崩壊の一手
「押されていますね」
薄雲の絹衣が体を流れていく。
奏上された言葉に、白亜の令嬢は静かに微笑んだ。
そこからは戦場が一望できた。
弾け合う雷の光舞も、生まれ落ちて死んでいく海獣たちも、人と竜の入り乱れる凄惨な闘争も全て。
湊の探知も東亜連国の警戒も全てを置き去りにして、彼女たちは上空二千メートルの高さにいた。
浮かんでいる。そう表すのが正しい。
乃愛の【空歩】とも違う方法で、彼女と細身の男は空にいた。
真っ白なドレスと顔を隠す薄衣は、あまりにも空に似合わず、もし目撃したものがいても幻覚を疑っただろう。
跪く男は、返事のない主に焦れるように真下へと視線を動かす。
その視線の先には、背を斬られ、倒れ込む竜胆の姿があった。
(東亜連国の精鋭………冥層のスキルをこれほど使いこなすか)
「………主よ。いかがなさいますか」
そう問いながらも、灰髪の男は主の眼差しがただ一人にしか向けられていないことを知っていた。
「――――迷いますね。このまま待つかあるいは助けるか。ふふ、どこまで踏み込めば死ぬのか私には分かりませんから」
「僭越ながら、人は銃弾一つで死んでしまいます。今この場で主の望みを叶えるのは時期尚早かと」
「………そうですか」
ヴェールの奥の声音は少し残念そうに響いた。
それでもその声はすぐに、軽やかな微笑に溶けて混ざる。
「私は彼の方へと行きましょう。ではここで暫しのお別れですね」
そう言うと、白亜の女性は消えた。
空に残ったのは灰髪の男ただ一人。主の指示が無い以上、彼はこの場で待つしかなかった。
□□□
「ジジイ!!」
日暮の叫びが戦場に響いた。
背から血を流した竜胆は、顔から浜辺へと倒れ込む。
「うっ………がッあぁっ!」
灼熱の痛みに呻き、それでも剣を離さないように固く手を握りしめる。
顔だけで振り向き、下手人の顔を見た。
そこにいたのは黒髪の青年だ。固く結ばれた口元に凛々しい眼元。
真面目な顔立ちをした冒険者に見えるが、よく見ればその防具には傷も無く、どこか違和感があった。
「――な、なんだお前!!」「支部長、大丈夫ですか!」「どこのクランだ!いきなりこんなことを………」
「ま、待て、お前等ッ!」
慌てて竜胆は冒険者たちを制止するが、その時には彼の腰から引き抜かれた軍刀が冒険者たちの体を襲う。
力と技が伴った剣技は、いともたやすく彼らを防具ごと両断した。
「貴様ら風情にストックを使うのは惜しい」
冒険者たちは半円を描くように男―――途刃を囲むが、踏み込む勇気のある者はいない。
背後の竜に気を取られるものも多く、包囲としては何もかも足りていない。
冒険者の一人に体を支えられた竜胆はじわじわと後退しながら途刃に問いかける。
「………お前さん、何の用だ?」
「何とは?この状況で目的を察せないのか?そんな頭で組織の長が務まるのか?」
「―――――」
答えを返そうとした竜胆の背後で、轟音が鳴り、顔に水がかかる。
そして大きな竜の鳴き声が響く。
それに混じり、悲鳴と助けを呼ぶ冒険者たちの声もまた竜胆の耳に届いた。
水竜の戦線は、竜胆ありきで構築されていた。すぐに戻るはずの彼が戻らないから、前衛がブレスの被害にあったのだ。
それが分かっても、彼は動けない。
その時、途刃の視線がちらりと水竜へと向けられた。
黒い瞳に恐怖の色は無く、ただ純粋にその巨体とブレスの威力を見ていた。
それはほんの一瞬の隙だったが、竜胆は弾かれたように地を蹴り、大剣を振り下ろした。
途刃は背後に跳び、反撃の刃を振り下ろそうとしたが、大地に触れた斬撃が浜辺の一角を消し飛ばし、その衝撃にさらに背後へと吹き飛ばされた。
竜胆は一気に距離を詰め、溜めの長い大剣では無く、防具に覆われた拳を振るう。
硬質な音を立て、その拳は剣に受け止められた。
(こいつ、いつ剣を抜いた?)
「なるほど。冒険者に助けられたか。少しは回復したようだな」
「へへっ、これもチームワークってやつだ」
背を支えていた冒険者は、こっそりと少しずつ液体の回復薬を背に振りかけていた。
「だが、全快はしていないだろう。無駄なあがきだ」
「どうだろう、なッ!」
竜胆は片手で大剣を振り上げる。それに対して途刃も全霊で刃を振り下ろした。
ぶつかり合った力と力が竜の断末魔の如き轟音を奏で、剣圧で周囲の全てを吹き飛ばす。
ここに途刃と竜胆の戦いが始まった。
「お前たちは水竜を抑えろ!討伐はしなくてもいい!」
「りょ、了解……!」
冒険者たちは水竜の相手へと戻り、ひとまずの戦線は保たれた。
しかしそれは砂上の楼閣だ。
途刃と竜胆は刃を合わせ合う。しかしそのたびに竜胆の背の傷は開き、血が滲み出す。
終わりは近いと当人たちが一番分かっていた。
そして日暮もまた――――
「――――ッ、どきやがれぇッ!!」
日暮は槍を振るい、魚竜を打ち倒す。
顔の中ほどが抉れ、頭蓋がのぞく。しかしその傷はたちどころに治っていく。
(再生能力!?今まで使ってなかっただろうが!)
