コンビニアイス・アライアンス 〜甘くて冷たいふたり同盟〜

薮坂

第1話「午前二時のあずきバー」


 はっとして目が覚めたのは、午前二時に届こうかという頃合いだった。いつものクセで枕元のスマホを確認するが、不在通知などはひとつも入っていない。よかった、不意の呼び出しはなかったみたいだ。


 悪夢のような二十四時間超の当番勤務を終え、家に帰って風呂を浴び、ベッドに潜り込んだのは確か非番の午後六時。かれこれ八時間も寝ている計算になるが、それでも当番勤務のダメージは癒えてない。

 一昨日からの勤務は文字通り不眠不休で、昼メシに買ったパンを真夜中過ぎに貪るという激務っぷり。我々警察官は自らの寿命を給料に換えていると言うけれど、それはまさしく真実だと思う。

 どうしてこの仕事を選んだのだろう。意味ない自問の午前二時。当然答えが返ってくるはずもなく、俺は考えるのをそこでやめた。


 ……とりあえず、腹が減った。晩メシを抜いてしまったから当然と言えば当然だ。普通の人ならこの時間の夜食なんて狂気の沙汰だろうけど、消費カロリーが常人の数倍ありそうな俺にとって、それは些末な問題だった。

 どうせ自分の肉になる前にそのカロリーは消費される。それに警察官には「食える時に食っておけ」という格言さえある。もしも災害などが発生すれば、そこから数日間、場合によっては数週間、補給なしの勤務が始まるからだ。

 ——はぁ、と溜息をひとつ。今それを考えたって意味はない。その時が来れば、その時だ。


 ベッドから這い出して、適当な服に着替えて部屋を出る。目的地はここから歩いて十分弱、駅前から少しだけ離れたいつものコンビニ。そこで食料を調達しよう。

 玄関で靴を履き、外に出て扉に鍵を掛ける。行ってきますを言わない生活はもう何年目になるだろうか。中途半端な時間に起きてしまった非番の夜は好きじゃない。柄にもなくこんな、センチメンタルな考えが頭に浮かぶからだ。



 ❄︎ ❄︎ ❄︎



 築十五年。ボロいアパートの廊下を歩くと、冷たい風がマウンテンパーカの隙間から入り込んで来た。エントランスを出ると外は極寒。二月の深夜は身体に優しくなく、吐いた息は僅かに煙ってすぐ消える。ダウンベストを着てこればよかったと思うが、もう戻るのも面倒くさい。俺は悴む手を擦りながら、深夜の散歩を継続する。


 この街は俺の地元に比べたらかなり都会だ。まぁ、東京みたいな本当の大都会と比べれば随分とショボいけど、それでも駅近くには今の時間帯でもちらほらと人が見える。金曜日……いやもう日付が変わって土曜日の深夜は、色んな人間が動いていた。

 酒で上機嫌になっているサラリーマン。こんな時間に誰かを待っていそうな女性。顰めっ面でタバコをふかす目つきの鋭い男に、道行く人間を品定めするように見遣る男。不思議と周囲を警戒しているような女性もいれば、どうしてか蹲って泣いているように見える若い女の子もいる。

 様々な人の人生が交差する、でも関わりは限りなく薄い都会の夜。地元の田舎にはない独特の空気感。別に都会が好きという訳じゃないが、こういう雰囲気は嫌いではなかった。


 家庭の事情から、高卒で警察官を拝命して早八年。この街に住み始めてからはもう五年。二十六歳を過ぎた何者でもない俺。そんな「何者でもない」人間が集まる都会は、妙に居心地が良いというか深く考えなくて済むというか、自分の役割をこなしているだけでいいから気が楽だ。

 当然、恋人もいなければ仲のいい友達もいなくて、これと言った趣味や特技もない、水でのばしたような薄味の人生。お世辞にも「良い人生」とは言えないだろう。

 でも、この街の人間は誰もそれを気に留めない。似たような人生の集まりだからか、はたまた他人に関わる余裕がないからか。

 ここは限りなく透明な存在になれる場所だ。自分がどれだけ小さくてつまらない、取るに足らない路傍の石でも、誰にもそれを咎められない。そういう意味では、ここには自由が溢れていた。


