り血を浴びた衣類は処分済みのはずですからね」

「見通しは明るくないか」

「山崎正彦が中島梢を殺害したのは間違いないでしょうが、すでに山崎正彦が死んでいる以上、容疑者死亡で捜査は終わりです。久保田拓真の委託殺人の証明にはまだ時間がかかるでしょうね」

 東方は小さく頭を振る。

「どうして証拠が揃うまで待たなかった?」

「山崎正彦と久保田拓真を結びつける唯一の証拠は、前田由紀子へのストーキングだけですからね。彼女の記憶があやふやになれば終わりです。それに時間が経てば山崎正彦の名前も顔写真も流出するでしょうから。待っていていい結果が出るなら待ちますが、勝負をかける時期でしたよ」

 ふうと東方は大きく息を吐く。

「中島梢殺害事件は捜査の途中で事実上凍結、前田由紀子のストーカー被害は捜査すらされませんでした。市警察も分署も、人手不足、人手不足。俺達は忙し過ぎます」

 課長は何も言わずに机の上の資料に目を向ける。机の上にはたくさんの資料が積み重なっている。

「それで、そっちの件については何かわかったのか?」

「いいえ」

 東方は証拠品袋に入った鍵を手に取る。鍵には血痕が付いている。

「一体、誰のでしょうね」

 課長は扉のところから東方をしばらく見て、それから部屋から出て行こうとする。

「東方、」

「何です?」

「署内は禁煙だ」

 東方はふんと鼻を鳴らすと課長を見る。

「知るもんか」

 課長は何も言わずに部屋を出て行く。

扉が閉まり、東方は再び自分の世界に潜っていく。

深く深く、もっと深く。


20240223

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ポケットの中の殺意 眼鏡Q一郎 @zingcookie

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