まるで途刃と連動するように力を上げた魚竜へと日暮は黒槍を振るう。
しかしその動きは、焦りからか精彩さを欠いていた。
そして魚竜もまた、日暮の間合いに立ち入ることなく、粘液のブレスでの妨害に徹し始めた。
その人間臭い動きに普段の日暮であれば気づけただろう。だが今の日暮は竜胆のことで頭がいっぱいだった。
「―――どけぇッ!」
竜胆へと繋がる道を、魚竜のブレスが切り裂く。
ならばと魚竜の体を駆けあがり、土台にして飛ぼうとするが、魚竜は自身の肉体すら盾にして、執拗に竜胆へと近づけない。
(このままじゃあ、死ぬッ!ジジイが―――クソがぁッ!)
竜胆を襲う者が誰なのか、どうしてこうなったのか、そんなことは彼の頭には無い。
「―――ッ、ぉぁああああああっ!」
今日一番の咆哮と共に、彼は光となった。
振り下ろされる前脚による攻撃も無視して、深く胸元へと潜り込む。掠めた爪で切り裂かれ、血が舞っても、彼は執念で刺突を突き出した。
その時初めて、魚竜は―――否、その奥にいる不明は人の悪意を剥き出しにした。
ぴたり、と擬音が聞こえそうな急停止。ぶちりと魚竜の肉体から筋肉が千切れる音が聞こえるが、魚竜の肉体はあり得ない動きで黒槍の間合いの外で止まる。
――――槍の弱点、それは突き終わった後だぞ、坊主
幼い己へとかけられた言葉。修羅のようにダンジョンに潜る中でも忘れなかった言葉が、今になって蘇った。
穂先がほんの少しだけ魚竜の胸元を掠る。かつりという音が虚しく響き、次の瞬間魚竜はその首を伸ばし―――
「――――――ッ」
その右腕を肩から食い千切った。
急速な出血で視界が真っ黒に染まる。
体の芯が冷え、日暮は地面に倒れ伏した。
それを不明は魚竜の視界越しに見ていた。
「お疲れさまでした、七瀬様。あなたの欲望と愛は、実に都合がよかったですよ」
くすりと混じりけのない笑みと賞賛が、海の先で零れ落ちた。
(―――坊主っ!)
竜胆もまた、背中越しに日暮の命が尽きていくのを感じていた。
助けに行きたいという思いはあったが、それが出来る状況ではない。
振り下ろされる斬撃を受け止めるだけで、今の彼は精一杯だった。
そしてその時はきた。
「【
短いスキル名と共に、その斬撃は来た。
剣から目を逸らしてはいなかった。
だがその言葉を聞いた瞬間、竜胆は自分の視界が回るのを感じた。
(【途刃】不可視の斬撃?次は躱して―――――)
それを最後に意識は途絶え、彼の肉体と首は浜辺に落ちた。
「終わりだ。回収しろ、不明」
冒険者たちの嘆きも驚愕も置き去りにして、魚竜は動いた。
大口を開けて地面を滑り、その口で竜胆の死体と途刃を飲み込み、折り返す。
「――――ッ、魚竜がッ!?」「来るなぁ!!!!」「あぁああああ!!」
陣の真ん中を切り裂くように身を震わせて、魚竜は水竜の真横を通り、海へと身を潜らせる。
「支部長ぉおお!!!どこですかぁ!!」「ボスは!誰か手当てを!」「そんな暇ねえよ、水竜を殺せぇ!!」「―――来夏さん、指示を!!」
そう声をかけられた来夏は、びくりを身を震わせる。
竜胆と日暮がいない場合、最高位の指揮権を持つのは来夏だった。
当然、彼へと指示を仰ぐ声が集まる。
だが来夏は動かない。その肩を【狼牙の黒槍】のメンバーが乱雑に叩く。
普段であれば拳が帰って来ただろうが、その時は小さな悲鳴を上げただけだった。
「な、え、来夏、さん?」
「違うんだ、俺は来夏さんに立ってればいいって―――」
にへら、と笑う巨体の彼へと仲間たちの視線が注がれる。
その背後では人が吹き飛び、水竜に喰われた亡骸がシャワーのように降り注いでいた。
「―――お前、誰だよ」
「は、はは、俺は立ってればいいって……」
ここに蹂躙劇が幕を開けた。
水竜は今までに恨みを晴らすように【水魔法】を使い、冒険者たちを襲う。
水竜の戦線は破綻した。
□□□
次回更新日は、2024/6/28(金)の7:00です。
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