 こうなりたいとか、ああなりたいとか。そう思わなくなってもう久しい。ただ目の前にある、やらなければならないことをひとつずつ潰していく毎日。同時に自分が少しずつ小さくなっていく気もするが、別にそれでよかった。

 ボロいけれど住む家があって、キツいけれど仕事もある。そんな当たり前のことすら持ってない人だっている。警察官をしていたら、そういう人たちとは嫌でも関わりを避けられない。


 それらに比べれば自分はまだマシな方だ。そう、まだマシだ。コンビニで好きなアイスを買えるくらいにはマシ。だから俺は、コンビニでいつもアイスを買うのかも知れない。毎回毎回、コンビニに行くと冬でも必ずアイスを買うという自分ルールは、自分がまだマシだと思いたい表れだったとは——。


 なんて本当に意味のない考えで暇を潰していると、いつの間にか目的地のコンビニに到着していた。自動ドアが開いて店内に入った途端、掛けていたメガネが少し曇る。

 十数秒が経ち、ゆっくりとその曇りが晴れていったその時だ。


 ——彼女の横顔が、目に入ったのは。


 このコンビニでたまに見かける女の子、と呼ぶには少し年嵩だろうか。と言ってもまだあどけなさの残るその顔つきから、恐らく俺よりは年下なのだと思う。

 前髪が目元で切り揃えられた栗色のショートボブ。それがよく似合ういつもの女の子は、背筋をピンと伸ばす凛とした佇まいでそこにいた。

 もちろん彼女の名前は知らない。当然話したこともない。彼女のことを憶えているのは自分の職業柄と、そして彼女の買う商品の多くがだったから。

 そう、彼女も。冬でもアイスを食べる本物のアイス愛好家なのだ。このコンビニでその姿を何度か見ているし、現に彼女はアイス売場の什器前に立っている。


 彼女は静かに視線を落として、そして少しのあいだ動きを止めた。この位置からでは見えないが、今日はどのアイスにするか狙いを定めているのだろう。

 次の動きだしは氷が融けるような緩やかさで。おもむろに右手を動かすと、まるで書道か茶道を思わせるみやびな所作で、そのアイスをつまむように取り上げる。


 ……あのレトロなパッケージは、井村屋のあずきバーだ。アイスらしからぬ硬さが売りの、シンプルで素朴だけど味わい深い逸品。

 小豆、砂糖、食塩、水あめ。たった四種類の材料から作られるそれは、今も国民から愛されるロングセラー商品だ。

 新作が並ぶ中で、あえての定番というのは燻銀の選択だろう。目新しいモノじゃあないが、その実力で長いあいだ第一線に居続けている、まさに質実剛健な井村屋のあずきバー。


 彼女はゆっくりとした仕草であずきバーを目の前まで寄せると、じっとそれに注目する。そして何故か小さく頷き、くるりと身を翻してレジへと向かった。ちょうど、俺の立つ方向だ。必然、彼女とは向かい合わせになる。

 狭い通路をすれ違う時の、彼女の立ち居振る舞いは本当になめらかで。彼女がぺこりと小さく頭を下げた時、さらりと髪の毛が揺れた。それに合わせて、手に持ったあずきバーも揺れる。その場に残ったのは、かすかに漂う甘い香り。香水なのだろうか。不思議と彼女に似合っている気がした。


 俺は思わず振り返って、小さくなる彼女の後ろ姿をただ眺めて。「あの、」と声に出そうになるのをすんでのところで何とか堪える。


 ……危なかった。何を口走ろうとしていたのだろう。知らない人に、それも女性に声を掛けようとするなんて。こんな目つきの悪い俺が声を掛けようものなら、もう問答無用で声掛け事案だ。それは本当に笑えない。

 言い訳になるけれど、ただ彼女に訊いてみたかっただけだ。何故あずきバーを選択したのか。何故小さく頷いたのか。これだけ冬の新作が並ぶアイスコーナーで、何故あえて定番中の定番を選んだのか。


