コンビニアイス・アライアンス 〜甘くて冷たいふたり同盟〜

野森ちえこ

第2話「贅沢の象徴」

【薮坂さんの第1話はこちら】

https://kakuyomu.jp/works/16818023214000463302/episodes/16818023214024029751


 結局アパートまで持ち帰ってしまったあずきバーには、いったん冷凍庫にて待機してもらうことにする。

 この冷えこむ二月の深夜二時すぎ。たかだか五分や十分、外に出たからといって溶けだすような軟弱なアイスではないだろうけれど、どうせ挑むならばベストコンディションの相手に挑みたい。


 あのメガネのお兄さん。変な顔してたな。


 いつも行くコンビニで時々見かける人だ。いや、コンビニのアイス売り場でよく見かける人といったほうがより正確だろうか。

 そう、彼は私とおなじく真冬でもアイスを買う人種だった。

 いつ見ても顔色が悪くて、どこかくたびれた空気が全身にまとわりついている。メガネの奥に見える眼光は鋭く、なんとなくふつうの会社員ではなさそうな雰囲気だということも記憶に残っていた一因かもしれない。


 もちろんすれちがうだけで、今日まで言葉をかわしたことはなかったのだけど。

 コンビニまえのベンチであずきバーの封を切ろうとした瞬間、店から出てきた彼の顔には『まさか、そこで食べるの……?』というセリフがデカデカとはりついていた。


 まあ、そりゃあそうだよね。と思う。

 冬のアイスは、あたたかい部屋、もしくはコタツでぬくぬくしながら食べるのが醍醐味である。

 逆の立場だったら私だっておなじような顔をしただろう。

 ネットには差し歯が割れたなんて書きこみもあるような、アイス界いちハードで硬派なあずきバーに、この二月の寒空の下で挑もうとしていたのだから。


 とっさに誤魔化してしまったけれど『ここで食べたら悪い?』といえる自分だったなら、もうすこしちがう人生になっていたのだろうか。なんて思う。


 最近たまに耳にすることがある、身内の介護や家事をになうヤングケアラーと呼ばれる子どもたち。

 私もたぶん、そのヤングケアラーというやつだった。


 ❅


 私の家は離婚家庭だ。

 両親が離婚したのは私が十一歳のときだった。今どきめずらしくもないけれど、その原因もまた、父の不倫と借金というありきたりなものだった。

 そうして母はあれこれ考慮したすえに、私をつれて実家に身を寄せることにしたのである。

 

 最初はいたって平和だった。

 離婚後、幸運にも以前働いていた会社に復職できた母は帰りが遅くなることも多かったけれど、祖父母のおかげで私がひとりになることはほとんどなかったから。


 しかし私が中学一年生になったばかりのころ、祖母が脳梗塞で倒れたことで状況が一変してしまった。


 一命はとりとめたものの後遺症による右片マヒが残り、さらに認知症も発症。

 訪問サービスなど、つかえるサービスはそれなりに活用していたけれど、それでも家族にかかる在宅介護の負担は重い。


 フルタイムで働く母は残業も多く、家のことは祖母にまかせっきりだった祖父はほとんど戦力にならない。

 結局、学校以外の時間を自由につかえる私が主たる介護者とならざるをえなかった。


 施設にいれればよかったのにと人は簡単にいうけれど、施設にはいるのだって無料ただではないのだ。

 うちの経済状況では民間の施設などは高くてとても入居できないし、費用負担の軽い公的施設は入居待ちで何年もかかるのがあたりまえ。庶民には、選択肢などあってないようなものだった。


 いつしか部活も、友だちと遊ぶことも、勉強ですら、自分がなにかを『やりたい』と思うことに罪悪感をおぼえるようになってしまった中学時代。

 高校にはどうにか進学したものの、アルバイトと介護に忙殺される毎日。大学への進学など、考えられるはずもなかった。

 しかし私は就職まで介護業界をえらんだ。べつに介護が好きだったからじゃない。当時の私にはほかの道を探す気力も体力もなく、介護それしかやれることがなかったのだ。

 なかば自動的に身についた経験とスキル。私にとっては思考停止で働ける、ある意味では楽な世界だと思ったから。


 私の就職を機に母が働きかたをパート勤務に変え、祖母のメイン介護者も母にバトンタッチした。

 

 あれから八年。

 職員の年齢が比較的高いこの業界では、同僚も後輩も、ほとんど全員が二十六歳の私より年上である。


 それなりに責任ある立場となって五年が経つけれど、実年齢よりいくぶん幼く見えるらしい容姿もあって、初対面の利用者家族などからはまず間違いなく『頼りない新人』だと思われる。後輩からもなめられる。


 以前はそれが気になって、立ち居振る舞いとか話しかたとか声のトーンとか、いろいろ研究したこともあるけれど、最近はどうでもよくなってきた。

 もとから低かったモチベーションが、今や枯れ果てている。


 利用者や家族の気持ちに寄りそうだとか。相手の立場で考えるだとか。共感が大切だとか。

 教科書やマニュアルにはもっともらしいきれいな理想がならんでいるけれど、一歩現場にはいれば一日中介護士に暴言をあびせつづけるようなじいさんもいるし、介助のたびにひっかいたりつねったりしてくるばあさんもいる。

 老人の力なんてたかが知れていると思ったら大間違いである。

 理性や脳のストッパーが壊れている、力加減というものができない人間の握力のすさまじさといったら。

 介助するためには抱えたり支えたりどうしたって密着することになる。

 身の危険が、いつもすぐそこにあるのだ。

 こちらとしては、猛獣の檻に丸腰ではいるような気分である。


 その労働環境に見あわない低賃金なブラック業界に人が集まるはずもなく。つねに人手不足にあえいでいるような状況のまま身体拘束ゼロをかかげ、ベッドを柵で囲うのも虐待になるという。そのくせ転倒でもしたら介護士はなにをしていたのだと責められるのだ。