 彼女に一言声を掛ければ、善かれ悪しかれ何かが変わるのかも知れない。仕事に行って、家に帰って寝るだけの単調な日々が、少しは上向くのかも知れない。

 ここで声を掛けなければ何も変わらない。それだけは間違いない。だけど──。


 もう一度出し掛けた言葉を、俺は結局ごくりと飲み込んだ。

 これでいい。単調でつまらない日々は、そう簡単には変わらない。だからきっと俺は、ずっとこのままで生きていくのだろう。

 人付き合いが苦手で、面白いことひとつ言えなくて。人に自慢できることもなければ、誇れるような何かがある訳でもない。どこにでもいそうなただの人間。それが俺。


 ただ何となく生きていて、ただ何となくこの仕事を続けていて。だから大きな人生の目標もないし、仕事に対する悩みなんかも別に解決しようとしていない。俺が足掻いたところで組織は変わらないし、それならただ黙って仕事をしている方が圧倒的に楽だ。

 人間は易きに流れやすい。できれば楽な方がいい。たとえそれが、現実からの逃げだったとしてもだ。


 だけど少しだけ。いつもと違うことをしてみようと、俺はあずきバーを摘んでレジへと向かった。もろに彼女の影響だ。別に彼女との接点を求めている訳じゃないけれど、彼女のマネをしたって迷惑は掛からないだろう。


 俺は電子決済であずきバーとその他の食料を買い、袋に詰めてもらってコンビニを出た。途端に左から冷たい風。思わず顔をしかめるが、次の瞬間、俺はそれに気付いてもっと顔を顰めてしまうことになる。


 ——そこに彼女が居たからだ。あずきバーの彼女が、コンビニ前のベンチに腰掛けている。

 しかもこの寒空の下、まさかアイスのパッケージを開けようとしているのか? 気温は零度よりは高いだろうが、充分に寒い二月の深夜。こんな状況でアイスを齧るなんて、どうかしてるとしか言いようがない。

 俺が思い切り怪訝な顔をしていたからだろう。彼女は「違うんです」と小さく言うと、恥ずかしそうに顔の前で手を振った。


「今食べようとしてた訳じゃあなくて。確認です、ただの確認。きちんと凍ってるかなって。ほら、アイスってたまに溶けてるじゃないですか」


 こつこつと爪で、パッケージの上からあずきバーを叩く彼女は、とても微妙な顔で微笑んだ。何かを誤魔化そうとしているような、そんな苦笑い。

 ……やっぱり今ここで食べる気だったんじゃないか。でも別に彼女を咎めようとした訳じゃないんだけどな。どこでアイスを食べてもその人の自由だ。まぁ、この気温ではちょっとどうかとも思うけど。


「あの、それじゃあ私、帰りますね。おやすみなさい」


 彼女は座ったままぺこりと頭を下げて。そしてゆっくりとベンチを立つと、あずきバーを摘んだまま歩き始めようとする。

 俺は無意識に「あの、」と声を掛けていた。さっきは逡巡したけれど、今回はもう既に声が出てしまっていた。


「……おやすみなさい。寒いので、気をつけてください」

「はい、ありがとうございます。あなたも気をつけてくださいね」


 彼女はそう言って淑やかに笑って。そのまま夜に溶けるように去っていった。



 彼女が去った後、俺はなんとなくそのベンチに座って。コンビニの袋からあずきバーを取り出した。

 少し迷ったあと、レトロなパッケージを破って。そして勢いよくアイスの端っこに歯を立ててみる。


 ……カツリとした硬い歯応えと、底冷えしそうな本気の冷たさ。さらにはこの外気温も相まって、もはや味なんてカケラも感じない。


 彼女は本当にここでこれを食べようとしていたのだろうか。アイス界で最高硬度と謳われる、このあずきバーを。


 もしまた会えたなら。その時は彼女に伝えようと思う。


 深夜二時のあずきバーは、寒くて硬くて味がしませんでした、と。




【続】




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