 やわらかな心で接していたら、こちらのほうがあっというまに壊されてしまう。


 仕事として介護にたずさわるようになってからというもの、たまに自分でもゾッとするくらい感情が動かなくなった。

 目のまえにパニックになっている人がいるとこちらは返って冷静になったりするが、それと似たようなものだろうか。

 それとも単純に私がつめたいだけなのか。

 看取り状態だった利用者が亡くなったときに号泣していた介護士もいるくらいだ。そのときは、家族より泣いてる介護士とかどうなの——と正直引いてしまったのだが。やはり私が薄情なだけなのかもしれない。

 そんな日々を生きるなか、三年ほどまえに祖父が亡くなり、昨年とうとう祖母も息をひきとった。


 そうして私は、二十五歳にしてはじめて人生の自由を手にいれたのである。


 ❅


 とりあえずワンルームの賃貸アパートでひとり暮らしをはじめてみたものの、いきなりさしだされた自由に私は途方に暮れてしまった。


 自分の世話だけすればいい生活。

 自分の時間を、自分のためにだけつかえる生活。

 熱いものを熱いうちに、つめたいものをつめたいうちに食べられる生活。


 それはきっと、あたりまえに享受してもいいことなのだと思う。

 しかしその『あたりまえ』が落ちつかない。終業後や休日もなにをしたらいいのか時間を持てあましてしまう。

 人にいえば、好きなこと、これまでやりたくてもできなかったことをやればいいじゃないかといわれるだろうけれど、それがあれば苦労しないのである。


 自分をほったらかしにしすぎたツケだとでもいうのか。

 友だちもいなければ恋人もいない。好きなこともやりたいことも、私のなかには存在していない。

 くわえて自分のために時間をつかうことに罪悪感がつきまとうときた。八方ふさがりである。


 そんなモヤついたひとり暮らしのなか。

 コンビニでひとつ、アイスを買った。

 パナップの王道フレーバー、グレープ味。

 何度かリニューアルしながら四十年以上つづいている、グリコのロングセラーアイスだ。

 

 現在は渦巻き状に充填されているフレーバーソースだけれど、子どものころに食べたのは縦ソースだった記憶がある。リニューアルまえの初代パナップだ。


 グレープソースの酸味と、長いスプーンじゃないと食べられない特別感が子ども心にうれしくて大好きだった。

 たぶん当時から、アイスは私にとってささやかな『贅沢しあわせの象徴』だった。

 それはまだ祖母が元気で、両親もそろっていたころの記憶。その思い出のおかげだろうか。

 いま、アイスは私が罪悪感なく堪能できる、たったひとつのものになっている。

 そういえばあのころは、人なみにアイドルに憧れたり、将来を夢見たりしていたな……とついでのように思いだすけれど、いまとなっては苦笑いしか出てこない。


 そろそろいいかな。

 暖房もつけず、じっと待つこと三十分。

 もとから溶けだす気配などまるでなかったし、これだけ待てば充分だろう。


 もう深夜三時をまわっている。

 夜勤明けで、軽く仮眠をとるだけのつもりがぐっすり寝こけてしまってこの時間である。


 あずきバーをとりだし、いざ勝負。

 一口目、わかってた。まるで歯が立たないよね。

 二口目、表層がわずかにくずれ、勝利が見えた。

 三口目、気合いをいれてアゴに力をこめる。口中にお招き成功。

 

 ほんのり甘いような気はするけれど、冷えきった身体に迎えいれたあずきバーは、つめたいのか痛いのかもよくわからない。

 自分でもなにをやっているんだろうと思うけれど、自分の意思で食べるということの意味をすこしでも感じてみたかった。


 私はあらゆる介助のなかで、食事介助がいちばん嫌いだ。

 食べる気持ちがある人はいい。激しく拒否、抵抗する人もいい。イヤなのは、拒否の弱い人の口をスプーンでこじあけて食事をつめこむことだ。


 経口摂取にこだわる施設の方針により、食べる気持ちのない人、食べたくないという人にもあの手この手で半強制的に食べさせる。それはもう、介助という名の拷問だと思う。

 朝昼夕食に午前のお茶と午後のおやつ。ほとんど一日中、飲め食え飲め食えと強制される生活。私ならきっと気が狂ってしまう。


 私はこの先もずっと、介護の仕事をつづけていくのだろうか。

 考えると気が遠くなってしまう。

 一生の仕事だときまっているわけでもないんだし、べつに辞めてもいいのだと思う。けど、じゃあ辞めてどうするの? と自問すれば、好きなこともやりたいことも特にない、という堂々めぐり。


 いまの私にはあずきバーを冬に食べる自由があるけれど、いつか、あたたかくてやわらかい食事を口に押しこまれる日がくるのだとしたら、そのとき私は今日のあずきバーをどんな気持ちで思いだすのだろう。


 ふつうに噛めるようになってきたあずきバーを食べながらそんなことを鬱々と考えてしまう。

 つめたく暗い真冬の深夜は思考も重たくなっていけない。


 ——寒いので、気をつけてください


 ふいによみがえってきたのはメガネのお兄さんの声。

 もし、つぎに会えたら訊いてみようか。

 あなたにとって、アイスはどんな存在ですか? と。

 また変な顔されるかなと想像したら、ほんのすこし愉快な気持ちになる。


 深夜三時、ほのかに甘くなってきたあずきバーに私はいきおいよく歯を立てた。



  【薮坂さんの第3話につづく】


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